【9-2】花飾り
見上げた空は晴れ渡り、気持ちの良い青空が広がっていた。
セレンディア学園の周囲に到着した馬車からは、次々と高貴な身なりの貴族達が降りて、門をくぐっていく。
その光景を校舎の窓から眺めていたモニカは、緊張にぐっと拳を握りしめた。遂に学祭が始まったのだ。
学祭当日と言うと、ミネルヴァではとにかく生徒達が忙しく走り回っているイメージが強いのだが、セレンディア学園の学祭は流石貴族の子女が通う学園なだけあって、雰囲気が全く違う。
セレンディア学園では基本的には展示物、研究発表、歌、演奏、劇などの舞台がメインになるのだが、裏方や雑用の類は使用人達が殆ど引き受けるので、実際に舞台や発表の場に立つ生徒以外は、割と自由時間が多い。
では、舞台に立たない他の生徒達が何をしているかと言うと、招待客達の接待だ。
家族が来ている者は久しぶりの家族の時間を楽しむし、将来王宮務めを考えている者は自己アピールに余念が無い。
そのどちらとも無縁のモニカは、非常事態に備えて、フェリクスの視察巡回ルートを一定の距離を開けつつ追いかけていた。
フェリクスの視察ルートは概ね把握しているから、あとはなるべくフェリクスの視界に入らないようにしつつ、周囲に警戒していればいい。
廊下を歩いていると、前方の教室に入っていくフェリクスの姿が見えた。どうやら歴史研究会の展示の視察をしているらしい。
教室をそっと覗くと、フェリクスは複数人の貴族達と談笑をしていた。こういった接待も彼の仕事なのだ。
(この調子だと、しばらくこの教室から出てこなそう……)
教室から出てきたフェリクスと鉢合わせしてもまずいので、モニカは廊下の角を一つ曲がったところで足を止め、展示物を眺めるフリをした。
壁には野外劇場で行われる劇のポスターが貼られている。演劇は学祭の華だ。全校生徒の殆どがこの劇を観にくる。無論、フェリクスもこの舞台を特等席で観賞する筈だ。
(劇の時間まで、まだだいぶあるし……舞台周りに不審物が無いかチェックしておこうかな)
「失礼、モニカ・ノートン嬢ですか?」
背後から聞こえた声に、モニカはビクッと肩を震わせた。
一体誰だろう、とおどおどしながら振り向いたモニカは、限界まで目を見開く。
モニカの背後に佇んでいたのは、黒髪黒目に凛々しい雰囲気の大柄な青年。
チェス大会で対戦し、チェスを前提にモニカに婚約を申し込んだ男──「院」の学生、ロベルト・ヴィンケルであった。
セレンディア学園の学祭は、基本的に招待制だ。招待状が無いと入ることはできない。なのに、どうして彼がここにいるのか。
ロベルトは、ポカンと口を開けているモニカの顔をまじまじと眺め、何かに納得したようにふむふむと頷く。
「やはり、モニカ嬢ですね。前回お会いした時と雰囲気が違うので、人違いだったらどうしようかと思っていました」
そういえばチェス大会の日は化粧をしていたし、髪型も違った。普段のモニカを知らないロベルトが戸惑うのも当然だろう。
「今日の装いも、清潔感があって良いと思います」
「あ、ありがとうございます……」
モニカはぎこちなく笑いながら一歩後ずさる。だが、背後にあるのはポスターを貼った壁だ。モニカの薄い背中はあっさりと壁にぶつかった。
そんなモニカに、ロベルトは大股で一歩近づく。
「貴女にまた会いたくて、『院』の先生の付き添いという形で、無理やり同行させてもらいました」
そういえば、近隣校の教師陣にも招待状は配られているのだ。今更ながら、モニカは面識のあるミネルヴァの教師や教授が来ている可能性に気づき、さぁっと青ざめた。
(や、やっぱり、ラナにお化粧してもらうんだった……っ!)
ラナには夜の舞踏会の前に、着付けと化粧をしてもらう約束をしている。だから、朝の身支度までしてもらうのは申し訳なくて遠慮してしまったのだ。そのことが今になって悔やまれる。
モニカが内心頭を抱えていると、ロベルトは更に一歩距離を詰めた。
ただの顔見知りが向き合って話すには些か近い距離に、モニカの体が震えだす。気分は追い詰められた小動物だ。
「先日の件、考えて貰えたでしょうか?」
「せせせせせ先日の、件、って……」
「婚約です」
当然、考えていたはずがない。
チェス大会の日はバーニーとの邂逅や、フェリクスの護衛のことで頭がいっぱいだったのだ。正直に言うと、ロベルトのことは忘れかけていたぐらいである。
「あ、あの、わたし、こ、婚約は、その、ちょっと……」
「不都合な点があるのなら、遠慮なく仰ってください。自分にできる範囲で対処します。自分の全身全霊を尽くして、貴女を幸せにしてみせます」
わたしは潜入中の七賢人なので、ちょっと婚約とかは無理です……などと、言えるはずもない。
もごもごと口籠るモニカに、ロベルトはどこまでも実直な態度で言い募る。
「貴女のようなチェスを指す人を、自分は見たことがありません。しかもレディング先生が言うには、貴女はまだチェスを始めたばかりなのだとか。それならきっと、まだまだ成長の余地がある……自分と共に、チェスの高みを目指してくれませんか」
モニカにとって、チェスは楽しいものだけれど、あくまで選択授業の一環である。自分の人生を捧げる予定はない。
「わ、わわ、わたし、その、あの、えっと……」
なんと言えば、ロベルトは引き下がってくれるのだろう? だが、モニカが何を言っても、強引に論破されてしまう気がする。
緊張と混乱にモニカの血の気はどんどんひいていき、目が潤みだした。
ロベルトに悪意がないことは分かっているのだが、人見知りのモニカにとって、威圧感のあるロベルトは非常に恐ろしい存在だ。
目の前に立ち塞がる大柄な姿が、昔日の叔父の姿に重なる。自分を見下ろす大きな影。振り下ろされる拳。
(怖い、怖い、怖い、怖い、怖い)
無意識に手で頭を庇いそうになったその時、誰かの靴音が聞こえた。
「ロベルト・ヴィンケル。レディング教諭が校門付近で探していたぞ」
モニカが声の方を見れば、視界の端に映るのは美しいプラチナブロンドと、濃いブルーの目。
早足でこちらに近づいてくるのは、生徒会副会長シリル・アシュリーであった。
シリルはロベルトとモニカの間に割って入ると、冷ややかにロベルトを見据える。
「ノートン会計は生徒会役員で、学祭期間中は多忙の身だ。私用は日を改めて貰いたい」
「そうだったのですか、そうとは知らず失礼しました」
ロベルトは生真面目な顔で頷くと「それではまた」と堅苦しい挨拶をし、早足でその場を立ち去る。
その背中を見送りながら、モニカは深々と安堵の息を吐いた。シリルの前でなかったら、その場にしゃがみこんでいたかもしれない。
モニカは数回深呼吸をして乱れた呼吸を整えると、シリルを見上げる。
「あ、あのっ、シリル様……」
「…………」
シリルは無言でモニカをジロリと見た。その顔がなんだか不機嫌そうに見えて、モニカはつい萎縮する。きっと自分が迷惑をかけたせいで、腹を立てているのだ。
「す、すみませんっ、お忙しいシリル様に、ご迷惑を、おかけ、してっ」
「…………」
やはりシリルは眉間に皺を寄せたまま、無言でモニカの顔を見ている。
モニカが落ち着かなげにもじもじと指をこねると、シリルは唐突にモニカの前に片手を差しだした。
その手には、白バラに青いリボンをあしらった花飾りが握られている。
モニカが目を丸くして、シリルの顔と花飾りを交互に見れば、シリルは何故かプイと目を逸らしながら言った。
「これを、どこかにつけておけ」
「……? お花を、ですか? ……そういえば他にもつけてる人、いますね……」
主に女子生徒が髪や制服の胸元に花飾りをつけているのを、モニカはちらほらと目にしていた。学祭のイベントの一環なのだろうか?
モニカが不思議そうに花飾りを見ていると、シリルは少しだけ意外そうな顔をする。
「なんだ、花飾りのことを知らんのか」
「何かのイベントですか?」
「……いや、知らんならいい」
首を傾げるモニカに、シリルは素っ気なく言い捨てた。だが、その間も彼の視線は落ち着かなげに足元を彷徨っている。
なんだか妙にソワソワした様子のシリルをモニカが丸い目で見上げれば、シリルはいつもの彼がするみたいに細い顎をツンと持ち上げ、花飾りをビシリと指さした。
「それは今日一日、貴様が恥をかかずに済む『まじない』だ。舞踏会の時もつけておくがいい」
「そ、そんな、おまじないが……!」
モニカは感心しつつ、手元の花飾りを見下ろす。
白バラの花飾りには、魔術式が仕込まれている様子はない。となると、魔術的な意味の「まじない(呪い)」ではなく、風習、或いは民俗学的な「まじない」のことを指すのだろう。
この花がどういう意味を持つかは分からないが、この花をつけていると、今日のモニカは恥をかかずに済むらしい。なんと画期的なおまじないなのだろう。
改めてまじまじと花を眺めたモニカは、柔らかく香る白バラに思わず口元を綻ばせた。
(…………お花、きれい)
たとえこれが「おまじない」なのだとしても、誰かから花を貰うのは初めてだ。
「シリル様、きれいなお花、ありがとうございます」
モニカが顔を緩めてへにゃりと笑えば、シリルは口の端を少しだけ持ち上げて、満足げに小さく頷いた。