【9ー1】引き出しいっぱいの宝物
とても万全とは言い難い状況のまま、学祭の朝を迎えてしまった。
モニカはベッドから起き上がると、久しぶりにコーヒーポットを取り出し、コーヒーを淹れた。
一杯のコーヒーは、モニカにとって意識を切り替えるための儀式だ。熱々のコーヒーにふぅふぅと息を吹きかけて冷ましつつ、モニカはネロを見る。
ネロはまだベッドの中でムニャムニャと眠っていた。最近は寒い日が続いているから、寒さに弱いネロはすっかり動きが鈍くなってしまっている。
モニカがコーヒーを飲み終えて制服に着替えたところで、ようやくネロはムニャムニャ言いながらベッドから這い出してきた。
「あー……寒さがしみるなぁー……オレ様、冬眠したいぜー……」
「山小屋よりは、こっちの方が全然暖かいんだけどね」
ネロに言葉を返しつつ、モニカは机の引き出しを開けた。唯一鍵のかかったその引き出しには、モニカの宝物が入っている。コーヒーポット、ラナから貰ったリボンと手紙、それとフェリクス──アイクから貰った、ペリドットのネックレスと父の本。
最初はコーヒーポットだけだったのに、いつのまにか引き出しの中身がすっかり多くなったことに、モニカは少しだけ感慨を覚えた。
(……この学園に来てから、大事な物が増えたなぁ)
この学園に来たばかりの頃は、父の形見のコーヒーポットとネロがいれば、それだけで良かった。
なのに、今は失くしたくないものが、奪われたくないものが、傷つけられたくない人が、たくさんいる。
(……わたしが、守るの。だってわたしは、七賢人……〈沈黙の魔女〉だから)
自分にそう言い聞かせ、モニカは愛用のリボンを手に取り、髪を結う。
その時、窓がコツコツとノックされた。窓ガラスを開ければ、メイド服の美女──リンがひらりと窓枠を飛び越えて中に入ってくる。
「おはようございます、〈沈黙の魔女〉殿」
「おはようございます、リンさん。今日は小鳥じゃないんですか?」
リンは窓から入ってくる時、人に見つかりにくいよう小鳥に化けていることが多い。珍しいなぁ、とモニカが疑問に思いながら訊ねると、リンはコクリと頷いた。
「はい、少々荷物がありました故」
「…………?」
「まずは、本日の打ち合わせをいたしましょう」
リンは打ち合わせというが、実際のところ確認することはそれほど多くない。
基本的にはチェス大会と同じだ。リンとネロがそれぞれ小鳥と猫に化けて、フェリクスを徹底的にマーク。モニカはいつも通り生徒のフリを、ルイスは学祭の客のフリをして、学園内を常に見回る。それだけだ。
ネロが緊張感の無い欠伸をしながら、モニカを見上げた。
「まぁ、あんまり硬くならずに、いつも通りいこうぜ。折角の学祭なんだろ? 楽しまなきゃ勿体ないぜ」
「……ネロ、今日は絶っっっ対に、人間の姿になっちゃダメだからね」
チェス大会の時のことを思い出し、モニカが釘を刺せば、ネロが誤魔化すみたいにそっぽを向いて尻尾をふりふりする。
モニカはネロを抱き上げて、じとりと睨んだ。
「……ネ、ロ?」
「へいへい、分かったってば! 今日は大人しく可愛い猫ちゃんでいてやるよ!」
ネロに繰り返し忠告をし、モニカはリンをちらりと見た。
「……リンさんもですよ。人間になって乱入するのは、極力避けてくださいね」
「はい、今日のわたくしは可愛い小鳥さんです」
これだけしつこく釘を刺しておけば、大丈夫だろう。多分。
(ネロとリンさんが徹底的に殿下をガードしていれば、よほどのことがない限りは対応できるはず)
本当は、即興で作った防御結界の魔導具をフェリクスに持たせることができれば、より安全性が増すのだ。
だが、昨日落とした魔導具のブローチは、とうとう見つからずじまいだった。
自分の迂闊さを思い出してモニカが溜息を吐いていると、リンが静かに言う。
「〈沈黙の魔女〉殿は、第二王子に不審に思われぬよう、適度に学祭を楽しんでください」
「……なんか、すみません、わたしだけ、楽しんじゃうみたいで」
「お構いなく。鳥のフリをして人間の会話を盗み聞きするのも、なかなか楽しいものですので」
「…………」
「それと、今のうちにこれをお渡ししておきます」
そう言ってリンは、唐突にメイド服のスカートをバッサバッサと振りだした。
すると、スカートの中から白い箱がゴトリと落ちる。どういう仕込み方をしていたのやら。
ギョッとしているモニカに、リンはマイペースに箱を差しだした。
「本日の舞踏会、ドレスはご友人にお借りする予定なのだとか」
「あ、はい……」
「ルイス殿は、こう申しておりました──『そのぐらい、私に言えば用意してやるのに、なんだって言わないんですか、あの小娘は。とりあえず靴ぐらいは、こちらで用意してやりましょう』……とのことです」
「あ、あはは……すみません」
モニカは苦笑しつつ、リンから受け取った箱を開けた。
箱の中には可愛らしいリボンのついた白い靴が収まっている。
「わぁ、可愛い! …………あれ?」
靴を取り出せば、箱の底にはルイスの流麗な文字でこう書かれていた。
『いい加減ハンカチ返せ、馬鹿娘』
「…………」
そういえば、ケイシーによる暗殺未遂騒動の際に、ルイスからハンカチを借りて、そのまま返すのを忘れていた。
モニカは慌てて引き出しを開けて、綺麗に洗ってアイロンをかけたハンカチを取り出し、リンに差しだす。
「あ、あの、これ、ルイスさんに……返すのが遅くなってすみませんでした、って……」
「確かに受け取りました。では、代わりにこれを」
リンはメイド服のポケットから小さな紙包みを取り出し、モニカに差しだした。
一体なんだろう? とモニカが疑問に思いながら包みを開ければ、中から出てきたのは美しい花の刺繍が施されたハンカチだ。
(……ルイスさんが? ……ううん、違う、これ…………わたし、見たことがある)
その美しい刺繍の図案を、モニカは見たことがあるのだ。
──ケイシーのハンカチ、綺麗ですね。
──あはは、ありがと。これ、自分で刺繍したのよ。
──えっ、この細かい模様を!? 全部、自分でっ!?
──刺繍は得意だからね。学祭のバザーでも出すのよ。モニカの分も作ってあげよっか?
──えっ、あっ、でも……。
──遠慮しない遠慮しない!
ハンカチを握りしめて俯くモニカに、リンは無表情に淡々と言う。
「贈り主は匿名だそうです」
「…………」
「これは、わたくしの独り言ですが…………大変パワフルに雪かきをしておられました」
「……彼女らしいです」
モニカは泣き笑いみたいな表情でハンカチを見つめる。
色とりどりの花の刺繍。その中でも特に多いのが、黄色い花だ。
──黄色い花は、私の故郷では幸福の象徴なのよ。花嫁さんにも黄色い花を贈ったりするの。
そう言って快活に笑うケイシーの笑顔が、目に浮かぶ。
(……宝物、また増えちゃった)
あどけない顔に年相応の少女らしい笑みを浮かべ、モニカは幸せな気持ちで、真新しい靴と刺繍のハンカチを胸に抱いた。
 




