【番外編7】北の地にて
風の上位精霊であるリンの飛行魔術は、半球体の結界を作りだし、その結界ごと移動するというものである。言うなれば目には見えない小型馬車に乗っているようなもので、だからこそ、複数人をまとめて移動させることができる。
そして今、空を駆ける半球体結界の中で、ルイス・ミラーは片膝を立てて座り、黙々と本を読んでいた。
はたから見ると、宙に浮いて高速移動しながら本を読んでいる変な人であるが、幸いにも付近に飛行魔術を使っている人間はいないので、この光景を見ているのは空を飛ぶ鳥達ぐらいのものである。
目的地までは、リンの飛行魔術を使っても数時間はかかる。多忙なルイスは時間を無駄にするのが嫌いなので、移動時間を読書の時間に充てていた。
「随分と物々しい本ですね、ルイス殿。誰を呪い殺すおつもりですか」
リンは体を前方に向けて飛行結界を維持しつつ、ぐるりと首を回してルイスを見る。
リンなりに人間の仕草を真似たつもりなのだろうけれど、ルイスにはフクロウがグルリと首を回したようにしか見えなかった。端的に言って不気味である。
「これは呪術書の類ではありませんよ。それと、私は気に入らない奴は呪いなんてまどろっこしいことはせず、直接叩きのめす主義なので覚えておくように」
「その本、この国の言葉ではないようにお見受けいたしますが」
「帝国の本ですからね」
そう言ってルイスはペラリとページをめくる。
彼が今読んでいる本は、この国では使用禁止制限がされている医療魔術に関するものだった。この本も、一般人は持ち出し不可のところを、七賢人権限で持ち出したのである。
「リン、お前はチェス大会に侵入した刺客を、直接目で見ていますね」
「はい」
「ユージン・ピットマンに成りすましていたというその刺客は、幻術の類は使っていましたか?」
リンはしばし考えるように黙り込み、首を後ろに回した体勢のまま首を横に振るという器用な芸当をやってのけた。
「いいえ、あの刺客は魔術の使い手ではありましたが、幻術の類は使っていませんでした」
このことは刺客を捕縛した警備兵達も確認しているから、間違いないだろう。
そもそも、周囲に幻を見せる幻術は非常に燃費が悪い。ルイスも数十秒程度は維持することはできるが、常に幻術を維持したまま数時間を過ごすのは、人間の魔力量ではまず不可能である。
幻術で他人に成りすますなんて芸当ができるのは、その手の魔術が得意な水の上位精霊ぐらいのものなのだ。
だが、ユージン・ピットマンを殺害した刺客は精霊ではない。人間だ。
ルイスは読みかけのページを指で押さえ、ずれた片眼鏡を直しながら呟く。
「あの男がユージン・ピットマンに成りすました方法……そっくりさんでも変装でもない。幻術の類でもない。となると考えられるのは、ただ一つ……肉体操作魔術です」
肉体操作魔術は、人間の体に魔力を注いで、肉体を強化したり、変化させたりする術のことを言う。
本来は変質した臓器を正常な形に戻したりと、傷ついた肉体の治癒が目的の魔術なのだが、傷ついた臓器や皮膚を変質させることができるなら、顔の造形を変えることも不可能ではないだろう。
ただし、肉体操作魔術は禁術とされている──ただ一国を除いては。
「肉体操作魔術が医療用魔術の一環として解禁されたのが、帝国です。となれば、あの刺客は……帝国の人間である可能性が高い」
〈螺炎〉を使ったケイシー・グローヴによる、第二王子暗殺未遂事件は、リディル王国と帝国の間にある小国──ランドール王国が絡んでいた。
そして、チェス大会の刺客は、帝国の影がちらついている。
この短期間で起こった二つの事件に関して、ルイスはとある懸念を抱いていた。
だから、それを確認するためにわざわざこうして、くそ寒い北の地までやってきたのだ。
眼下に広がる景色は、まだらに白く染まっている。王都の方はまだ冷たい風が吹く程度だが、この地域ではもう雪が降り始めているのだ。
そして人里から離れた雪山の中、少しひらけた土地に古びた修道院が見える。
「ルイス殿、この土地ならではの画期的な着地方法を思いついたので、試してみてもよろしいでしょうか?」
リンの提案にルイスは顔をしかめ、美貌のメイドをギロリと睨んだ。
「空中で飛行魔術を解除し、雪をクッションにして着地しようと?」
「正解です」
「お前は、雪にはしゃぐ子どもですか。安全に着地なさい」
「残念です」
リンはこれっぽっちも残念には見えない無表情で応じ、ゆっくりと高度を下げていった。
目的地である修道院の前では、一人の若いシスターがスコップを握りしめて、せっせと雪かきをしているのが見える。
そのシスターは空中から降りてくるルイスを見ても、驚きの声をあげたりはしなかった。ただ、目の上に手をかざして、ルイスとリンを見ている。
雪の上に静かに着地したルイスは、こちらを見ているシスターを見つめ返し「おや」と薄い笑みを浮かべた。
「飛行魔術を見ても驚かないとは、随分肝の据わったシスターだと思いきや……貴女でしたか」
「そうね、回転しながら地面に激突してた時の驚きに比べれば、可愛いものだわ」
そう言って、スコップを足元の雪にサクリと突き立てたのは、ブライト伯爵令嬢──ケイシー・グローヴだった。
* * *
この修道院の責任者である老齢のシスターは、ケイシーにルイス達の案内を命じると、自分は関わりたくないとばかりに礼拝堂に引っ込んでしまった。
世俗から離れて暮らす彼女達にとって、外部からの来訪者は──まして、男性であるルイスは歓迎すべき客人ではないのだろう。
それはケイシーにとっても同じようで、彼女はルイスとリンを応接室に案内すると、茶も出さずに話を切りだした。
「それで、私に何の用? 話せることは、大体全部話したと思うけど」
つっけんどんな態度のケイシーに、ルイスは大人の余裕に満ちた笑みを返す。
「貴女に確認したいことが、できたのですよ」
「あの暗殺未遂事件に、うちの屋敷の人間は関与してないわ。私と父が勝手にやったことよ」
「少なくとも、貴女はそう思っているのでしょうね……尤も、貴女のお父上は違うようですが」
遠回しなルイスの言葉に、ケイシーはピクリと口元を震わせる。
ルイスは懐から布包みを取り出すと、それをテーブルの上でそっと広げた。布に包まれていたのは、大小様々な赤い石の残骸だ。
「これが何か分かりますね?」
「……私が使った〈螺炎〉の残骸でしょ」
ルイスは正解と答える代わりにニコリと微笑み、言葉を続ける。
「貴女のお父上は、これを旅の行商人から買ったと言い張っていますがね、私はランドール王国側の人間が、貴女のお父上に〈螺炎〉を譲ったと思っています」
「……ランドールの方々が、父を唆したと言うの?」
「〈螺炎〉が幾らするかご存知ですか? 失礼ながら、裕福とは言い難いブライト伯爵家が簡単に買えるような代物ではないのですよ」
魔導具は非常に高価だ。まして、あれほど完成度の高い〈螺炎〉ともなると、ブライト伯爵家が簡単に手を出せる代物ではない。
暗殺などもっと安上がりな方法が幾らでもあるのに、ブライト伯爵は何故〈螺炎〉を選んだのか?
何者かがブライト伯爵に〈螺炎〉を渡して、唆したと考えるのが妥当だ。
ケイシーも薄々その可能性を考えてはいたのだろう。険しい顔で唇を噛みしめ、父の不利になる発言はしないよう、必死で動揺を噛み殺している。
その健気な姿を眺めつつ、ルイスは赤い石の欠片を一つ摘み上げて、光に透かした。
「この〈螺炎〉に使われているのは、非常に純度の高いルビーです。専門家に鑑定させたところ、グロッケンで採れた物に間違いないだろうとのことでした」
「……グロッケン?」
「ご存知でない? 帝国の南東部にある鉱山ですよ。発掘量はさほど多くないのですが、魔導具の材料に最適な高品質のルビーが採れる……もっとも、帝国はこの鉱山で採れた鉱石を殆ど輸出していないので、市場での入手は困難です」
ルイスはコトリと音を立てて、赤い石をテーブルに戻す。その音は、静謐な修道院ではやけに大きく響いた。
ルイスは灰紫の目を細めて、ケイシーを見据える。
「ブライト伯爵が貴女に託した〈螺炎〉は、帝国製です。これが何を意味するか、分かりますか?」
その言葉に、ケイシーはたちまち青ざめた。賢い娘だ。
彼女はこの一言で、とある恐ろしい可能性に気づいてしまったのだ。
ブライト伯爵に〈螺炎〉を渡したのがランドールの人間だと仮定すると、今度はそのランドールの人間は、どこで帝国製の〈螺炎〉を手に入れたのか、という話になる。
そうすると、一つの仮説が浮かび上がってくるのだ。それ即ち……。
「ランドール王国と帝国が、裏で手を組んでいる可能性があります」
リディル王国対、帝国・ランドール王国連合軍という構図の戦争が起こる未来も、十分にありえる。そのことをケイシーもようやく理解したのだろう。
ケイシーは膝の上で拳を固く握りしめ、俯きながら口を開いた。
「……私が知る限り、実家に帝国出身らしき人が出入りしているところは、一度も見たことがないわ。出入りしているのは皆、私でも名前を知っているランドール貴族だけだった」
「お父上が帝国宛に手紙を出したりしているところも?」
「……ないわ」
「そうですか」
ここで帝国との繋がりに関する証言が得られたら良かったのだが、そうそう簡単にはいかないらしい。
仮に帝国とランドールが繋がっていた場合、圧倒的国力を持つ帝国が、主従関係の「主」にあたるのは明白。ランドールの末端の貴族は、自国と帝国の繋がりを知らない可能性もある。
「もしも」を考えだすとキリがないが、帝国の影は常に意識していた方が良いだろう。
「どうやら、貴女から搾り取れる情報はもう無いらしい。お茶の一杯も出ないようですし、私はすぐに立ち去ることとしましょう」
ルイスが椅子から腰を浮かせると、ケイシーは「待って」と短く声をかけた。
ルイスは興味の色の薄い目をケイシーに向ける。多忙な彼は無駄な時間を割くことが嫌いだ。まして、この娘とこれ以上有意義な話ができるとも思えない。
「……モニカは、元気なの?」
案の定、ケイシーが口にしたのはルイスにとって価値のない話だった。
「天気よりどうでもいい話題ですな。最近も刺客と一戦交えたようですが、ピンピンしてますよ」
刺客と一戦交えた、という言葉にケイシーは目を丸くし、息を飲む。
「……正直、まだ信じられないわ。モニカが……七賢人だったなんて。普通の女の子にしか見えなかった」
「〈沈黙の魔女〉が、普通の女の子?」
ルイスは思わず失笑した。
モニカが無詠唱魔術を使うところを見ても、ケイシーはまだモニカのことを理解できていないのだ。
ルイスは椅子に座り直し、残酷なほど美しい嘲笑を浮かべてみせた。
「貴女は半年前の『ウォーガンの黒竜』事件を、ご存知ですかな?」
「……えぇ、ケルベック伯爵領に現れた黒竜を〈沈黙の魔女〉が…………モニカが、追い払ったのよね」
ケルベック伯爵領とブライト伯爵領は比較的近いから、他人事ではなかったのだろう。それほどまでに、黒竜は民に絶望を与える存在だ。
黒竜の吐く炎〈黒炎〉は、魔術による結界すらも燃やし尽くす異形の炎。
竜殺しの異名を持つルイスとて、一筋縄ではいかぬ相手だ。
「〈沈黙の魔女〉殿を黒竜討伐に引きずっていったのは、私なんですけどね。あの小娘、鼻水垂らしてピィピィ泣き喚くんですよ。怖い怖いって」
ケイシーは非道な行いをさらりと告白するルイスに、呆れの目を向けた。
「……それが普通でしょ。誰だって、黒竜は怖いわよ」
「そう思うでしょう? えぇ、私だって多少の恐怖心はあります。ですが、〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットが恐れていたものは、なんだと思います?」
あの時、モニカは泣きじゃくりながら、ルイスにこう言ったのだ。
「──『竜騎士団怖い。知らない人がたくさんで怖い』……あの娘は黒竜なんて、これっぽっちも恐れちゃいなかったのです。七賢人〈沈黙の魔女〉が恐れていたのは、討伐についてきた竜騎士団──人間の方だったのですよ」
笑えるでしょう? とルイスが囁いても、ケイシーは唖然とした様子で黙り込んでいた。
そんなケイシーに、ルイスは哀れみの目を向ける。
「あの娘は心の底から人間を恐れ、嫌っている……だからこそ、いくらでも残酷になれる。貴女が思っている以上に、いびつで心無い魔女です」
だからこそ、ルイスは第二王子護衛任務の協力者にモニカを選んだのだ。
「あの娘に、まともな情など期待せぬことですな」
ルイスがせせら笑いながら告げると、ケイシーはガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
そうしてドスドスと足音荒く部屋を出て行き、すぐにマグカップと小さな包みを握りしめて戻ってくる。
ケイシーは茶の入ったマグカップをルイスの前にドンと置き、紙包みをルイスに押し付けた。
「これ、渡すか渡すまいか迷ってたんだけど、貴方の言葉で決心したわ……モニカに渡して。私の名前は出さなくていいから」
ルイスは「失礼」と一言断ってから紙包みの中身をのぞき、目を丸くした。
ケイシーは鋭い目でルイスを睨みつけている。よほどルイスの言葉が腹に据えかねたのだろう。
(……〈沈黙の魔女〉のことなど、憎んでしまった方が楽になるでしょうに)
愚かで、そして情に脆い娘だ。
ルイスはこっそりため息を吐き、紙包を懐にしまう。
そうして優雅な仕草でマグカップの茶を啜り、言った。
「このお茶一杯分ぐらいの働きはしてあげましょう……ところで、砂糖かジャムは無いのですか?」