【8ー5】ブローチ
『あんた本当に全然肉が無いねぇ。今までどんな境遇だったか知らないけど、うちの店はちゃんとご飯食べさせてくれるから安心しなよ。それに貧相な体でも使いようによっちゃ、ちゃーんと男を悦ばせることができるんだからさ! いいかい、アタシ達の仕事はお客様を悦ばせることだけど、殿方ってのは自分の手で女が気持ち良くなってアンアン言ってるのを見て興奮するんだから、自分も気持ち良くならなきゃダメだよ。ほら、この辺とか……あと、ここを触られても気持ち良くなれるから……』
そう言ってドリスがモニカの服の中に手を突っ込んで体をまさぐったあたりから、モニカの記憶は途切れている。
* * *
ふにっ、と頬に触れる柔らかい感触でモニカは我に返った。
「はっ、肉球……っ!」
きっとネロの柔らかな肉球で頬をプニッとされたのだ。
そう考えたモニカだったが、辺りを見回せばそこは山小屋でも屋根裏部屋でもなく、赤と金に彩られた目に痛い部屋であった。
肉球(?)の触れた左頬の方を振り向けば、フェリクスがなんとも言い難い顔でモニカを見ている。
「正気に戻ったかい?」
「でっ!? でんでんでんでんっ……」
殿下、と言いかけたモニカの唇に、フェリクスはピタリと人差し指を押し当てる。
モニカはダラダラと冷や汗を流しながら、目だけを動かして周囲の様子をうかがった。
モニカは今、豪奢なソファでフェリクスにもたれるように座っており、向かいの席にはマダム・カサンドラが、そのそばにはドリスが控えている。
ドリスはモニカと目が合うと、チェリーブロンドにクルクルと指を巻きつけながら苦笑した。
「いやぁ、悪かったよ。てっきり、あんたはうちの店に売られてきたのかと思ってさ」
「…………は、はぁ」
そこでようやくモニカは自分の格好に気がつく。
薄っぺらい下着のような、ボルドーのドレス──先ほどドリスに引きずられていかれたモニカは、これを着るように押しつけられたのだ。
くちんっ、とモニカがくしゃみをすると、フェリクスは上着を脱いでモニカに羽織らせた。
「ドリス」
フェリクスが咎めるように言ってドリスを見れば、ドリスはへらりと笑う。
「はいはい、ごめんって。うんと温かい毛皮を貸してあげるよ。それと手袋もあった方がいいね」
「……あの、わ、わたしは、自分の服さえ返してもらえれば……それで……」
モニカは慌てて立ち上がり、肩にかけられた上着をフェリクスに押し返す。
「あの、これ、お返ししま…………くしゅんっ」
クシャミをした拍子に、肩紐のずれていたドレスがストーンと足元まで落ちる。
今日はコルセットの類もつけていないので、ドレスが脱げ落ちれば上半身は素っ裸だ。
モニカはその場にしゃがんでドレスをつまみ上げ「よいしょ」と肩紐を肩にかけると、ドレスの裾が汚れていないか念入りに確認した。
その様子をフェリクスとドリスは、唖然とした様子で見ている。
「…………」
「…………」
人前でドレスが脱げたというのに動じるでもなく、ドレスが汚れていないかを気にするモニカに、マダム・カサンドラが眉をひそめた。
「変な子だねぇ」
「…………? あのぅ、わたしの服は……」
「ドリス、返しておやり」
マダム・カサンドラが顎をしゃくれば、ドリスは「はいよ」と言って、モニカを手招きした。
モニカが躊躇していると、ドリスは困ったように頬をかく。
「ただ服を返してあげるだけだから、ほら、おいでって」
「は、はいっ……」
「旦那の悦ばせ方を教えてほしいなら、こっそり伝授するけど」
モニカがもげそうな勢いで首を横に振れば、ドリスはケラケラと楽しそうに笑った。
* * *
ドリスに服を返してもらったモニカは、ついでに温かな毛皮のコートと手袋を借りた。毛皮なんて着たことがないモニカは、最初はそのずっしりとした重さに驚いたが、羽織ってみると、なるほど風を通さず温かい。
これがあれば、寒い夜に薄い毛布に包まりながら書き物をする必要もないかもしれない、と密かに感動を噛み締めていると、フェリクスがモニカを見てニコリと笑う。
「うん、似合っているね。キミが毛皮を着ていると、なんだか小動物みたいだ」
「こ、子リス呼びは……」
「しないよ、モニカ。さぁ、出かけよう」
フェリクスはそう言って、左の腕をモニカの前に少しだけ差しだす。
これは、さっきドリスに教わったように、腕を絡ませるのが正解なのだろう。だが、小柄なモニカとそこそこ長身のフェリクスとでは、なにぶん身長差がありすぎるのだ。
モニカは悩みに悩んだ末に、フェリクスの袖口を指先でつまんだ。これなら、はぐれる心配も無い。
フェリクスはそんなモニカを咎めたりはしなかった。
「さて、行きたい店があるのだけど、その前に少し歩こうか。屋台や露店を見るのも、案外楽しいものだよ」
そう言ってフェリクスは、屋台や露店の多い道を選んで歩きだした。
屋台というと串焼きや果実水を連想するが、夜の歓楽街の屋台はアクセサリーの類が多い。なんでも、昼間は飲食物を提供している屋台の主人が、夜の間はアクセサリー売りに屋台を貸しているのだとか。
「やぁ、そこの旦那。うちの店を見ていっておくれよ。女が喜ぶアクセサリーが揃ってるよ。これを手土産にすれば娼館の娘達も大喜び間違いなしだ。そっちのお嬢ちゃんには、可愛い腕輪なんてどうだい? 耳飾りも揃ってるよ」
「見せてもらおうかな」
フェリクスが足を止めて、屋台に並べられたアクセサリーに目を向ければ、ここぞとばかりに店主は揉み手をする。
「うちの店のアクセサリーはね、とっておきなんですよ。なんと言っても、高名な魔術師様の加護がついてる」
「へぇ、魔導具なのかい?」
「えぇ、はい、そんなところです」
どうやら「魔導具」と言うよりも「まじない」とか「加護」と言った方が、若者受けが良いらしい。
こっちのネックレスは魅力を上げるまじないがとか、こっちの指輪は災いを退けてくれる効果が、などと店主はもっともらしい口調で語りだす。
カンテラに照らされた商品は、どれもキラキラと美しく輝いていた。昼間買うよりも、暗い夜に買わせた方が安物と高級品の見分けがつかないということを、店主もよく分かっているのだろう。
(……どれも、魔導具としての効果は無さそう)
指輪の台座や留め金には、いかにもそれっぽい魔術文字が刻まれているが、どれもでたらめばかりだ。
恐らく、フェリクスもそのことに気づいているのだろう。いかにも興味のあるふりをしているが、商品を見る目に熱は無い。本当にただひやかしているだけなのだ。
なんとはなしにアクセサリーを眺めていたモニカは、ふと、一つのブローチに目を留めた。それだけ他のアクセサリーとは意匠が異なっている。
有り体に言えば、ブローチの台座になっている部分の細工が非常に手が込んでいるのだ。他の可愛らしいアクセサリーと比べれば、装飾の精緻さは段違いである。
使われている石はトパーズ。その中に刻まれている魔術式は、間違いなく本物だ。
(……簡単な防御結界。あまり精度は高くなさそうだけど……)
モニカがブローチを凝視していると、店主がここぞとばかりに声を張り上げた。
「いやぁ、お嬢ちゃんは見る目があるね。このブローチは他とは違う特別製なんだ」
店主はそこで言葉を切り、今度は少し前屈みになって、内緒話でもするかのように声をひそめた。
「このブローチは中古なんだけどね……なんと! 作ったのは七賢人の〈宝玉の魔術師〉様なんだ」
「えっ……」
七賢人、という言葉にモニカは思わずドキリとした。
その横でフェリクスが顎に指を当てて呟く。
「〈宝玉の魔術師〉エマニュエル・ダーウィン……魔導具作りの天才だと聞いたことがある」
「いやぁ、旦那、博識だねぇ。その通り! 〈宝玉の魔術師〉が作った魔導具なんて、正規のルートで買ったら、王都に家が買えちまうような代物さ。それを、ここでは特別価格で提供してるんだよ……どうだい?」
「ブローチ、見せてもらってもいいかな?」
フェリクスがそう言えば、店主は愛想よく「どうぞどうぞ」とブローチを布で包んで差し出した。
フェリクスはブローチを受け取ると、ランプの明かりにトパーズを透かす。恐らく、中に魔術式が浮かんでいることを確認しているのだろう。
その魔術式の奥にごくごく小さくエマニュエル・ダーウィンの名が刻まれている。
普通に考えれば、偽物だ。魔術式の精度は低いし、そもそも七賢人が作った魔導具がこんな露店に売られている筈がない。
ただ、モニカはブローチの装飾がやけに気になった。これとよく似たブローチをモニカは見たことがある。
(……シリル様のブローチと、似てる……)
魔力を溜め込みやすい体質のシリル・アシュリーは、体内の魔力を吸収して放出する魔導具のブローチを常に身につけている。
そのブローチをモニカは直接手に取ったことがあるから、間違えるはずがない。
(……シリル様のブローチにも……〈宝玉の魔術師〉様の名が刻まれていたはず)
経年劣化を防ぐ術式をかけられていなかった、シリルのブローチ。
そして今、フェリクスが手にしている粗末な防御結界を施しただけのブローチ。
この二つはよく似ているのだ。ブローチの装飾も、魔術式の癖も。
「いいね、気に入った。このブローチ、いただこう」
「へへっ、気前が良いねぇ、旦那。毎度ありぃ」
フェリクスは屋台で払うには桁違いな金額の代金を支払うと、ブローチを受け取った。
モニカはフェリクスがブローチを懐にしまうのを、もやもやした気持ちで眺める。
(……殿下は、あのブローチがシリル様のブローチと似てるって……気づいてるのかな?)
フェリクスの美しい横顔から、彼の思惑を読み取ることはできない。それでも、なんとはなしにじぃっと見上げていると、フェリクスは碧い目をくるりと動かしてモニカを見た。
「ねぇ、モニカ。君は何か欲しいアクセサリーはあるかい? 気に入った物があるなら、何でも買ってあげるよ」
「……いえ。わたしは、いいです」
モニカがのろのろと首を横に振ると、フェリクスは少し身を屈めてモニカの顔を覗き込んだ。
「この間、チェス大会の日に化粧をしていたね。とてもよく似合っていた」
「……はぁ」
「あの時の君に似合うアクセサリーを、贈らせてくれないかい?」
フェリクスがとろりと甘い声で囁けば、大抵の貴婦人はうっとりと頬を染めることだろう。
だが、モニカはどうにも心が動かなかった。
その理由をモニカは自分なりに考え、ぎこちなく口にする。
「えっと……初めて、でん……アイクと、会った時のことを覚えていますか?」
「旧庭園。君は木の実を落っことしていたね」
「あの時、木の実を拾ってもらって……わたしは、すごく……すごく、嬉しかったんです」
学園に来たばかりで親しい者もおらず、右も左も分からなかったモニカにとって、ラナがくれたリボンとフェリクスが拾ってくれた木の実は、宝物にすら思えたのだ。食べるのが惜しいと思ってしまうぐらいに。
「えっと、その、上手く言えないんですけど……今、ここでアクセサリーを買ってもらっても、きっと、あの時の木の実みたいには喜べない……気がするんです」
拙いモニカの言葉に、フェリクスは少しだけ眉を下げて寂しげに微笑んだ。
「……そっか」
その寂しげな顔に、モニカは酷く申し訳ない気持ちになった。理由はなんであれ、モニカがフェリクスの好意を無下にしたことには変わりないのだ。
だから、モニカは慌てて言葉を続けた。
「あの、それにですね、わ、わたし、最近ようやく、お洒落に興味を持った、お洒落初心者でっ、そのっ、アクセサリーはまだ、壁が高いと言いますか……そうっ、アクセサリーは上級者向きアイテムなのでっ、わ、わたしには、まだ早いと思うんですっ!」
モニカが必死でそう言えば、フェリクスはポカンと目を丸くし、そして次の瞬間クスクスと楽しそうに笑いだした。
「そうかい……ははっ、それなら、そういうことにしておこうかな」
モニカはコクコクと頷きつつ、内心ほっと胸を撫で下ろした。