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サイレント・ウィッチ  作者: 依空 まつり
第8章「夜遊び編」
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【8ー4】マダム・カサンドラの館

『〈沈黙の魔女〉殿、聞こえますか……』

 モニカがフェリクスと並んで歩き始めると、どこからともなくリンの声が聞こえた。

 モニカはギョッとして周囲を見回すが、フェリクスや他の通行人が気にする様子は無い。

『聞こえますか……今、貴方の鼓膜に直接語りかけています……』

 どうやら、リンはピンポイントにモニカの鼓膜だけを振動させているらしい。簡単そうに見えて、恐ろしく高度な技術である。少なくとも人間にできる芸当ではない。

『〈沈黙の魔女〉殿は、第二王子と無事に合流したものと認識いたしました。わたくしは上空からお二方の警護をいたします。問題なければ右手を上げてください』

 モニカがフードの縁を気にするフリをして右手を上げれば、前方の店の屋根に黄色い小鳥の姿が見えた。

『わたくしは建物内には入れませんが、音を拾うことはできます。緊急事態の際は、遠慮なくわたくしをお呼びください』

 リンの援護はありがたいが、一歩間違えると前回のように、派手な衣装の男の姿で乱入しかねない。

 できればリンに助けを求めるのは、最後の手段にしようとモニカが心に誓っていると、フェリクスがモニカの肩を叩いた。

「ところでモニカは、普段どのお店で遊んでいるんだい?」

「……えっ!?」

 フェリクスは、なんだかいつもより意地の悪い笑い方をしている。

 モニカはダラダラと冷や汗を流しながら、必死で夜遊びとは何たるかを考えた。

 基本的に、昼も夜も出歩かずに数字や魔術式と向き合っていたモニカにとって「遊び」というのは未知の領域である。まして夜遊び。夜に出歩いて何をするというのだろう?

「君は夜遊びに慣れている不良なんだろう? いつもどんなお店に行くんだい?」

「えっと……その……それは……」

 うんうんと唸っていたモニカは、ふと閃いた。

 そうだ、先ほど自分はまさに「夜遊び」を体験してきたではないか! しかも庶民にはできない貴族階級の!

 これが夜遊びの模範解答に違いない。モニカは難解な数式の解答を見つけた時のように目を輝かせ、自信たっぷりに答えた。


「美少年をはべらせて、酒池肉林ですっ!」


 フェリクスはとうとう腹を抱えて笑いだした。しかも目尻には笑い涙が滲んでいる。

 いつものフェリクスからは考えられないような態度にモニカが唖然としていると、フェリクスは笑い涙を拭いながら言った。

「そういうのがお好みなら、その手の高級店に案内するけど?」

「いえ……そういうのは、その……もう、お腹いっぱいなので……」

 なにせ、さっきまで〈星詠みの魔女〉の屋敷で、美少年にかしずかれてきたばかりである。

「でん……あ、アイク様…………アイクさんの、行きたいところで……」

「アイク」

「…………ぅぁ……あ、アイクの行きたいところで」

 しどろもどろに答え、モニカは小さくくしゃみをして身を震わせた。冬も近い秋の夜は、吹く風が冷たい。道ゆく人の中には、もう毛皮のコートを着ている者もいる。

 モニカがかじかむ指を擦り合わせていると、フェリクスはそんなモニカの手を包むように握り、ほぅっと息を吹きかけた。

 白く曇る吐息が夜闇にふわりと浮かび、溶けるみたいに儚く消えていく。

 モニカは首を傾けた。

「あの……息を吹きかけても、非効率的なので……」

「じゃあ、これは?」

 フェリクスは襟巻きを少し緩めると、モニカの手を掴んで自身の首に触れさせた。

 フェリクスの白く細い首筋に、モニカの小さい手がペタリと触れる。人肌の温もりに、モニカのかじかんだ指先はじわりとぬるく温まる。

 心地良さに思わずモニカは口をゆるめ……自分がフェリクスの首元に手を突っ込んでいるという、とんでもない現実を思い出し、その場を飛びすさった。

「ああああああ、えっと、あの、こういう時は、手を握ったり開いたりすると、血が巡って、指があたたたたたかくなるのでっ」

「あたたたたたかく……それは、とても温かそうだ」

 フェリクスはクツクツ喉を鳴らしながら、温かそうな襟巻きを外し、モニカの首に巻いた。

「まずは、君の防寒具を見繕おうか。ついておいで」



 * * *



 フェリクスが連れてきたのは、歓楽街の中でも一際華やかな二階建ての店だった。

 華やかな装飾が施された扉を潜れば、豪奢な花瓶に生けられた花が香の匂いと混ざって蠱惑的に香る。

 防寒具を見繕うと言っていたから、てっきり衣類を扱う店にでも行くのかと思っていたのだが、この店の商品が衣類でないのは誰の目にも明らかだった。

 この店の商品は、美しく着飾ったレディ達との刺激的な時間だ。

「こ、ここっ、ここっ、ここっ、ここ……」

「ニワトリの真似かい?」

 モニカはブンブンと首を横に振りながら、必死で声を絞りだす。

「ここっ、こここっ、ここって……」

「『マダム・カサンドラの館』」

 フェリクスがそう答えると、店の奥から一人の女が現れた。チェリーブロンドを緩いアップスタイルにし、大胆に肩と胸元を晒したドレスの女だ。

 女はまるで馳走を見つけた猫のようにニンマリと笑うと、フェリクスの首根っこにかじりつき、彼の頬に熱烈なキスをした。

男爵バロンの旦那! 久しぶりじゃないのさ。もう、最近全然顔を出してくれなかったから、寂しかったのよ」

「やぁ、ドリス。すまないね、最近たてこんでいて」

「ねぇ、今夜はアタシを指名しとくれよ。旦那が来てくれたんなら、今夜の他の予約は全部断るからさ」

 ドリスと呼ばれた女が猫撫で声でそう囁けば、フェリクスはドリスの頬にキスを返して言った。

「すまないね、先にマダム・カサンドラに用事があるんだ」

「ふぅん?」

 ドリスはそこでようやくモニカの存在に気付いたらしく、フェリクスに体を絡めたまま、首だけを動かしてモニカを見た。

 ドリスの視線に悪意はない。ただ純粋にモニカのことを値踏みしているようだった。

「うーん、旦那が連れてきたにしちゃ、いまいち客を取れなさそうな……」

 ボソリと呟き、ドリスはフェリクスを見上げる。

「まぁいいや。うん、マダム・カサンドラは奥にいるよ。こっちこっち」

 そう言ってドリスは、フェリクスの左腕に自身の腕を絡めて歩きだす。

 モニカがオロオロとしていると、ドリスは呆れたようにモニカを見て怒鳴った。

「ほら、なにボサッとしてんのさ! 旦那の右腕が空いてるだろ?」

「……へ?」

 ドリスはモニカを手招きすると、フェリクスの右隣に立たせた。

 そしてモニカの手を掴んで無理やりフェリクスの右腕に絡ませ、自身は再びフェリクスの左腕にしがみつく。

「腕の絡め方はこう! もっと胸を押しつけて……って、あぁ……うん、あんたは、押しつける胸が無いね」

「…………」

 自分は何をやらされているのだろう。

 モニカが困り顔でフェリクスを見上げれば、フェリクスは完全に笑いを噛み殺している顔をしていた。

「あ、あのぅ……?」

「まずは、マダムに挨拶をしようか」

「は、はぁ……」

 モニカは曖昧に返事をして、フェリクスの腕に自分の腕を絡める……というよりは、手を添えているだけの状態のまま歩きだす。なんだか迷子の子どもの気分だ。

 マダム・カサンドラの館は、この歓楽街の中でも一際賑わっている店で、柱や扉の装飾にしろ絨毯にしろ、全体的に目が痛くなるような華やかさだった。

 〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイの屋敷も豪華であったが、この店に比べれば、だいぶお上品であったのだとモニカはしみじみ思う。

 やがて廊下の奥にある一室の前で、ドリスは足を止めた。

「マダーム! マダム・カサンドラ! 久しぶりに良い男がマダムに会いにきてくれたよ!」

「入んな」

 部屋の中から聞こえてきたのは、酒焼けした女の声だった。

 ドリスは上機嫌で扉を開けて、フェリクスとモニカを中へ通す。

 ここに来るまでの廊下も随分と華やかだったが、その部屋の中はそれ以上に目が痛いほどだった。

 赤を基調にした絨毯、天鵞絨のカーテン。装飾やタッセルは、金細工や金糸がふんだんに使われている。

 そして、部屋の中央の猫足のソファには一人の女が腰掛けていた。

 グレイの髪を美しくまとめ、鮮やかな緋色のドレスとつばの広い帽子を身につけたその女は、中年というには少し年をくっているが、老女というにはあまりにも生命力に満ちていた。

 その琥珀色の目は、ギラギラと強い輝きを宿し、フェリクスを映している。

「おやまぁ、旦那。随分ぶりじゃないか。まったく、最近はあんたが顔を出さないから、店の娘達がやる気を出さなくて困ってたんだよ」

「それは失礼しました、マダム。少し所用が続いていたもので」

 所用も何も、フェリクスは学生である。

 だが今のフェリクスを見て、学生だと思う者はまずいないだろう。彼はあまりにも夜の街に慣れすぎている。

(……わたし、余計なことは言わない方が良さそう……)

 モニカが一歩だけ下がってフェリクスの影に隠れれば、マダム・カサンドラと呼ばれた女は顎をしゃくってモニカを見た。

「その娘っこは?」

「えぇ、彼女の服を見立てていただきたくて。この街に見合うように」

 なるほど、モニカの防寒具を揃えるために、というのは一応嘘ではなかったらしい。

 普通の衣類店はとっくに閉まっている時間だ。ならば、衣類を揃えるなら、この手の店に金を払う方が手っ取り早いと考えたのだろう。

 ドリスは「そういうことなら、アタシに任せな」と言って、モニカの手首を掴んだ。

「ほら、こっち!」

「えっ、あ、あの……っ」

 モニカが狼狽えつつフェリクスとドリスを交互に見れば、フェリクスはニコニコしながらモニカに手を振る。

「可愛いのを見立ててもらうといい」

「ああああのっ、あのっ、その……っ」

「ほら、シャキシャキ歩く!」

 慌てふためくモニカの手首を、ドリスはむんずと掴んで大股で歩きだす。

 モニカは半ばドリスに引きずられるようにして、別の部屋へ連れて行かれた。



 * * *



 モニカがドリスに引きずられて行くのを見送り、フェリクスはマダム・カサンドラの向かいのソファに腰を下ろす。

 マダム・カサンドラは鍵付きの小間物入れの引き出しを開けると、そこから数枚の封筒を取り出して、フェリクスの前に置いた。

「グリムトン男爵、モラン伯爵、アッシェンテ伯爵、バルディア侯爵……あんたが、この店で知り合ったお貴族様達からだよ」

「いつもありがとうございます、マダム」

 フェリクスは礼を言って封筒を受け取ると、中身は確認せずに懐にしまう。

 マダム・カサンドラが挙げた貴族達には、一つの共通点がある。それは、全てクロックフォード公爵傘下の貴族ということだ。

 察しの良いマダム・カサンドラは当然そのことに気付いているのだろう。

「アタシはあんたが何者か、詮索するつもりはないけどね……もう、この店には来られなくなるのかい?」

「恐らくは」

 貴重な太客が、と溜息を吐くマダム・カサンドラの前に、フェリクスは金貨を詰めた袋を置く。

「今夜はこれで、盛大に宴でも開いてください」

「その宴に、当然あんたは参加するんだろうね?」

「いえ、僕は他に回るところがあるので。今夜は寝床だけ貸してもらえれば、それで充分ですよ」

 マダム・カサンドラは不機嫌そうな顔で煙管を取り出し、その先端を真っ赤な唇に咥える。

「最後なんだ。うちの店の娘を好きなだけ寝床に招けばいい」

「それも悪くないかと思っていたんですけどね。思いもよらぬ形で、夜遊び仲間ができたので、今日は彼女を優先しようかと」

「……うん?」

 マダム・カサンドラは機嫌悪く細めていた目を見開いて、パチパチと瞬きをした。

「……もしかして、さっきの冴えない娘っこは……」

「僕の友人ですよ」

 さらりとフェリクスが答えれば、マダム・カサンドラは額に手を当てて、天を仰いだ。

「なんてこったい。あたしゃてっきり、あの娘は、うちの店に売るのかとばかり……」

 マダム・カサンドラがそうぼやいた時、バタバタと廊下を走る音が聞こえた。

 ややあって、ドリスがモニカを小脇に抱えて室内に飛び込んでくる。

「マダム、マダム、マーダームー!」

 声を張り上げるドリスの腕の中では、モニカが虚ろな目でぶつぶつと数字を口にしていた。

 そんなモニカの格好を見て、フェリクスは目を丸くする。

 モニカはこの店の娘達が着るような、下着みたいに薄っぺらいドレスを着せられていた。

 ドリスのように肉感的な女性に似合う露出の高いドレスは、痩せすぎのモニカが着ると、貧相さが際立ち、寒々しいことこの上ない。

 濃いボルドーの生地はモニカの青白さを際立たせるだけだし、肩紐は既に半分ぐらいずれ落ちていて、今にも薄い胸元が露わになりそうだ。

 驚くフェリクスに、ドリスが髪をかきながら言った。

「ごめんよ、旦那。あんたが売りに来たこの子に、男の悦ばせ方をちょいと実演込みで仕込んでやったら……なんか、突然、廃人みたいになっちゃってさぁ。いや、ほんと、どうしよこれ? 頭叩いたら直る?」

 ドリスの実演込みの指導は、モニカには刺激が強すぎたのだろう。

 その結果、モニカはいつぞやみたく、数字の世界にトリップしてしまったらしい。

「すまない、ドリス。僕の言葉が足りなかった」

「うん? いかにも身寄りが無さそうなこの娘を、うちの店に売りに来たんだろ? まぁ、ちょっと痩せすぎで男受けはしなさそうだけど、ちゃーんと客を取れるように仕込んであげるから、安心して託しなよ。このドリスさんが、ばっちり面倒見てあげるからさ」

「いや、うん、そうじゃなくて……」

 それからフェリクスがドリスの誤解を解くまでの間、モニカは延々と虚ろな目で数字を呟き続けていた。

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