【8ー1】この名を歴史に刻むため
セレンディア学園の学長は、いまだかつてないほどに胃をキリキリとさせていた。
今、彼の向かいの席に座っている客人は、この国でも国王に次ぐ人物、ダライアス・ナイトレイ──彼のことを人々はこう呼ぶ。クロックフォード公爵、と。
この国で最も権力を持つ彼の影響力は、このセレンディア学園に於いても変わりはない。
まして、今はクロックフォード公爵の孫にあたる、この国の第二王子フェリクス・アーク・リディルが在学しているのだ。
その第二王子が仕切るチェス大会の場において、他校の教師に成り済ました侵入者がいたともなれば、警備が不十分だという誹りは避けられない。
幸い侵入者はすぐに捕らえられ、第二王子は怪我一つ負っていないのだが、それでもクロックフォード公爵が、その事実を看過するとは思えなかった。
学長は震えを堪えながら、チラチラと目の前に座るクロックフォード公爵の顔色を窺う。
六十を少し過ぎた公爵は、淡い金髪に白いものが混じり始めていたが、それでも老いてくたびれたような印象はなかった。若い頃はその美貌に、幾人もの貴婦人が夢中になったと聞く。
老いてなお錆びることの無い刃のような鋭さが、公爵には常に漂っていた。
厳格で、そして冷酷。その辣腕ぶりは、宮廷貴族で知らぬ者はいない。
「報告は聞いた」
公爵が口を開いた瞬間、室内の空気がズンと重くなったような心地がする。
背中に見えない圧力を感じて、学長は無意識に腹に力を込めた。
「学祭は」
公爵の短い言葉に、学長は早口で答える。
「も、勿論、殿下の御身の安全を最優先に、中止を……」
「決行せよ」
その短い命令に、歯向かうことなど学長にはできない。
何故、と疑問を持つことすら、この公爵の前では許されぬのだ。
かつて公爵の命令に疑問を呈した人間が、国を追われたことを学長は知っている。
「け、警備を強化の上、必ずや決行いたしますっ」
「それでいい」
公爵が頷いたタイミングで、迎賓室の扉をノックする音が響いた。
入れ、と入室を促す言葉を口にしたのは学長ではなく公爵だ。その事実が、この場の支配者が誰であるかを如実に物語っている。
「失礼します」
扉を開けて入室したのは、公爵の孫──この国の第二王子フェリクス・アーク・リディル。
彼はいつもと変わらぬ柔和な顔に、ほんの少しの申し訳なさを滲ませて、祖父に頭を下げた。
「お久しぶりです、お祖父様。この度はご心配をおかけしてしまい、大変申し訳ありません」
真摯な態度で謝る孫に、公爵は静かな声で訊ねた。
「怪我はないのか」
「はい。お祖父様が駆けつけてくださったこと、心強く思います。お忙しい中、ありがとうございます」
フェリクスが丁寧に感謝の言葉を述べれば、公爵は無言で頷き返す。
そのやりとりは素っ気なくはあったが、公爵は孫を愛しているからこそ、この場に駆けつけたのだと学長は密かに胸を撫で下ろした。
学祭を強行しろと言われた時はヒヤヒヤしたが、それもきっと公爵に何か考えがあるからこそなのだ。
あぁ、そうだ。きっと大事な孫の活躍の場を、公爵閣下は楽しみにしておられたに違いない! だから、学祭の決行を命じたのだ!
学長が一人そう納得していると、公爵が学長にちらりと目を向けた。
「しばし、フェリクスと話がしたい」
だから席を外せという言外の意図を汲み取り、学長はすかさず立ち上がった。
例え彼がこの学園の学長であろうとも、クロックフォード公爵に部屋を出ろと言われたら、それに従う以外、許されぬのだ。
学長が部屋を出ると、クロックフォード公爵はその涼やかな顔をほんの少しだけ歪めた。
疎ましげに──そして、忌まわしげに。
「恥さらしが」
低く吐き捨てられる言葉に、フェリクスは顔色一つ変えない。
ただ、フェリクスの顔に先ほどまでの柔和な表情はなく、光を失った硝子玉のような碧い目が、無機質に公爵を映していた。
その姿は、正しく傀儡の人形そのものだ。
「外部の人間に対する警戒を怠ったな。その油断が今回の事件を引き起こした」
「お言葉ですが『ミネルヴァ』と『院』はセレンディア学園にとって、長い付き合いの友好校。執拗な警戒は失礼にあたるかと」
「私に口答えをするな」
フェリクスの淡々とした反論を一言で切り捨て、公爵は酷薄に告げる。
「学祭を成功させろ。必ずだ。学祭には諸侯らを招待している。連中にフェリクス・アーク・リディルの威厳を──ひいては我がクロックフォード公爵家の権威を示せ」
次期国王決定の時は近い。そう遠くない未来、国王は三人の息子の中から次期国王となる者を指名するだろう。
だからこそ、この学祭でフェリクスはその存在感をアピールしなくてはならない。
公爵の意図を理解したフェリクスは静かに腰を折り、感情の抜け落ちた声で言った。
「……仰せのままに、クロックフォード公爵」
* * *
自室に戻ったフェリクスは、そのまま真っすぐにクローゼットの扉を開け、着替えを引っ張り出した。
それは学園の制服でもなければ、第二王子が着るのに相応しい煌びやかな衣装でもない。
華美な装飾を取り払った、落ち着いた色味の外出着だ。
今まで着ていた制服の上着を脱いでソファに引っ掛ければ、上着のポケットから白い蜥蜴がスルスルと抜け出す。蜥蜴のウィルは床に着地すると、従者服の青年に化けた。
「殿下、その服は、まさか……」
「久しぶりに息抜きをしようと思って……いいだろう?」
狼狽た様子のウィルに、フェリクスはにこやかな笑みを向ける。その美しい笑顔で頼まれたら、大抵の人間なら一も二もなく頷いてしまいそうなところだが、ウィルは意を決して進言をした。
「学祭まで、あと二日……なのですよね? 先日のチェス大会の件がありますし、学祭が終わるまで夜遊びは控えられた方が……」
「これは私の予想なのだけどね、クロックフォード公爵は学祭で私のお披露目に成功したら、次はなんらかの役目を私に与えると思うんだ」
他国との外交か、竜討伐か、はたまた婚約発表か。
学祭でフェリクスの存在を諸侯にアピールしたら、更に華やかな話題を作るために、公爵は何らかの行動を起こすだろうとフェリクスは予想していた。
「もう、自由な時間は殆ど残されていない……力を貸してくれるね、ウィルディアヌ?」
ウィルは悲壮な顔でフェリクスを見つめ、一度だけ小さく頷いた。
次の瞬間、ウィルの姿は水に溶けるようにぼやけ、滲んでいく。その歪みが輪郭を取り戻した時、そこにいるのは従者服の青年ではなく、フェリクスと全く同じ容姿の男だった。
これがウィルが最も得意とする幻術である。水の上位精霊であるウィルは、戦闘や感知などは得意ではないが、幻術に関しては他の追随を許さない。だからこそ、フェリクスが部屋を抜け出す際の影武者として重宝されていた。
今のウィルは、髪、目、肌の色も、その繊細で美しい顔だちも、何もかもが完璧にフェリクスと同じだ。
唯一違うとすれば、どこか悲しげなその表情ぐらいか。
フェリクスは己の影武者に、静かに告げる。
「きっと、これが僕の最後の息抜きだ」
ウィルは何も言わない。ただ、悲しい顔をするだけだ。
自分と同じ顔が、自分を悲しげに見つめている──そんな奇妙な光景に、フェリクスは苦笑混じりに告げる。
「勿論、私は一番大事な目的を違えたりはしないよ」
フェリクスは白い目蓋を閉ざし、そしてゆっくりと目を開いた。
長い金色の睫毛の下で、青に緑をほんの少し混ぜた美しい瞳が不気味に輝く──その奥に暗い決意の火を宿して。
「『フェリクス・アーク・リディル──この名を歴史に刻むためなら、何でもする』……その誓いは十年前から一度だって揺らいだことはない。この最後の息抜きが終わったら、公爵の傀儡でも犬でも、何にだってなってみせようじゃないか」