【番外編5】とある少年と従者の話
瀟洒なその部屋の主である少年は、テーブルに置いた首飾りと向き合いながら、何やらブツブツと呟いていた。
時折手元の魔導書に目を通しては、また首飾りに視線を戻し、小さい手のひらを首飾りに向けて、魔導書に書かれていた呪文を詠唱する。
「……何をしているのですか、×××様」
そんな主人の様子を無言で見守っていた従者の少年は、呆れが滲まぬよう感情を殺した声で訊ねる。
首飾りと向き合っていた少年は、パッと顔を上げた。
「今日、基礎魔術の授業で、母上の形見の首飾りには精霊が宿っていると教わったんだ」
「はい、アイリーン様は魔術の素養があり、上位精霊と契約を交わしていたと、うかがっております」
「だから、私も同じことができたら、お祖父様が喜んでくださるんじゃないかと思って」
少年は空色の目をキラキラとさせている。
従者はすっかり困り果ててしまった。
あぁ、どうして自分の主人はこんなにも頭が悪いのだろうか──そんな本音を隠し、従者は静かに非情な現実を告げる。
「できません」
「えっ」
「上位精霊との契約は、術師の生まれ持っての得意属性と同一の属性である精霊でないと契約できません。×××様は得意属性が違うので、アイリーン様が契約した精霊と契約することはできません」
そもそも、上位精霊との契約には膨大な魔力と、魔術式の理解力も必要なのだ。その程度、授業で教わっただろうに、と従者は内心呆れていた。
少年はすっかりしょげてしまって、首飾りを見下ろし項垂れている。
やれやれと従者はこっそり溜息を吐いた。彼は別に、自分の主人を悲しませたいわけではないのだ。
「しばしのお目汚しを、お許しください」
「…………うん?」
従者は自身が羽織っていた上着をめくり、背中にくくりつけていた一冊の本を取り出した。
大人なら上着の影にこっそり隠し持ってくることができただろうが、従者は主人とさほど年の変わらぬ少年であった。故に、大人達に見つからぬよう本を持ち込むためには、体にくくりつけて、上着で誤魔化すしかなかったのだ。
「これを、どうぞ」
従者が差し出した本のタイトルを見て、少年は目を輝かせた。
「〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイの、天文学の本じゃないか!」
「以前、読みたいと仰っていたので」
「わぁぁぁぁぁ! ありがとう! ずっとずっと読んでみたかったんだ!」
少年は本を胸に抱いてピョンピョンと飛び跳ね、全身で喜びを表現した。
本来なら行儀が悪いと窘めなくてはならないところだが、従者の少年は見て見ぬふりをする。
彼の主人であるこの少年は、夜空の星に興味を示していた。だが、天文学など彼の将来には必要ないと、大人達はいつも、その手の本を少年から遠ざけようとする。
だから従者の少年はこっそり入手して、持ち込んだのだ──彼の主人を喜ばせたいという、ただそれだけの気持ちで。
「〈星詠みの魔女〉はね、七賢人の一人なんだけど、星の動きを見て国の未来を視る、すごい予言者なんだ! この国に占い師は数多くいるけれど、予言者と呼ばれるのは〈星詠みの魔女〉だけと言われていてね。なんでも星の色や瞬きの回数が重要らしいんだけど、星の色というのはそのまま星の寿命を示していて……」
「大変申し訳ありませんが、そのお話は後ほど伺います。そろそろシェイルベリー侯爵令嬢が到着される頃ですので、お支度を」
従者の少年の言葉に、彼の主人は「うっ」と顔をしかめた。
「……そういえば、今日はブリジットとダンスの練習をする約束だったっけ……嫌だなぁ。ダンスは苦手なのに……ブリジットは足を踏むとすごく怒るし……女の子と話すのって苦手だ。緊張して、上手く喋れなくなる」
「婚約者候補に、そのようなことを言うのは如何なものかと」
「勿論、人前では言わないよ。君の前だけだ」
少年は深々と溜息を吐き、従者から受け取った本を宝物のように胸に抱いた。
* * *
その晩、祖父の部屋に呼び出された少年は、目の前の光景に呆然と立ち尽くした。
祖父の足元に跪いているのは、少年が兄のように慕っている従者の少年。その上半身は何も身につけておらず、白い背中は折檻の鞭痕で酷く腫れ上がっていた。
「お、お祖父様……なん、で……」
「コレは、お前に余計な差し入れをしたらしいな」
そう言って祖父はテーブルの上の本に目を向けた。それは、従者の少年がこっそり入手してくれた、あの本だ。ちゃんと部屋に隠していたのに! と少年は顔をこわばらせる。
「……ぁ、あ……ごめんなさい、違うんです、彼は悪くないんです。私が無理を言ってお願いをして……」
「つまり、コレは私の命令ではなく、お前の命令に従ったということか……使用人風情が、主人を履き違えるとは」
そう言って祖父は、従者の背中に鞭を振り下ろした。まだ少年とたいして変わらぬ年齢なのに、従者は歯を食いしばって、声を出さずに痛みに耐えている。
「やめてくださいっ、お願いしますっ、お願いしますっ、もう、天文学の本なんて欲しがりません。だから……っ」
「その本を、暖炉へ」
祖父に命じられるまま、少年は机の上の本を手に取り、暖炉の前に立った。
そして、震える手で大事な本を暖炉に放り込む。
折角、従者の少年が目を盗んで持ってきてくれたのに──他でもない、彼のために。
文字が燃えていくのを眺めながら、泣きそうになるのを堪えていると、祖父は低い声で告げた。
「今日のダンスのレッスン、酷い有り様だったらしいな」
「も、申し訳、ありませ……」
ピシャリと鋭い音がして、再び鞭が振り下ろされる。
少年ではなく、跪いている従者の背中に。
祖父は少年を痛めつけるよりも、少年が兄のように慕っている従者を痛めつける方が効果的であることを、よく知っていた。
「私はシェイルベリー侯爵に、恥を晒したことになる」
「も、申し訳ありませんっ、申し訳ありませんっ……次は……次は、ちゃんとやります! もう絶対にお祖父様に恥なんてかかせません。だから……っ」
従者に鞭打つのはやめてほしいと涙目で懇願すれば、祖父は最後に一際大きな音を立てて、鞭を振り下ろした。それでも、従者の少年は悲鳴をあげず耐えている。
「次はない」
「……はい」
少年がガクガクと震えながら頷けば、祖父は冬の湖よりも冷ややかな目を出来の悪い孫に向けて、吐き捨てた。
「こんな出来損ないがアイリーンの息子だとは、嘆かわしい」