【7ー15】一方その頃、シリル・アシュリーはくしゃみをしていた
チェス大会におけるセレンディア学園とミネルヴァの試合は、先鋒がモニカの勝利、中堅はミネルヴァ側の勝利となった。一勝一敗の今、勝敗を分けるのは大将の試合。
その大将戦も、もうまもなく終わろうとしているのだが、ラナはチェスの試合よりもモニカのことが気がかりで仕方がなかった。
ミネルヴァのバーニー・ジョーンズがモニカに敗北して会場を飛び出していった後、ややあってモニカもそっと会場を出て行ったのだ。恐らくバーニーを追いかけたのだろう。
バーニーがモニカに当たり散らすのではないか、また酷いことを言うのではないかとラナは心配だった。
シリルとニールが控え室に様子を見に行ったようだから、滅多なことはないと思うけれど、なんだか妙な胸騒ぎがするのだ。
そうこうしている内に、離席していたニールが戻ってきた。彼は自分の席に戻ることなく、早足でフェリクスに近づき、何事か耳打ちしている。
(……アシュリー副会長は、一緒じゃないの?)
シリルがこの場にいないという事実とニールの険しい顔が、ますますラナの不安をかきたてる。
そのタイミングで、丁度大将戦が終わった。勝者はエリオット・ハワード。二勝一敗でセレンディア学園側の勝利だ。
この後は少しばかり休憩を挟んで、院とミネルヴァの試合が行われることになっている……が。
「試合が終わったばかりのところすまない。全員、聞いてほしい」
フェリクスが立ち上がり、声を張り上げる。
そこに、いつもの穏やかで優しげな笑みはない。
「この学園に侵入者がいるとの情報が入った」
予想外の言葉にラナは絶句した。驚いているのはこの場にいる誰もが同じだ。皆、不安そうな顔をしている。
そんな彼らを落ち着かせるように、フェリクスは少しだけ声のトーンを柔らかくした。
「どうか安心してほしい。既に侵入者は拘束しているし、この部屋の外には警備兵が待機している。ただ、念のために警備兵に学園内を巡回させたいので、しばしこの場に待機してもらいたい」
フェリクスの言葉に、誰もがざわついていた。それでも、この部屋の外に警備兵がいると言われたからか、パニックになる者はいない。
(ちょっと待って、モニカは? この部屋にいないモニカはどうなってるのよ?)
ラナが声を上げそうになったその時、ラナ達の席に静かに近づいてくる人物がいた。ニールだ。
ニールは「ちょっといいですか?」とラナ、クローディア、グレンを手招きし、声のトーンを落として囁く。
「侵入者の取り押さえ現場に、ノートン嬢が居合わせてたんです」
えぇっ!? と声をあげそうになったグレンの口をニールが素早く塞いだ。最近のニールは、グレンの口を塞ぐ手際がどんどん良くなっている気がする。
ニールは「しーっ」と、念を押してから言葉を続けた。
「幸い、ノートン嬢は怪我をしていないんですけど、ショックを受けていると思うので……皆さん、そばにいてあげてくれませんか?」
「モニカは今、どこに?」
早口で訊ねるラナに、ニールは他の者には聞こえぬよう小声で答える。
「医務室です」
かくして、ニールに頼まれたラナ、クローディア、グレンの三人はこっそり会場を抜け出し、警備兵に警備されながら医務室へ向かった。
「モニカ、いる?」
医務室の扉をノックしてから中を覗き込むと、そこに養護教諭の姿はなく、代わりにモニカが椅子にちょこんと腰掛けている。
──下着の上に、男性物の上着を羽織っただけの姿で。
ラナは高速でグレンにタックルをして医務室から叩き出し、クローディアと自分だけを残して医務室の扉をピシャリと閉めた。廊下からグレンの「酷いっすー!」という悲鳴が聞こえたが、今はそれどころじゃない。
モニカはグレンに下着姿を見られたことを、特に何とも思っていないのか「あ、ラナ」と椅子に座ったまま、呑気にラナを見上げていた。
ラナは大股でモニカに近づき、震える声で訊ねる。
「……モニカ、その上着は、誰の?」
「えっと、シリル様が貸してくれて……」
ラナは両手で顔を覆って、天を仰いだ。
「見損なったわ! アシュリー副会長!」
「えっ? ラ、ラナ……っ?」
「しかも、こんな格好の女の子を放置してどこかに行っちゃうなんて、最低よ!」
悲痛な声で叫ぶラナに、モニカがオロオロと眉を下げる。
一人冷静なクローディアは、部屋の隅に引っ掛けてある濡れた制服を見て、大体の事情を察したような顔をした。
「……あの朴念仁に、そんな甲斐性があるわけないでしょう」
「だって! この状況じゃ、そうとしか思えないじゃない!」
目を血走らせて叫ぶラナに、クローディアは部屋の隅に引っ掛けられている制服を指さす。それを見たラナがきょとんと目を丸くすれば、モニカがポソポソと小声で言った。
「えっと、あのね……制服が濡れちゃって寒かったから、脱いで乾かしてたの。でも、コルセットは一人じゃはずし方が分からなくて……ラナが来てくれて、良かった……」
「…………」
ラナはしばし黙り込んでいたが、やがて顔を上げると、真剣な目でモニカを見据える。
「……怪我はしてないのね?」
「うん」
「どこも痛くない?」
「うん」
モニカがコクコクと頷くと、ラナはその場にしゃがみ込んで深々と安堵の息を吐いた。
* * *
ラナにコルセットを外してもらったモニカはびしょ濡れの下着を脱ぐと、医務室にある簡素な寝間着に着替えた。
正直、寒くて寒くて仕方がなかったので、寝台から薄手の毛布を一枚拝借して、上から羽織る。
そこに、クローディアが無言でブリキのマグカップを差し出した。どうやら、モニカのために温かい飲み物を用意してくれたらしい。
ありがたく受け取ってカップの中身を啜ったモニカは、口を真一文字に引き結んで硬直した。
「か、から……っ、ぅっ……」
「……生姜と唐辛子と柑橘の皮入り。温まるわよ」
体を温めることのみに特化し、味には配慮していないような配合だが、なるほどちびちびと飲んでいく内に体が内側からポカポカ温かくなってきた。
モニカがほぅっと息を吐くと、ようやく室内に入ることを許されたグレンが訊ねる。
「それで、結局、何があったんスか? なんか、侵入者がいるって生徒会長が言ってたんスけど」
モニカはどこまで話したものか、しばし悩んだ。
どうやらチェス大会の会場にいた人々にも、侵入者の情報は伝わっているらしい。なら、遅かれ早かれ、モニカが知っている程度の情報は噂になるはずだ。
(……暗殺者がミネルヴァの教師に化けてたってことは、一応伏せておいた方がいいかな)
バーニーが咄嗟に機転を利かせてくれたおかげで、あの場におけるモニカの立ち位置は「通りすがりの被害者」だ。
暗殺者は自分がモニカの無詠唱魔術で攻撃されたことに気づいていないだろうから、バーニーが口裏を合わせてくれるなら、モニカはまだこの学園生活を続けられる。
モニカに分からないのは、ただ一つだけ。
(……バーニーは、どうしてわたしを庇ってくれたんだろう)
あんなにモニカのことを憎んでいたのに。
学生ごっこなんて良い身分だと嘲笑っていたのに。
最後の最後で、バーニーはモニカの正体がバレないように嘘をついた。
──貴女なんて、一生ボクに感謝してればいいんです。
(初めて会った時から、ずっと、バーニーには感謝してるのに)
やっぱりよく分からないなぁ、とモニカは溜息を吐きつつ、ポツリポツリと事情を説明する。
「……えっと、バーニー……ミネルヴァの大将を追いかけて控え室に行ったら、暗殺者さんと戦闘中で……」
「なるほど、それで巻き込まれたんっスね? 服がビシャビシャなのは、水の魔術か何かっスか?」
「うん、水球に閉じ込めるみたいな魔術で……」
それで制服が濡れているのだとモニカが説明すれば、クローディアは感情の読めない目で、じぃっとモニカを見つめた。
「……茶会で毒殺されかけて、木材の崩壊に巻き込まれて、今回は暗殺者に遭遇……充実した学園生活ね。何かに呪われていないか、教会で見てもらった方が良いんじゃない?」
「うっ……」
お茶会の毒殺未遂はともかく、後者二つはフェリクスの暗殺絡みである。護衛者として、現場に居合わせるのは当然のことなのだが、はたから見たら、壮絶に運が悪いように見えるだろう。
いや実際、ちょっぴり……かなり……ものすごく、運が悪い気がしないでもないけれど。
モニカが改めて自分の運の悪さをしみじみ噛み締めていると、グレンが椅子の上でお行儀悪く足をブラブラさせながら呟いた。
「これってやっぱ、チェス大会は中止になるんスかねぇ。折角モニカが勝ったのに」
グレンの呟きにラナが頷く。
「そうするのが妥当よね。今日は休日で生徒が少ないから、この程度の騒ぎで済んでいるけれど、明日から大騒ぎになるわよ」
「じゃあ、学祭も中止になっちゃうんスか?」
グレンの呟きに、ラナが暗い顔をする。
「学祭まであと四日しかないんだもの。四日前にこんな事件が起こったら、学祭も中止になるに決まってるわ……」
学祭の舞台衣装を担当していたラナは、酷く消沈しているようだった。無理もない、皆が学祭を楽しみにしていたのだ。
グレンもがっかりした様子で「そうなるっスよねぇ」と肩を落とす。
だが、そんな二人の懸念を、意外にもクローディアが否定した。
「……学祭は、決行されるわ」
それは決してラナとグレンを励ますような口調ではなかった。
いかにもいつもの彼女らしい暗い顔で、憂鬱な事実を口にするかのように、クローディアは学祭決行を断言する。
グレンとラナは怪訝そうに反論をした。
「でも、第二王子の暗殺未遂事件があったばかりなんスよ?」
「普通なら、王子の身の安全を気にして、中止にする筈だわ」
二人の言うことは当然の事実だ。だが、そんな二人にクローディアは説明が面倒臭いと言わんばかりの渋面で呟く。
「……クロックフォード公爵が、絶対に学祭を強行するわよ」
クロックフォード公爵──フェリクスの母方の祖父にあたる、大貴族。
このセレンディア学園を陰で牛耳る人物であり、この学園が公爵の支配下にあることは誰もが知る事実だ。
だが、そのクロックフォード公爵が、擁護する第二王子の身の安全を蔑ろにしてまで、学祭を強行するだろうか?
モニカは恐る恐るクローディアに訊ねる。
「あの、えっと……クロックフォード公爵は、第二王子の後ろ盾なんです、よね? だったら、殿下の身の安全を最優先にするんじゃ……」
「……クロックフォード公爵は、そういう人物じゃないわよ」
モニカはクロックフォード公爵と直接の面識がないので、噂に聞いた程度の人物像しか知らない。
ルイス・ミラー曰く「目的のためなら手段を問わない、残忍な野心家」
「警備は強化するでしょうけど、学祭は必ず行われるわ。何故なら、学祭は第二王子のお披露目の場だから。クロックフォード公爵は必ず、第二王子の身の安全より、お披露目を優先する……そして、第二王子はそれを拒まない。あの第二王子が、クロックフォード公爵の傀儡である内は」
第二王子はクロックフォード公爵の傀儡──それは、ケイシーも口にしていた言葉だ。
だが、モニカにはどうしても、フェリクスには「傀儡」という言葉が似合わないような気がしてならないのだ。
妙な胸のざわつきを覚えつつ、モニカはカップの中身を啜った。
なんだかやけに背すじがゾクゾクするのは、どうか寒さのせいであってほしい。