【7-13】無慈悲な……
ラナに化粧を直してもらったモニカが試合会場に戻ると、観客席では異様な光景が繰り広げられていた。
観客は皆、学園側が用意した椅子に座って観戦するのだが、ただ一人だけ床に正座している者がいる。
モニカにチェスを前提に婚約を申し込んで、速攻ふられたロベルト・ヴィンケル君である。その背中には「反省中」と書かれた紙が貼られていた。
そして、ロベルトの左右を挟むようにして座っているのは、にこやかな笑顔のフェリクスと、むっつりした顔のシリル。ついでにロベルトの後方の席では「院」のレディング教諭が、腕組みをしてロベルトを睨んでいる。
見るからに近寄りがたい空間にモニカが絶句していると、ロベルトがモニカに気づき、正座したまま声を張り上げた。
「モニカ嬢、この試合が終わったら、もう一度先ほどの話を──」
懲りないロベルトの頭に、レディング教諭が拳骨を落とした。
殴られた頭をさするロベルトに、左右のフェリクスとシリルが冷ややかに言い放つ。
「ヴィンケル君、私はまだ、君に口を利くことを許可していないのだけど」
「試合前の選手を動揺させる行為は、厳に謹んでもらおう」
ロベルトの周辺だけ、空気が異様にギスギスとしている。怖い。
モニカがあわあわと困惑していると、エリオットとベンジャミンがモニカを手招きした。モニカはこれ幸いとばかりに、素早く二人のもとに駆け寄る。
「あ、あの、あそこの、席……」
「いいか、あそこは見ないフリをしろ。そして、ノートン嬢が離席している間に何が起こったかは、絶対に訊くな。俺は何も見ていない。いいか、繰り返すぞ。俺は何も見ていない」
「おぉ、あんなにも温厚とうたわれている生徒会長が、あそこまで無慈悲になる瞬間があるとは……あの時私は確かに聴いた、音楽家ゲオルグ・アルトマイアーのレクイエム『神の怒りよ、ここに降り注がん』を!」
よく分からないが、とにかく恐ろしいことが起こったのだということだけ、モニカは理解した。
これは知らない方が幸せだと判断したモニカは、エリオットの忠告にコクコクと頷く。
ミネルヴァ側の選手は、まだ到着していないようだった。選手と顧問教師の姿が見えない。
とりあえずセレンディア学園側の三人が、それぞれの席に着くと、時間ギリギリになってミネルヴァの三人が姿を現した。
先頭に立つのは、バーニー・ジョーンズ。てっきり彼が大将の席に着くのかと思いきや……彼はエリオットの前を素通りし、モニカの向かいの席に着席する。
エリオットが片眉を跳ね上げて、バーニーを見た。
「おいおい、席が違わないか? 君が大将なんだろう?」
「先ほど変更届を提出しました。この順番で間違いありません」
大将だったバーニーが先鋒に移るということは、それだけモニカを強敵視しているということ──それは、エリオットに対する侮辱行為だ。
エリオットはいつもの軽薄そうな笑みを引っ込め、冷ややかな目をバーニーに向ける。
「やり方が、スマートじゃないな」
「失礼は承知の上です。ですが、こちらにも、どうしても譲れない事情がありまして」
バーニー以外のミネルヴァ側の二人は、どこか困惑している様子だった。恐らく、この順番の変更はバーニーの独断なのだろう。
モニカは驚きこそすれど、動揺はしなかった。
不思議と心が凪いでいる。あんなにも向き合うことが恐ろしかったバーニーが、今は全然怖くない。
バーニーに許してもらうことを、友と呼ばれることを、認めてもらうことを──それら全てを諦めた瞬間、モニカの胸に刺さっていた楔の一つが、確かに消えてなくなったのだ。
バーニーはエリオットから視線を外し、モニカを見据える。その目が、こう語っていた。
──こちらを見ろ、自分をもっと意識しろ……と。
だが、バーニーの執念は、もうモニカの心には届かない。
モニカが盤面に視線を落とせば、もうモニカの頭を占めるのはチェスのことだけだ。
バーニーの入る余地など、ない。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
先攻のバーニーが駒を動かす。すかさず、モニカは次の手を指す。
バーニーのチェスは、とても攻撃的なチェスだった。どれだけの駒を犠牲にしても、絶対に勝つという強い意志に満ちたチェス。
それをモニカは、真っ向から打ち砕く。
バーニーは本来大将の役目を担うだけあって強かった。強いけれど、脆い強さだった。
バーニーのチェスは、勝利のために沢山の犠牲が出るチェスだ。
その犠牲も布石も戦略も全てが無駄だとばかりに、モニカはバーニーの手を一つずつ正確に潰していく。
かつて、ワイバーンの眉間を撃ち抜いた時と同じ無慈悲さで。
観戦席のクローディアが、盤面の動きを見て、ボソリと呟いた。
「……容赦ないわね」
辛辣さに定評のあるクローディアに「容赦ない」と言わせられる者が、一体どれだけいるだろう。
チェスに疎いグレンが、盤面を見ながらニールに訊ねた。
「えーっと、モニカが勝ってるんすか?」
「…………いえ」
ニールは強張った顔で首を横に振る。
「もう、勝ってます」
「へっ?」
グレンは目を丸くして、間の抜けた声を漏らす。グレンが驚くのも無理はない。だって、まだ試合が始まってから二十分かそこらしか経っていないのだ。
「モニカがもう勝ってるんなら、なんで試合が続いてるんすか?」
「この局面ならノートン嬢の勝ちは、ほぼ確定なんです。ただ、相手の人が……それを認めたくなくて、あがいている状態とでも言いますか……」
「……あれじゃあ、ステイルメイト(引き分け)に持ち込むことすら、絶望的ね。それでも大将がわざわざ先鋒に降格したのに、二十分で負けたら面目丸潰れだから、必死で時間稼ぎしてる……ってところかしら」
「ひぇっ……」
グレンが哀れみの目をバーニーに向ける。
その横で、今まで黙っていたラナが、腕組みをして得意げに鼻を鳴らした。
「そうよ、今日のモニカは一味違うのよ」
「……なんで貴女が得意げなのかしら?」
「友達がすごかったら、自慢に思うのは普通でしょ。わたしは自分の好きなものが褒められたら嬉しいし、誇りに思うわ」
ラナがツンと細い顎を持ち上げてそう言った時、モニカが静かにチェック・メイトを宣言した。
* * *
「チェック・メイト」
モニカがそう宣言すると同時に、バーニーはブルブルと体を震わせ、前髪をかき乱した。
モニカは無表情に盤面だけを見ている。その目に映るのは白と黒の駒だけで、バーニーのことなどこれっぽっちも見ていないのだ。
モニカは昔からそうだった。いつだって頭の中は魔術のことばっかりで、バーニーのことなんて視界に入ってすらいない。
本当は理解していたのだ。モニカは本物の天才、自分はちょっと優秀なだけの凡人。
そこには決して崩せぬ堅固な壁があり、バーニーはその壁を越えることはできないのだと。
「……っ、くそっ」
バーニーは椅子を鳴らして立ち上がると、会場を飛び出した。
モニカはバーニーを追いかけたりしない、声をかけたりもしない。
バーニーが部屋を飛び出す最後の瞬間まで、その目は盤面の駒だけを見ていた。
それが現実なのだ。
(くそっ、くそっ、くそっ!)
控え室に戻ったバーニーは、壁に拳を叩きつける。こんなの全然クレバーじゃない。そうと分かっていても、当たり散らさずにはいられなかった。
「……えーっと、ジョーンズ君?」
控えめに扉をノックして、ピットマンがバーニーに声をかける。どうやら、会場からわざわざ追いかけてきたらしい。
「あのね、負けて悔しいのは分かるんだけど、会場に戻ろう? ほら、最後は全員顔を合わせて挨拶しなきゃいけないし」
「……すみません。もう少ししたら、戻りますから」
「うーん、あんまり遅れると、あの顔の怖い先生に睨まれそうなんだよなぁ……」
顔の怖い先生というのは、セレンディア学園のチェス教師、ボイドのことだろう。
確かに、あの傭兵じみた恐ろしい顔に睨まれると、ちょっと命乞いしたくなる気持ちは分かる。
(…………うん?)
ふと、バーニーは奇妙な違和感を覚えた。
否、違和感はこの瞬間に始まったことじゃない──頭に血が上っていて気づかなかったが、職員室でのやりとりもそうだ。
バーニーはモニカに対する怒りを一度堪えて、ピットマンと向き合う。
「……ピットマン先生、ミネルヴァに戻ったら、またチェスの指導をお願いしてもよろしいですか?」
「あぁうん、僕で良ければ喜んで」
その言葉に、バーニーは確信する。
「……貴方は、誰です?」
バーニーの問いに、ピットマンはキョトンと目を丸くした。
「えっ、誰って……ユージン・ピットマンだよ。ミネルヴァの教師の」
「ピットマン先生は、チェス倶楽部の顧問ですが、チェスが弱いんですよ。ご本人も下手の横好きだから、僕達に教えられることはないと、いつも仰っていました」
「いやぁ、たまには僕だって、生徒の前でいいところを見せたいって思ってね」
「なら、貴方の担当教科は? 得意魔術は?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、ピットマンは黙り込む。
思えば、おかしな話なのだ。
職員室にいたマクレガン教諭は、長年ミネルヴァで実技指導をしていた人物だ。元ミネルヴァの生徒であるピットマンが顔を知らない筈がない。
なのにあの時、彼はこう言った。
──こちらのご老人は知り合いかい?
ボイド教諭に関してもそうだ。チェス大会に顧問として参加しているピットマンが、ボイド教諭の名前を忘れているのはおかしい。
「……繰り返し訊ねますが、貴方は誰です?」
バーニーが臨戦態勢で訊ねれば、ピットマンのいかにも頼りなさげな笑みが剥がれ落ち、唇が弧を描くように持ち上がった。