【7ー4】モニカのおねだり
放課後、フェリクスが生徒会室で作業をしていると、エリオットとモニカがほぼ同時に生徒会室に到着した。なんでも二人はチェス大会の選抜選手に選ばれたらしく、その件でボイド教諭と少し話をしていたらしい。
生徒会室には、フェリクス以外の者は丁度出払っていた。
学祭が近いので、外部の人間との交渉や、各部門長との打ち合わせに忙しいのだ。逆にフェリクスは報告書待ちなので、少しばかり暇を持て余していた。
そんな矢先に、エリオットとモニカがチェス大会の選手に選ばれたという朗報だ。
フェリクスはニッコリと二人に笑いかけた。
「今年も生徒会役員から二名選出されるなんて、嬉しい限りだ。学園の代表として頑張っておくれ。チェス大会までは、仕事の配分を少し減らしておくから」
「あ、ありがとう、ござい、まふ」
学祭前ともなれば当然に生徒会役員は多忙になるのだが、モニカは仕事が早いし、エリオットの分は同じ書記のブリジットが負担してくれるから問題ないだろう。
書記のブリジットは彼女自身も有能だが、何と言っても人を使うのが抜群に上手い。部門長や各委員会、クラブの代表者を無駄なく動かす手腕は、いっそ惚れ惚れするほどだ。
今一番忙しいのは、間違いなく総務のニールである。ニールの仕事はフェリクスの方でもフォローをしているが、シリルにも手伝ってもらった方が良いかもしれない。今まではシリルをモニカの教育係につけていたが、チェス大会が一段落したら、シリルを教育係から外しても問題ないだろう。
仕事の段取りを考えつつ、フェリクスはモニカとエリオットをちらりと見た。
モニカはいつもと変わらず、気まずそうに俯いて、もじもじと指をこねている。ただ、隣に立つエリオットの雰囲気はだいぶトゲが取れているように見えた。
エリオットは平民のモニカが生徒会役員になることを良く思っていなかったようだが、ここ最近は少しだけ態度が軟化している。
(……シリルといい、エリオットといい、私の知らないところで、子リスと何かあったのかな?)
エリオットの場合、やはりチェスの授業がきっかけだろうか。フェリクスとしては、モニカには魔術の授業を勧めたかったのだが、モニカが選んだのはチェスの授業。
あと一年ずれていたら、自分も一緒にチェスができたのに、とフェリクスは密かにがっかりしていた。フェリクスは前年度は、チェスの授業を受講していたのだ。
「子リスはエリオットから見て、どれぐらい強いんだい?」
「なかなかえげつないぜ。まだ三回しかやったことがない初心者のくせに、俺はステイルメイトに持ち込まれた」
「へぇ?」
エリオットは代表選手の大将に選ばれるぐらいには強いのだ。そのエリオット相手に引き分けに持ち込んだとなれば、それは充分称賛に値する。
フェリクスはふと思いつき、戸棚からチェスボードと駒を一式取り出すと、モニカを見た。
「私と対局してみないかい? チェス大会に出るのなら、いろんな相手と勝負しておいて損は無い」
「いいいいいいいいいいいえっ、いいえっ。でっ、でっ、殿下の、お仕事の、お、お邪魔を、する、わけ、にはっ」
「ちょうど今、暇なんだ。そうだな……君が私に勝ったら、なんでも一つおねだりを聞いてあげよう」
フェリクスの提案に、モニカは丸い目を大きく見開いた。いつもは暗くかげっている茶の目が光を乱反射して、若葉色にキラキラと輝く。
「ほ、本当に……なんでも、いいん、ですか?」
「あぁ、勿論」
頷きつつ、フェリクスは密かに心を弾ませた。
モニカは基本的に誰かに何かをねだったりしない。羽ペンを借りるだけでも、申し訳なさそうにもじもじしているような少女なのだ。
そんなモニカが自分におねだり!
一体、この子リスは、フェリクスに何をねだるのだろう?
(……数学書とかかな)
大いにあり得るが、それはそれで構わなかった。可愛い小動物が何かをおねだりするのなら、ご褒美ぐらい与えてやってもいい。
フェリクスは、少し前にモニカがシリルとチョコレートを飲んでいた光景を思い出す。
最近、彼のお気に入りの子リスは、やけにシリルに懐いている気がするのだ。いつのまにか呼び方も「アシュリー様」から「シリル様」に変わっている。フェリクスなんて未だ「殿下」呼びなのに!
つまるところ彼は、お気に入りのペットが自分以外に懐いていることに拗ねていた。
(まぁ、おねだりの内容が数学書なら、それでもいい)
とびきり稀少な本を贈呈して、子リスを仰天させるのも、それはそれで面白そうだ。
そんなことを企みつつ、フェリクスは駒を並べる。
さて、エリオットとモニカに気づかれないように、巧妙に負けなくては。
* * *
「チェックメイト、です」
モニカの宣言を聞きながら、フェリクスは盤面を眺めて密かに苦笑する。
(……うーん、これは)
確かに少しばかり手を抜いたのは事実だけれど、ゲームはモニカの圧勝であった。これなら別に手を抜く必要も無かったかもしれない。
(もう少し、ギリギリの勝負にするつもりだったんだけどなぁ…………まぁ、いいか。最初から負けるつもりだったし)
フェリクスがそんなことを考えていると、この一方的かつ圧倒的なゲームを見守っていたエリオットが、ヒクヒクと頬を引きつらせてモニカを睨んだ。
「……やっと気づいたぜ、ノートン嬢………………昼の俺との勝負、手加減してたな?」
エリオットの言葉に、モニカはギョッとした顔で、首を横に振る。
「い、いいいいえっ、わたし、手加減なんて、してませんっ!」
モニカはエリオットの言いがかりを、必死に否定し……。
「ステイルメイトになるように、全力でやりました!」
自爆した。
「やっぱり最初っから引き分け狙ってたんだな……知ってるか? それを世間では手加減って、言・う・ん・だ・よ」
エリオットは低い声で呻きながら、モニカの右の頬をギュムッとつまんだ。肉の薄いモニカの頬は、思いのほか、みよーんと伸びる。
モニカは頬を抓られ、えぐえぐ泣きじゃくりながら言い訳をした。
「ステイルメイトになるパターンの検証がしたかったんですぅぅぅぅぅ……」
「それでオレを実験台にしたわけか。もう怒ったぞ。ボイド先生に言いつけて、大将と先鋒を交換してやる」
「いやぁぁぁぁぁ、ごめんなひゃいいぃぃぃぃ!」
ひんひんと泣きじゃくるモニカの頬を抓るエリオットは、なんとも懐かしい悪ガキの顔をしていた。
エリオットは今でこそ貴族らしさにこだわる男だが、昔は結構な悪ガキだったことをフェリクスは知っている。
(うーん、活き活きとしてるなぁ)
怒っている癖に妙に楽しそうなエリオットを眺め、フェリクスは苦笑した。
「ハワード書記、それぐらいにしてあげておくれ。子リスの頬袋が伸びてしまう」
エリオットが不貞腐れたような顔で、モニカの頬から手を離すと、モニカはぐすぐす鼻を啜りながら、赤くなった頬をさする。
「それで、子リスは私に何をおねだりしたいのかな?」
「な、なんでも、いいんです、よね?」
「あぁ、勿論」
フェリクスが鷹揚に頷けば、モニカは珍しくキリッとした顔で拳を握りしめて言った。
「子リスって、呼ぶの、やめて、ほしい、ですっ」
「………………」
フェリクスはニコニコと優しげな笑顔のまま、無言でモニカの左の頬に手を伸ばし、その白い頬を抓った。
「な、なんでぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
「わぁ、本当によく伸びる。うん、これはちょっと癖になりそうだね」
「いひゃいれふぅぅぅぅぅ」
「あぁ、ごめんね、モニカ」
フェリクスがパッと手を離すと、モニカはグシュグシュとみっともなく泣きじゃくりながら、左右の頬を撫で……目を限界まで見開いて、フェリクスを見た。
「い、いま……えっ、あの……っ」
「うん、どうしたんだい、モニカ?」
ニッコリとフェリクスが告げれば、モニカは頬を赤く腫らしたまま青ざめるという器用な芸当をやってのける。
そうして、頬を両手で包んだ姿勢のまま、モニカはガタガタと震えだした。
「あ、ああああ、あの、せ、せめて、他の皆さんのように、ノートン嬢とか、ノートン会計とか……っ」
「君の要望は子リス呼びをやめてほしいということだろう? 新しい呼び方について、特に指定はなかったはずだ」
フェリクスがしれっと答えれば、モニカはとうとうピクリとも動かなくなる。
フェリクスは知る由もないが、この時、モニカの頭の中では、性格の悪い〈結界の魔術師〉が高笑いしていた。
──はっはっは、条件を厳密に決めておかぬから、こうなるのですよ、同期殿。
ゲームに勝って勝負に負けるとはこのことを言うのだと、モニカはホロホロと泣きながら噛み締めていた。




