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【番外編3】数字の世界に逃げた少女

 モニカは一時期、人間の言葉を忘れていたことがある。


 父が死んで叔父に引き取られたモニカは、毎日叔父に怯えて暮らしていた。

 叔父は、モニカの父を嫌っていた──否、憎んでいたと言ってもいい。

 叔父が父のことを悪く言うたびに、モニカは必死になって反論した。父は悪くない、と。

 そうしてモニカが口を開く度に、叔父はモニカに拳を振り下ろした。

 うるさい。黙れ。余計な口をきくな。

 罵声とともに拳が振り下ろされる。酷い時は腹を蹴られ、椅子で体を殴られた。食事を抜きにされることなんて日常茶飯事だ。

 外に出れば、街の人間はモニカを見て後ろ指をさす。ヒソヒソと囁かれるのは、父の悪口ばかり。

 心と体が、少しずつ擦り潰れて、磨耗していく日々。

 次第にモニカは、辛い時は数字の世界に逃避するようになっていった。

 叔父に殴られた時、真冬の納屋に押し込まれた時、モニカは父の書斎で読んだ本の数式をひたすら頭の中で繰り返す。そうしていると、体の痛みも冬の寒さも忘れられる。


 そうして、数字の世界に逃げるようになって、しばらくした頃、モニカの認識に歪みが生じ始めた。


 まず、人の顔が認識できなくなった。

 目の大きさ、両目の幅、目尻の角度、鼻の長さ、幅、高さ、顎の角度……それらの数字は分かるのに、それが人間の顔だと認識できない。モニカには人の顔が数字の塊にしか見えないのだ。


 次に、人間の表情が認識できなくなった。

 叔父が怒ると、叔父の眉がこれだけ動いた、口がこれだけ開いた、口の角度が何度変化した、眉毛が三秒間に何回動いた──と、全てが数字に変換される。

 ただ、そんな叔父の顔が意味する「怒り」をモニカは認識できない。モニカに理解できるのは顔のパーツがどれだけ動いたか、という数字だけ。

 叔父が机を蹴れば、机がこれだけ動いたから、叔父が机を蹴った力は……と、頭は数字の計算を始める。

 何故、叔父が机を蹴ったのかをモニカは理解できない。

 モニカに理解できるのは、叔父が机を蹴る力を数値化したもの、それだけだ。


 最後は人間の言葉が認識できなくなった。

 叔父が何か言っているのは理解できるけれど、その言葉の意味をモニカの頭は認識できない。何を言われたか分からないから、モニカは音の数を数式に組み合わせて計算し、その結果を口から垂れ流す。

 ぶつぶつと数字を口にするモニカを、叔父は気味が悪いと言って蹴り飛ばした。

 モニカは自分が何を言われたのか認識できないまま、自分の鼻血が凝固するまでに何秒かかるかを計算していた。


 そうして、叔父に引き取られて一年が経つ頃、モニカは数字以外何も認識できないほどに、壊れていた。


 ただただ自分を傷つけることのない、美しい数式の世界に浸って、現実から目を背けて。

 体は生きるための最低限のことしかできなくなり、元々痩せていた体は棒切れのように細くなった。


 そんなモニカに手を差し伸べたのが、一人の女性だ。

 赤茶の髪を短く切り揃えた、三十代半ばの眼鏡の女性。彼女の名は、ヒルダ・エヴァレット。

 かつて、父の助手を務めていた女性。


「レイン博士が亡くなってから……ずっと貴女を探していたのよ」


 叔父に家を追い出され、凍えていたモニカに自身のストールを被せ、ヒルダは穏やかな声でそう言った。

 だが、モニカはその言葉を認識できない。分かるのは数字だけ。

 耳にした言葉の字数をそのまま数式に当てはめて呟いていると、ヒルダは柔らかく微笑み、モニカの頬を撫でた。

「レイン博士が貴女に教えた数式ね……その年で完璧に使いこなせるのね」

「…………」

「貴女は、こんなところにいて良い人間じゃない。私と一緒にいらっしゃい、モニカ」

「………………もにか?」

 モニカ、と名を呼ばれたのはいつ以来だろう。叔父はモニカのことをグズとかノロマとしか呼ばない。

 父の名を耳にしたのも、久しぶりだった。誰もが父の名を口にしてはならない、禁忌のように扱っていたから。

 自分の名が、父の名が、数字の世界を揺蕩っていたモニカの意識を浮上させる。


「……わたしの、なまえ…………おとうさんが、つけてくれた、なまえ…………モニカ・レイン」


 ヒルダは泣きそうな顔で、痣だらけのモニカを抱き寄せる。

「貴女のこんな姿を見たら、レイン博士が悲しむわ」

「……おとうさん…………おとうさん…………おとうさん…………」

 おとうさん、と口にしても、この人は自分を殴ったり蹴ったりしない。

 ただ、父の死を悼み、モニカのことを慈しむように抱きしめてくれる。それが、どれだけ嬉しかっただろう。

「……おとうさん、わるくない、の……おとうさんは……おとうさん、は……」

「えぇ、レイン博士は偉大な人だった」

「おとうさん、もえちゃった、ぜんぶ、ぜんぶ……あ、ぅぁ……ぁ……」

 モニカがカタカタと体を震わせれば、その体を抱くヒルダの腕にグッと力がこもった。

 それだけで、この女性が父の死を悲しんでいることが伝わってくる。

「……ぇ、ぅあ、ふっ、う、うぇ…………ぉとう、さぁん………………」

 モニカはヒルダの腕の中で、久しぶりに声をあげて泣いた。

 まるで、幼い子どものように、わんわんと。




 その翌日から、モニカは魔術研究所所員ヒルダ・エヴァレットの養女となり、後に魔術の才を見出され、魔術師養成機関ミネルヴァに通うこととなる。

 今から五年ほど前、まだモニカが十二歳の頃の話だ。


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