【4−2】昔日の悪夢
「あぁ、ニールから聞いているよ。ダンスの練習をしているんだってね」
いつもより遅れて生徒会室に顔を出すと、フェリクスはニコニコしながらそう言った。
モニカは放課後にダンスの練習をするという報告をすっかり忘れていたのだが、気の利くニールがフェリクスに連絡していたらしい。地味だが仕事のできる少年である。
フェリクスは握っていた羽ペンをスタンドに戻すと、ニールに目を向けた。
「それで、練習の成果はどうなんだい? 合格はできそう?」
ニールは視線を右に左に彷徨わせ、暑くもないのに頬に汗をにじませた。
「え、えぇっと……こ、これからの頑張り次第……ですかね」
「殿下、お人好しのメイウッド総務にそこまで言わせるということは、目も当てられない惨状に違いありません」
横で別の作業をしていたシリルが、厳しい口調で断言する。
モニカは何も言い返せず、しょんぼりと縮こまった。
シリルの言うことは実に正しい。今日の練習は散々だった。とても進展があったとは言い難い。
まずは基本的なステップの練習から始めたのだが、モニカは数回に一回は足をもつれさせて転んでしまう。一方、グレンの方は運動神経が良いらしく、ステップを覚えるのは早かった。
こういうのは体で覚えるのが一番だとニールもラナも言うが、とても体が覚えてくれる気がしない。
あぁ、数字ならいくらでも覚えられるのに! と密かに嘆いていると、窓際の席で書類を書いていたブリジットが書類から顔を上げずに口を開く。
「生徒の模範たる生徒会役員が、授業で後れを取るなど……恥晒しにも程があってよ」
「す、すみ、ませ……」
「メイウッド総務にも迷惑をかけていることは自覚していて?」
震えながら謝るモニカに、ブリジットは更に鋭い言葉を被せる。
自分のせいで、誰かに迷惑をかけている──その事実に、モニカの足が竦んだ。
そうだ、自分が上手にダンスをできなかったせいで、ラナにもニールにも迷惑をかけている。
グレンは最初の内こそ散々だったが、運動神経が良いから、すぐにモニカよりも上達するだろう。
そうしたら、きっとモニカはグレンにも迷惑をかける。モニカと組んだせいで、グレンも不合格になったら……。
「あの、ぼ、僕は迷惑とか思っていませんから……」
人の良いニールがオロオロしながらそう言うと、今まで黙っていたエリオットが羽ペンをくるくると回しながら口を挟んだ。
「ブリジット嬢の言う通りだ。生徒会役員は生徒の模範。たかだか社交ダンスの試験すら合格できない人間が役員だなんて、他の生徒に対して示しがつかない」
エリオットはタレ目を剣呑に細めてモニカを見ると、口の端を持ち上げた。
「このままだと、殿下の任命責任の問題になるな?」
落ちこぼれのモニカを会計に任命したのは、フェリクスだ……故にモニカが何か問題を起こせば、それはモニカを選んだフェリクスの責任にもなる。
自分のせいで、ラナやニール、グレンだけでなく、フェリクスにまで迷惑がかかる。
その恐怖とプレッシャーに、モニカの小さな体は押し潰されそうだった。
迷惑をかけてごめんなさい、頑張ります、精一杯やります、どうか許してください──そんな言葉が頭をぐるぐる駆け回るのに、喉が引きつって声が出ない。
モニカがハクハクと唇を動かしていると、フェリクスが静かに言った。
「前にも言っただろう? 彼女が不始末をした時は、私が責任を取ると」
フェリクスが口を開けば、生徒会室の空気は変わる。
フェリクスは優雅に微笑み、宣言した。
「何も心配いらないさ、ノートン嬢は私が見込んだ人間だ。きっと私の期待に応えてくれる。そうだろう? ノートン嬢」
最後の言葉はモニカに向けられたものだ。それも、とびきりの笑顔付きで。
無理です、私にはできません、と内心悲鳴をあげつつ、モニカはその言葉をギリギリのところで飲み込んだ。
王族であるフェリクスに「期待している」と言われた以上、モニカにはそれに応えるしか道はない。
それでも安易に頷くこともできず俯いていると、フェリクスが立ち上がり、モニカの前に立った。そうして彼はモニカの顎に指を添えて、上を向かせる。
神秘的な碧い目が、物憂げにモニカを見下ろした。
「私の期待に……応えてくれるね?」
少し切なげなその声は、大抵の女子なら頬を染めたことだろう。だがモニカは脅迫された被害者のような顔で、ガクガクと首を縦に振る。
モニカは自分の中にある、ありったけの語彙力をかき集めた。
意思表明をする際に重要なのは、論理的かつ明解な説明である。
「まっ、まっ、まずは……使用する楽曲のテンポの分析と歩幅の照合。ダンスの最中の足、腰、肩の角度を解析して記憶する作業から始めたいと思いますっ!」
一見論理的なようで、これっぽっちも論理的ではないモニカの言葉に、シリルが半目になって呻いた。
「……小娘、貴様は頭を使う前に、体を動かせ」
尤もである。
* * *
屋根裏部屋に戻ったモニカは、ぐすぐすと鼻を啜りながらベッドにうつ伏せに倒れた。慣れない運動で足が痛い。
「モニカ、よぼよぼのババァみたいだぜ」
うつ伏せに倒れるモニカの上に飛び乗ったネロが、肉球でフニフニとモニカの背中を押す。どうやらマッサージをしてくれているらしい。
「うっ、うっ……全身が痛いよぅ……」
「筋肉痛が早く来るのは、体が若い証拠らしいぜ、良かったな」
一体どこでそんな知識を覚えてくるのやら。
ネロはモニカの脂肪も筋肉も無い棒のような足を、前足でギューッと押した。
「オレ様、窓からこっそり見てたんだけどよぉ、ダンスってのはアレか? 相手の足を沢山踏んだ方が勝ちっていう競技なのか?」
「うっ、ち、違うもん……小説の挿絵で見て、知ってるでしょ……」
「挿絵しか知らないからこそ、衝撃だったぜ。ダンスってのが、まさかあんなに過酷な競技だったなんてな」
ネロは机の上に跳び移ると、広げていた小説本のページを器用に前足でめくった。
そして、その一文を前足でテシテシと叩く。
『……ジュリアは音楽に身を委ねる……それはまさに夢のような時間だった。二人は手を取り合い、心のままにステップを踏む……』
「この登場人物は、心のままに互いの足を踏み合ったんだな。やべぇ、この場面の解釈が変わるわ」
「……だから違うってば……もぅ〜〜」
モニカは頬を膨らませてネロを睨むが、ネロはからかうように尻尾をゆらゆら揺らしている。
「つーかさぁ、そういうのって魔術でチョチョイとどうにかできないのかよ? お前は無詠唱で魔術が使えるんだろ? こっそりダンスが上手になる魔術を使うことも、できるんじゃねぇの?」
ダンスが上手になる魔術……そんな都合の良いものがあったら、どんなに良いだろう。だが、魔術は万能ではないのだ。
「……肉体を操って特定の動きをさせることは、理論上できるけど……それは、この国だと禁術になっちゃうの」
魔術で人間の体を動かしたり、或いは一時的に筋肉を強化したりと、人間の肉体に魔術を施すことは、この国ではタブーとされている。
人間の肉体は魔力に耐性が無いので、魔力中毒などの副作用を引き起こす可能性があるからだ。同じ理由で治癒魔術についても、扱いを禁止されている。
過去の実験では、小さな切り傷一つを塞ぐだけで大量の魔力が必要となり術者は死亡、治療を受けた側も魔力中毒で死亡したという記録もあるのだ。
モニカがそう説明すると、ネロはピクピクとヒゲを震わせた。
「んん? 待てよ? 『この国だと』? ……もしかして、他の国だと使ってもいいのか?」
ネロの問いにモニカはしばし考えた。
ネロは人間の事情に詳しくないし、人間がどの程度の魔術を使えるのか、知っておいた方が良いだろう。
モニカは居住まいを正すと、真面目な顔で口を開く。
「……肉体操作、肉体支配、身体強化、治癒……人間の体に魔術を施すことは全て禁術扱い。この大陸の魔術師組合は、禁術の扱いを統一しているんだけど……一箇所だけ、例外があるの」
モニカは言葉を切ると、膝の上で握った拳に少しだけ力を込める。
「……それが、東の帝国」
リディル王国の東に隣接する帝国は、この大陸で最も強く広大な国だ。
帝国は一年ほど前、二十歳を少し過ぎたばかりの若い皇帝に代替わりしたばかりなのだが、この若き皇帝は古い慣習を厭い、次々と新しい施策を起こしている──その一つが、医療用魔術の解禁だ。
つまりは、肉体に影響をあたえる魔術の研究を、皇帝は限定的に許可したのである。
この施策に、帝国内の魔術師組合は当然に反発した。だが、その後に帝国の組合長が不審死を遂げたという噂がある。
……つまり、色々とキナ臭いのだ。
「帝国では、今後、肉体強化や治療魔術が発展していくと思う……」
帝国における医療用魔術の解禁は、他国の魔術師にも大きな影響を与えた。
規制の厳しい自分の国を捨て、帝国に移住する魔術師も増えているという。
優秀な魔術師の他国への流出は、どの国でも頭の痛い問題で、七賢人会議でも何度か議題に上がっている。
なによりモニカ自身、医療用魔術の解禁には思うところがあった。
「人間って、色々と大変なんだなぁ」
ネロが小説の表紙をパタンと閉じて、しみじみと呟く。
「……そうだね」
呟き、モニカは目を閉じる。
目蓋の裏には、父の背中が微かに見えた気がした。
* * *
その晩、モニカは懐かしい夢を見た。
机に向かう父の背中を見上げる夢だ。父はいつも難しい計算をいっぱいしていて、モニカはその計算式を絵本がわりにしていた。
父は博識だった。
数学、物理学、薬学、医学──ありとあらゆる学問を修めていた父が、最も得意としていたのが生物学だ。
──人間の体は、膨大な数字で出来ているんだよ。
人間を人間たらしめる数式を解析することができたら、多くの病に苦しむ人を救える。
だから、父は来る日も来る日も、研究に明け暮れていた。
モニカはあまり一緒に遊んでもらえたことはなかったけれど、それでも父の集めた蔵書を読んで、たまに父の研究の話を聞かせてもらえるだけで充分に幸せだった……幸せだった、のに。
夢の中の景色が変わった。
父の背中が赤い炎に包まれ、見えなくなる。
燃えていく、父の姿が。父が書き連ねた膨大な資料が、計算式が。
(やめて! やめて! やめて!!)
叫びたいのに、言葉は喉に貼りついて声にならない。
呆然と立ち尽くすモニカを、一人の男が見下ろした。
セレンディア学園の白い制服がよく似合う、この国の第二王子。フェリクス・アーク・リディル。
『私の期待に……応えてくれるね?』
甘く微笑みながら囁くフェリクスを、モニカは虚ろに見上げた。
これは夢だ。
父の死と、フェリクスは何も関係ない。今日の出来事と過去の思い出が、ごちゃごちゃに混ざっているだけだ。
それでも、誰かに期待される度に、過去に感じた暗い感情がモニカの胸を締めつける。
仄暗い怒りが、モニカの胸を支配する。
どうして、期待に応えますなんて言えるだろう。
(……期待に応えても、お父さんは報われなかったのに)