【3ー7】ネロとフェリクス
シリルを肩に担いだネロは、明かりの一つも持たずに夜の森を疾走していた。ネロは人間の姿をしていても、それなりに夜目が利く。
ついでに言うと、人間より遥かに力持ちなので、シリルを肩に担いでいても、余裕の全力疾走だった。
(……そういや、このヒンヤリ兄ちゃん、どうやって寮から抜け出したんだ?)
男子寮も女子寮も、それぞれ高い塀に囲まれている。門には門番がいて、夜通しで見張りをしているから、簡単には出入りできないはずだ。
風の魔術を使って跳躍なり飛行なりすることができれば話は別だが、飛行の魔術は言うほど簡単なものではない。高度で精緻な魔術操作技術と身体能力の両方が必要となるので、扱えるのは上級魔術師クラスなのだとモニカが以前言っていた。
なお、モニカは魔術の技術はともかく、運動神経が絶望的に悪いので、高く跳躍するのが精一杯である。
(オレ様の見立てだと、このヒンヤリ兄ちゃん、氷の魔術は突出してるけど、それ以外はあんまり得意じゃなさそうなんだよなぁ)
人間は生まれた時から得意属性が決まっている。一般的な魔術師は得意属性の魔術しか使えないということもザラなのだ。
属性を問わず高難易度の魔術を容易く使ってのけるモニカは色々と規格外なのである。たまに忘れそうになるけれど。
(多分、このヒンヤリ兄ちゃんは風の魔術は使えねぇんだろうなぁ。まぁ、この年でこれだけ氷の魔術を使えりゃ、充分すごいけどよぉ)
飛行魔術が使えないシリルが、どうやって男子寮を抜け出したのか?
その答えは、男子寮の裏手に辿り着いたところで、すぐに判明した。寮を囲う壁の一部に亀裂が入っているのだ。どうやら、シリルはここから抜け出したらしい。
「案外、名門校の管理も杜撰なもんだなぁ」
「その亀裂は、歴代の生徒達が寮を抜け出して息抜きをするのに使っていたらしいね」
ネロの背後で声がした。
シリルを背負ったままネロが振り向けば、そこには見覚えのある男子生徒が佇んでいる。
すらりとした長身、甘く整った顔立ち、月明かりの下で柔らかく輝く金色の髪──リディル王国第二王子フェリクス・アーク・リディル。
フェリクスは制服姿で、少し大きめの板を手にしていた。
ネロがその板に目を向けると、フェリクスは亀裂を覆うように、板を壁に立てかける。
「普段は板を立てかけて、この亀裂を隠しているのだけれど、シリルはそうするだけの余裕もなかったようだね」
なるほど、この亀裂は王子様も御用達の抜け道という訳か。
納得しつつ、ネロは肩に担いだシリルを下ろした。
「オレ様は通りすがりの旅人だ。このヒンヤリ兄ちゃんが魔力中毒で暴走して、森ん中でぶっ倒れてたから、届けに来てやったんだぜ。オレ様優しいだろ。感謝しろ」
「あぁ、わざわざありがとう」
「このヒンヤリ兄ちゃんがなんか言っても、魔力中毒で幻覚を見たんだって言っとけよ。いいか。こいつが見たのは全部幻覚だ」
「……ふぅん?」
フェリクスはシリルをチラリと見ると、すぐに視線をネロに戻した。
その表情は穏やかで優しげで──だが、碧い目は油断なくネロを見据えている。
「親切な旅人さん。名前を教えてもらっても?」
「名乗るほどの者じゃねぇけど、オレ様は親切だから名乗ってやろう。バーソロミュー・アレクサンダーだ」
ネロが大ボラを口にすれば、フェリクスは口元に手を当ててクスクスと笑った。
「冒険小説の主人公と同じ名前だ」
「お前、ダスティン・ギュンター知ってるのか?」
ネロの中でフェリクスの好感度が少しだけ上がった。ダスティン・ギュンター好きに悪い奴はいない、とネロは固く信じている。
声を弾ませるネロに、フェリクスはクスクスと笑った。
「この国にある娯楽は一通り嗜んでいるよ。小説も、遊戯も、観劇も」
「女も、ってか?」
フェリクスが夜遊びに行く現場を目撃しているネロがチクリとトゲを刺せば、フェリクスは「どうだろうね」と曖昧に笑う。
(……気持ちの悪い人間だぜ)
王族に生まれ、ありとあらゆるものに恵まれているくせに、まるで何も持っていない人間みたいな──空っぽな目をしている。
フェリクスはシリルを軽々と担ぎ、それから思い出したかのようにネロを見た。
「ところで知っていたかい、旅人さん? この近辺の森は学園の敷地だから、学園関係者以外は立ち入り禁止なんだ」
「へぇ、そうかよ」
ネロは人間の約束事を強要されるのが嫌いだ。
(だってオレ様人間じゃねぇし)
人間のルールなんて、自分の知ったことじゃない。ネロは顎をしゃくってシリルを示した。
「そのヒンヤリ兄ちゃんを助けてやったんだ。ちょっとぐらい目を瞑れよ」
「あぁ、勿論。シリルを助けてくれた君を、尋問するような真似はしないさ」
「ほ〜〜〜う?」
ネロは胡散臭そうに顔をしかめ、その手を自身のローブの中に突っ込んだ。
そうして服の中でゴソゴソと手を動かし、何かを捕まえるような仕草をする。
「……わざわざ尋問をしなくても、こいつがオレ様の正体を調べてくれるからか?」
そう言ってネロはローブの中に引っ込めていた手を外に出す。
その指の先では、尻尾を摘まれた白い蜥蜴がプラプラと揺れていた。
ネロが白い蜥蜴を顔の高さまで持ち上げて「食っちまうぞ〜」と脅すと、白い蜥蜴は小さい手足をバタつかせて暴れる。
ネロは鋭い歯を剥き出しにして、凶悪な顔で笑った。
「見たところ水の精霊か? オレ様の服に忍ばせて、こっそり偵察するつもりだったんだろうが、残念だったな。オレ様、魔力の反応には敏感なんだ」
精霊は魔力の塊のようなものだ。故に、高位の精霊であるほどネロにはすぐに分かる。
この白い蜥蜴は水の高位精霊だ。おおかた、この王子の契約精霊といったところか。
フェリクスは白い蜥蜴を突きつけられても、依然、穏やかな笑みを浮かべていた。それがやけに薄気味悪い。
ネロとしては「な、なんだって!?」とか「お前は何者なんだ!?」という反応を期待していたのだ。それなのに、この王子様は毛ほども動揺してくれない。
「あばよ」
ネロはつまらなそうに白い蜥蜴を地面に放り捨てると、フェリクスに背を向け歩きだした。
(おい、キラキラ王子。いくら退屈だからって、オレ様のお気に入りに手を出すなよ?)
これ以上お喋りをしていたら、正体に気づかれかねない。故に、ネロは声に出さずに呟く。
鋭い歯を剥き出しにして、凶悪に笑いながら。
(モニカを壊したら、お前なんて、頭からバリバリと食ってやる)
* * *
地面に放り捨てられた白蜥蜴──ウィルは、人間の姿に変化すると、フェリクスに頭を下げた。
「力不足、申し訳ありません。今すぐに、あの者を追いかけて……」
「いや、いいよ。君が食べられたら困るからね」
冗談めかして言うフェリクスに、ウィルは自分の力不足を恥じるように俯く。
フェリクスはもう、あの黒髪の青年を追いかけるつもりはなかった。
あの青年が何者なのかは分からない……が、追いかけてどうにかなる相手ではないというのは、本能的に分かる。
あれは人外だ。それも……精霊では無い、別の何か。
ただ、あの人外が何者だろうと、フェリクスに害を成すつもりが無いのなら、今は放置して構わないだろう。
「ウィル、蜥蜴の姿に戻ってくれ。君の姿をシリルに見られると、少々都合が悪い」
「御意に」
白い蜥蜴の姿になったウィルは、フェリクスの足をスルスルとよじ登って、ポケットに収まる。それを確認して、フェリクスはシリルを背負い直し、歩きだした。
すると、フェリクスの背中でシリルが小さく呻く。どうやら、意識を取り戻したらしい。
「……ぅ、……わた、しは……」
掠れた声で呟くシリルに、フェリクスは穏やかに話しかける。
「やぁ、起きたかい」
「…………でん、か……?」
シリルは瞬きを何回か繰り返し、ぼんやりとした目でフェリクスを見た。
「君は魔力中毒を起こして、森の中で倒れていたんだ。親切な旅人さんが、君をここまで運んでくれたんだよ」
「……ご迷惑を」
「なに、構わないさ」
いつものシリルなら、すぐに自分で歩くと言いだしていただろう。それを言いださないのは、それだけ消耗しているからだ。
フェリクスがシリルを彼の部屋まで送り届けると、シリルはぐったりとベッドに横たわり、ぼんやりとした目でフェリクスを見上げた。
「……私を助けた旅人というのは、小柄で、フードを被った人物、でしょうか」
フェリクスは首を横に振った。
「いいや、背の高い黒髪の男だ」
「……そう、ですか」
呟き、シリルは目を閉じる。
ふと気になって、フェリクスは訊ねた。
「君は森の中で、どんな幻覚を見たんだい?」
シリルは、しばし戸惑うように黙っていた。閉ざされた目蓋の裏側で、彼は自分が見た幻を反芻しているのだろう。
やがてシリルは目を閉じたまま、ゆっくりと口を開く。
「……恐ろしく静かで、恐ろしく強い……化け物の幻です…………私は、あの姿を、生涯忘れないでしょう」