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サイレント・ウィッチ  作者: 依空 まつり
第16章「決着編」
235/236

【最終話】静かなる魔女に捧ぐ

 ──柔らかなブランケットに包まり、とろとろとまどろみながら、モニカは夢を見ていた。


 サク、サク、と土を踏んで、慣れた山道を歩く。やがて前方に見えてきた山小屋は、一年近くの時が経つのにモニカの記憶と殆ど変わっていなかった。記憶と違う箇所なんて、せいぜい物干し竿がないことぐらいだ。

 ただいま、と口にして扉を開ける。室内に風が吹き抜け、細かな埃が舞い上がり、日の光を反射してキラキラと輝いた。

 室内をぐるりと見回せば、最後に山小屋を出た時に散乱していた紙の束は三分の一近くまで減っていた。どうやらルイスが部下に指示をして、いくらか整理させたらしい。

 モニカは木製の椅子に薄く積もった埃を払い、腰を下ろした。猫に化けたネロがモニカを見上げて、掃除はしねぇのか? と訊ねる。

 うん、とも、ううん、とも言い難い曖昧な返事をして、モニカはぼんやりとしていた。

 第二王子護衛任務を終えてこの山小屋に帰ってくることができたら、自分はきっとホッとしているに違いないと、そう思っていたのに。

 全てが終わった今は、胸に穴が空いたような空虚さだけがモニカの胸にあった。

 これはきっと、寂しいという感情だ。人が怖くて仕方がなかった自分が、寂しいなんて感じたのはいつ以来だろう?

 モニカはのろのろと立ち上がり、窓を開けて掃除を始める。

 一年分の埃を払うのは大変だったけれど、室内を占領していた紙の山が減っていたおかげで、日が暮れる頃には、ある程度は埃を払うことができた。とは言え、流石に寝具を洗うところまでは間に合わなかったけれど。

 明日になったら、寝具を洗って干そう。あぁ、そうだ。物干し竿代わりになる細長い棒を探さなくては。見つからなければ、杖で代用すれば良いのだけど、ルイスにバレたら叱られてしまう。

 そんなことを考えながら、モニカは寝台に横たわる。

 寝台からは埃とカビの匂いがする…………はずだが、モニカの鼻が感じたのは、お日様の匂いのするフカフカのブランケットの匂いだった。その記憶と異なる匂いが、これは夢なのだと教えてくれる。

(あぁ、そうだ。これは、夢なんだ……)

 埃とカビの匂いのする寝台で一晩寝たモニカは、その翌朝、山小屋を出ることを決めたのだ。

 そして一年近くかけて準備をして、サザンドールのラナの元を訪ねて……。


「モニカ……僕のお師匠様(マイマスター)、お友達が来ているよ」


 誰かの手がモニカの肩を揺さぶる。

 山小屋の夢が終わり、モニカの意識はふわふわと浮上していく。肌触りの良いブランケットを手繰り寄せてもぞもぞしていると、耳元に誰かの吐息を感じた。


「目覚めのキスを御所望?」


 小さな囁き声と同時に、頬にぷにっと触れる柔らかな感触。

 あぁ、そうだ。ネロが起こしにきたのだ。ネロが…………否。

「肉球…………じゃないっ!?」

 勢いよく飛び起きると、すぐ真横でクスクスという笑い声が聞こえた。見れば、アイザックが黒猫姿のネロを抱っこして楽しそうに笑っている。

 モニカは恐る恐る訊ねた。

「い、今のは……肉球? です、よね?」

「どっちだと思う?」

 からかい混じりに訊き返されたモニカは、助けを求めるようにネロを見る。

 だが、ネロはモニカの疑問には答えず、呆れたように尻尾を揺らした。

「おぅ、モニカ。お前、自分の弟子に舐められすぎだろ。もっとビシッと言ってやれ。ビシッと」

「で、弟子って言われても……」

 モニカが寝癖を指で撫でつけながら口ごもれば、アイザックはポケットから封筒を二通取り出し、モニカに手渡した。

「君宛に手紙が届いていたよ。一通目は〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライト卿から。多分、婚約者ができたっていう報告じゃないかな。最近そういう噂を耳にしたから」

「わ、〈深淵の呪術師〉様が婚約ですか? おめでたいですね」

「それと、もう一通はロベルト・ヴィンケル君から。多分、今年のチェス大会の招待状じゃないかな」

「うぅっ、この間、チェス倶楽部顧問の話を断ったばかりなのに……」

 現在、ロベルトはセレンディア学園高等科の三年生。チェス倶楽部の部長として、各地の大会で活躍しているのだとか。

 そんなロベルトからは、頻繁にチェスの誘いが届くが、流石にセレンディア学園に顔を出すのはきまずい。在校生の中には、モニカの顔を知っている者が少なからずいるのだ。

 ただ、モニカとしてはロベルトとのチェスが楽しいのもまた事実。

「こんなに熱心に誘ってくれてるし……個人的なチェスのお誘いぐらいなら、受けても良いかな……」

 ポツリと呟くと、モニカの寝癖を直していたアイザックの手が一瞬止まった。

「チェスがしたいなら、僕が相手をしてあげる」

 その声が少しだけ頑なに聞こえたのは気のせいだろうか。

 モニカが「はぁ」と曖昧な返事をすると、アイザックは「できた」と言ってモニカの髪から手を離した。

「ところでモニカ、下でお友達が待ってるよ。コレット嬢とダドリー君。それにメイウッド夫妻も」

「えっ、えっ、みんなが? す、すぐ行きます……っ!」

 モニカは慌てて立ち上がり、バタバタと部屋を飛び出した。



 * * *



 アイザックがモニカを訪ねてきたのは、今から五日前。

 エリン公爵の称号を与えられて、王都から離れた土地で静かに暮らしている筈の彼は、質素な旅装でモニカの元を訪れ、ニコニコしながらこう言った。

「僕を弟子にしてほしいんだ」

 モニカは驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになりつつ、首を横に振った。

「こ、困ります。わたし、弟子は募集してない……ので……というか、あの……領地、は……?」

「仕事なら全て終わらせてきたけど?」

「で、でで、でも、あまり、留守にするの、良くないんじゃ……」

「僕には優秀な精霊がいるからね。彼に留守番は頼んであるよ」

 どうやらあの水の精霊は、セレンディア学園にいた頃とは別の意味で苦労させられているらしい。

 モニカは内心頭を抱えた。

 アイザックの表向きの顔は、リディル王国の第二王子フェリクス・アーク・リディルであり、エリン公爵である。

 一年前の騒動の際に王位継承権を放棄し、今は王都から離れた領地で静かに暮らしているが、それでも彼が高貴な身分であることには変わらない。七賢人が王族を弟子にするなんて、前代未聞だ。

「僕は本物のフェリクス王子とは得意属性が違うからね。ミネルヴァのような魔術師養成機関で『フェリクス』として魔術を学ぶことはできない……でも、事情を知る君の元で『アイザック』が学ぶなら、問題ないだろう?」

 アイザックの言うことはもっともだが、それでも「はい、いいですよ」と頷けるような話でもない。

 モニカがうんうん頭を抱えていると、アイザックは鞄から分厚い紙の束を取り出した。

「弟子入り志願をするにあたって、レポートを書いてきたんだ。以前、君に見てもらって手直しした物と、新しく書いた物と」

 弟子入り云々はさておき、魔術式を目にしてしまえば、モニカの意識はすぐにそちらに集中してしまう。

 まだモニカが正体を明かす前、レーンブルグ公爵領でレポートを見せてもらった時、モニカは確かにこう紙に書いたのだ。貴方のレポートが、また見たいです……と。

 その時のレポートを手直しした物は、不足していたデータが補われているし、前回のミスを修正した上で、更に新しい発展方法についても触れている。

 もう一つの新作レポートは、最近モニカが発表した高度追尾術式について彼なりの解釈で応用方法をまとめた物だった。

 そもそも高度追尾術式は、あまりにも術式が難解すぎて、実戦で使えるのは無詠唱のモニカぐらいだというのが、学会の教授達の意見である。

 だが、アイザックはその高度追尾術式の威力や精度を維持しつつ、より簡単に使うためにはどうしたら良いのか、独自の視点でまとめていた。

(この方法だと魔術式その物は長くなるけれど、確かに理解しやすいかもしれない……むしろ、より追尾速度を上げるなら、こっちの方が術式を組み込みやすい? これは実際に使って検証してみないと……)

 そうして夢中でレポートを読んでいたら、いつのまにか随分と時間が経っていたらしい。

 レポートを読み終えて顔を上げたモニカは、目を丸くした。

 あんなに書類だらけで散らかっていた部屋が、いつのまにか、すっかり綺麗に片付いているのだ。

「……へ? え?」

 書類は全て種類ごとにまとめられて、きれいに並んでいるし、出しっぱなしで山積みにしていた本も本棚に戻されている。

 モニカがキョロキョロと室内を見回すと、いつの間にやらネロが机の上に乗っかって、焼いた肉をムシャムシャと食べていた。ハーブを添えたチキンは、狐色に焼けた皮がパリッとしていて、見るからに美味しそうである。

「なんだこれ、うめぇな! おぅ、キラキラ。お前、料理なんてできたんだな」

「一度見た技術を、見様見真似で再現するのは得意なんだ。おかわりは?」

 ネロが無言で空の皿をテシテシ叩いたので、アイザックはそこに肉のおかわりを乗せる。その手つきは、給仕に慣れた人間のそれだった。

 その光景をモニカが呆然と見ていると、アイザックはニコリと微笑む。

「あぁ、モニカ。読み終わったかい?」

「あ、はい」

「君の見解を聞かせてほしいけれど、その前に食事にしないかい? ハーブ焼きにしたチキンとスープがあるんだ。それと、デザートに君の好きな木の実のケーキも」

 そういえば今日は朝からパンとチーズしか口にしていなかった。今更空腹を思い出したかのように、モニカの腹がクゥ……と頼りない音を立てる。

 アイザックはクスクスと笑いながら「すぐに持ってくるよ」と言って、キッチンへ引っ込んで行った。



 ジューシーで香ばしい肉と、舌触りの滑らかなスープ。それにカリカリの木の実をたっぷり混ぜ込んだケーキ。どれもモニカが作るより遥かに美味しかった。

 そもそも、モニカはあまり料理をしない。パンやチーズを切って、軽く火で炙るのが精々である。

 久しぶりに手の込んだ料理を堪能したモニカは、食後にレポートの内容についてアイザックと徹夜で討論をし、そして途中で力尽きて机に突っ伏して眠りに落ちた。

 そうして目を覚ましたら、モニカはベッドに運ばれていて、アイザックが当たり前のように朝食を用意していたのだ。

 夢中でそれを食べた後は、また討論の続きをし………………気がつけば、モニカはアイザックを追い返すことを、すっかり忘れていたのである。

 世間ではこれを押しかけ弟子と言う。



 * * *



 モニカが一階に降りると、ラナ、グレン、ニール、クローディアの四人が、テーブルを囲ってお茶をしていた。

 アイザックが作ったプラムケーキを複雑そうな顔で食べていたラナは、モニカに気づくとパッと顔を上げる。

「モニカ! ねぇ、ちょっと……一体、何がどうなってるのよ? なんで、あの人があなたの弟子になってるわけ?」

「こ、これには、深い事情が……」

 端的に言うと餌付けされたのである。全く深くない事情であった。

 無論、アイザックに魔術師としての素質があるというのも大きな理由ではある。

 魔力量は充分にあるし、魔術式への理解力も高い。なにより勉強熱心なのだ。

 今まで独学で学んできたアイザックは、魔術について相談したり討論したりする相手に恵まれていなかった。そんな彼はモニカという、魔術について語る相手を得たことで、それはもう水を得た魚のように活き活きとしている。

 どうして、そんな彼を無下に追い出すことができるだろう。あとご飯おいしいし。

 モニカが椅子に腰掛けると、ちょうどアイザックが階段を降りてくるところだった。アイザックはサッとテーブルに視線を走らせ、紅茶の減り具合を確認すると、モニカに笑いかける。

「寝起きにはコーヒー派だったね。少し待ってて、今淹れてくる。お客様も、もし良かったらご一緒に。最近、良い豆が手に入ったんだ」

「あ、あの、アイク、わたし、自分でやります、から……」

「大丈夫だよ、お友達とゆっくり話してて」

 モニカがオロオロと腰を浮かせれば、アイザックはモニカの肩を軽く押さえて椅子に戻るよう促した。そして、空になった食器を素早く回収し、キッチンへ引っ込む。その流れるような仕草たるや、一流の従者のそれであった。

 クローディアが紅茶を啜りながらボソリと呟く。

「……この国の第二王子が魔女の押しかけ弟子になって、挙句、給仕紛いのことをしているなんて知ったら……何人が卒倒するかしらね?」

「あぅっ……」

「……学生時代から何をやっても完璧とは言われていたけれど……紅茶の淹れ方、提供の仕方、食器の並べ方にプラムケーキの味まで完璧で、いっそ笑えてくるわ」

 ついでに掃除の手際も完璧なんです、とは言えず、モニカは無言でプラムケーキをかじる。プラムの甘酸っぱさが濃厚な生地と調和して、とても美味しい。

 グレンが口いっぱいに頬張っていたケーキを紅茶で流し込み、ぷはぁと息を吐いた。

「会長すごいなー。オレ、師匠のお客様にお茶を淹れたことなんてないっス!」

「あぅっ……だ、ダメな師匠でごめんなさい……っ」

「えっ!? あ、いや、モニカを責めた訳じゃなくて……」

 グレンがあわあわと言い訳をしていると、玄関の扉がノックされた。それと同時に、近くの窓からひんやりと涼しい空気が流れ込んでくる。

 夏の風とは違う、魔力を含んだ涼やかな風に、モニカはパッと立ち上がり、小走りで玄関に向かった。

 そしてちょっとだけ前髪をいじって、小さく深呼吸をしてから扉を開ける。


「い、いらっしゃいませ、シリル様」


 扉を開ければ、そこに佇んでいるのは、モニカの予想通りシリル・アシュリーであった。

 シリルは、青い目を少しだけ瞬かせてモニカを見る。

「よく私だと分かったな?」

「えっと、近い内にいらっしゃると聞いていたので……」

 モニカはシリルが来る予定のある時だけ、玄関近くの窓を開けている。そこから、ひんやりとした空気を感じたら、彼が訪れたとすぐに分かるからだ。

 シリルを室内に案内すれば、賑やかな先客達にシリルは目を丸くした。

「なんだ、クローディア達も来ていたのか」

「……新婚旅行で立ち寄ったのよ。そういうお兄様こそ……」

 クローディアは意味深にたっぷりと間をもたせてから、それはそれは美しく微笑み一言。

「…………暇なのね」

 シリルはこめかみに青筋を浮かべつつ、鞄から書類の束を取り出して机に乗せた。

「仕事で来たに決まっているだろう。今、我がハイオーン侯爵家は〈茨の魔女〉〈沈黙の魔女〉との共同研究で、植物の改良を行っている。今日はその肥料の件について、確認をしにきたんだ」

「あ、はいっ、資料できてますっ」

 必要な資料は全て、アイザックが付箋をつけて一目で分かるようにしてくれている。モニカは資料の中身を確認して、シリルに手渡した。

「えっと、肥料の配合を計算したものと、サンプルです。同じ物を〈茨の魔女〉様にも渡してありますので……それと、そのぅ……」

「……? どうした?」

 口ごもるモニカにシリルが訝しげな顔をする。

 モニカはシリルを刺激しないよう、懸命に言葉を選んだ。

「……〈茨の魔女〉様が、ですね……帝国の魔法技術大学に興味をお持ちになって……」

「あぁ、帝国は付加魔術の研究が我が国より進んでいるからな」

「それで、そのぅ…………


 『ちょっと正体隠して、留学してくるぜ!』


 …………だそうです」

 シリルが目を剥き、絶句した。

 モニカがどんなに言葉を選んだところで、現実は変わらない。

 以前、〈茨の魔女〉こと、ラウル・ローズバーグにセレンディア学園に潜入した時のことを話したら、彼は『正体を隠して学生生活! なんだそれ楽しそうだな! オレも学生生活やりたい!』と目を輝かせていた。

 その時は冗談だろうと思っていたのだが、その数週間後、ラウルはしっかり留学の手続きを終えていたのである。

 これで俺も来年から学生だぜ! と七賢人会議でのたまったラウルに、新しい七賢人探しに奔走していたルイス・ミラーが殴りかかったのは言うまでもない(暴走したルイスをブラッドフォードが羽交い締めにして、ことなきを得た)

 絶句しているシリルに、モニカは慌ててフォローをする。

「あっ、あっ、でも、合同研究は留学先でも続けてくださるそうです。成果も定期的に送ってくれるって……!」

「この国の行く末が不安だ……」

 シリルの呟きに、モニカは「あうっ」と言葉を詰まらせた。

 何せ七賢人の席は一つが空席。そして一人は他国へお忍び留学である。

『いっそもう、五賢人に改名されては? 植物オタクのアンポンタン……〈茨の魔女〉殿の席など燃やしてしまいましょう』

 と朗らかに言うルイスの目は、笑っていなかった。もしかしたら本当に、数年以内に七賢人は席数が減っているかもしれない。

 シリルはげんなりした顔をしていたが、モニカを責めても仕方ないと分かっているのだろう。短くため息を吐き、眉間の皺を指で揉みながら口を開いた。

「とりあえず〈茨の魔女〉殿には、こちらからも話を聞いておこう……それと、これは別件なのだが」

 そう言ってシリルは言葉を切り、視線をチラリとキッチンの方に向ける。

「……来ているな?」

「…………はい」

 真顔で問うシリルに、モニカは苦笑混じりに頷く。

 そのやりとりを、クローディアは無表情に、グレンはよく分かっていない顔で、ラナとニールは固唾を飲んで見守っていた。

 やがてキッチンの方からコーヒーカップを乗せた盆を手に、アイザックが戻ってくる。

 アイザックはシリルを目にすると、おっとりと首を傾げながら言った。

「おや、もう一杯必要かな」

「……何故、貴方がここにいるのです」

 シリルの地を這うような低い声に、アイザックは笑顔で答える。

「僕は〈沈黙の魔女〉の弟子だからね。師の客人をもてなすのは当然のことだろう?」

 何も問題ないと言わんばかりのアイザックに、シリルは沈痛な面持ちで言葉を返した。

「……ここに来る前にエリン公爵邸を訪ねたら、貴方の契約精霊に助けを求められました」

「ウィルディアヌは心配性だなぁ……本邸を留守にして、王都の屋敷で暮らす地方貴族なんて珍しくないだろう?」

 確かにアイザックの言う通り、王都での暮らしを好み、本邸にはあまり帰らない貴族というのも確かにいる……が、少なくともここは王都ではないし、やっていることは押しかけ弟子である。

「王都に行っているのかと思いきや、モニカのところに身を寄せていると聞いて驚きました。確かにサザンドールは交通の便が良いところですが……」

 シリルの言葉にアイザックの頬がピクリと引きつった。

「うんちょっと待って。君はいつからモニカのことを呼び捨てにするようになったんだい?」

「……? ノートン会計は不適切ですし、エヴァレット魔法伯と呼ばれるのは嫌だということなので、元セレンディア学園の後輩らしい呼び方を検討した結果、本人が名前で呼んでほしいと」

「……ふぅん?」

 気のせいだろうか。いつもひんやりとした空気を撒き散らしているのはシリルの筈なのに、今はアイザックの方から冷気を感じる。

(シリル様が困ってるし、ここは、わたしが師匠として、ガツンと厳しく言わないと……っ!)

 モニカは眉をキュッと持ち上げて、精一杯厳しい顔を作ると、アイザックの服の裾を引いた。

「アイク、あのですね……」

「どうしたんだい? 僕のお師匠様はどんな顔をしていても可愛いね。やっぱり子リスみたいだ」

 師匠なのに動物扱いである。しかも、精一杯怖い顔をしたのに。

 軽く打ちひしがれつつ、それでもモニカは必死で進言した。

「お仕事は……ちゃんとしないと、ダメですよ? メッ、です」

 モニカの精一杯の怖い顔を、アイザックはじっと見つめていた。

 どうしてそんなにじっと見ているのだろう? もしかして寝癖が? ……と、モニカはそわそわしながら、自分の頭を指先でさわる。

 そんなモニカに、アイザックはニッコリ微笑んだ。

「大丈夫だよ。仕事は全部終わらせてきたから」

 すると、その言葉を待っていたとばかりに、シリルが鞄から分厚い書類の束をスッと取り出した。

 その分厚さたるや、先ほどモニカが渡した資料の三倍は厚みがある。

「追加の仕事です。それと、近い内にアルバート殿下が隣国の大使と狩猟をするので、そこに貴方も参加するようにと、ブリジット・グレイアム外交官からの要請が」

「……みんな、追放されて隠居している第二王子に、色々と期待しすぎじゃないかな?」

「それだけ貴方を信頼しているのです。勿論、私も」

 真剣な顔で言うシリルに、アイザックは額に手を当てて溜息を吐く。

「君も僕の正体を知っている癖に……いまだに『殿下』って呼ぶし、真面目だなぁ」

「貴方の正体が何であれ、貴方が私の尊敬する人であるという事実に変わりはありませんから」

 そう答えるシリルは、胸を張って誇らしげな顔だった。

 一方、テーブルに座って紅茶を飲みながら、三人のやりとりを無言で見ていたクローディアは、表情一つ変えぬまま瑠璃色の目を動かす。

 のらりくらりとかわそうとするアイザックに、相変わらず生真面目なシリル。そして困った弟子に振り回されているモニカ。

 モニカはシリルを尊敬し、シリルはアイザックを尊敬し、アイザックはモニカを尊敬している……まさに尊敬トライアングル。

「……斬新な三角関係ね」

 クローディアの呟きに、ラナが紅茶を飲みながら小声で返す。

「ねぇ、これって……修羅場……なの?」

「……三人中二人が無自覚。一人だけ自覚しているのがいるから、タチが悪いったらありゃしないわ……」

 無論二人のやりとりは、アイザックを説得するのに必死なモニカには聞こえていない。

「アイク、シリル様やウィルディアヌさんを困らせるの、良くない、ですっ」

「僕のお師匠さまは、僕の味方をしてくれないの?」

「お仕事は、大事ですよっ」

「じゃあ月に一回は屋敷に戻るよ。それでいい?」

「はいっ」

 ホッと胸を撫で下ろすモニカは気づいていなかった。

 月に一回屋敷に戻るなら、それ以外の時はここに居座っていていいよね? ……という、アイザックの言葉の真意に。

 押しかけ弟子が居座る大義名分を与えてしまったことに気づかぬまま、モニカは安堵の息を吐いて、椅子に腰掛ける。

 隣に座るラナが、苦笑まじりにモニカを見た。

「……モニカも大変ねぇ」

「大変、かな?」

 確かにここ最近は、モニカにとって不慣れなことの連続だった。

 思えば、第二王子護衛任務を受けて山小屋を出た時から、モニカはずっと目まぐるしい日々を過ごしてきた。

 過去のモニカは他人の目に怯えて、俯いて口を閉ざして、誰にも何も期待せずに数字や魔術式とだけ向き合って……ずっとそうやって生きていくのだと思っていた。それ以外に望むものなんて何もないのだと思っていた。

 だから、セレンディア学園に潜入して、心を許せる友人ができてからも、その思い出を胸に、ひっそりと姿を消すつもりでいたのだ。

(……あの時は、ちゃんと全てを諦められるつもりでいたのに)

 今のモニカは全てを諦めることなんてできない。

 手放したくないものがある。繋がっていたい人達がいる。

 あの頃より欲張りになった自分に、モニカは小さく苦笑した。

「大変かも、だけど…………わたし、山小屋を出て良かったって、思うの」

 最初に山小屋を出たのは、ルイスに半ば引きずり出されたようなものだった。

 けれど全てが終わった後、山小屋に帰ってきたモニカは、自分の意思で再び外に出ることを選んだのだ。

「今は、一緒にコーヒーを飲んでくれる人がいて……嬉しい、の」

「つまり、モニカはコーヒーが好きなんスね!」

 グレンの見当違いなコメントにラナがガクリと肩を落としたが、モニカは頬を緩めて笑う。

「うん、はい……みんなと飲むコーヒー、おいしい、です」

「分かるっス! みんなと食べる肉って格別っスもんねぇ〜。今度、良い肉持ってくるから、みんなで肉パーティがしたいっス!」

 グレンの言葉に、ニールがニコニコしながら「良いですねぇ」と相槌を打った。

「その時は、僕達もお邪魔させてください。ねっ、クローディアさん」

「……港町なのに、魚じゃなくて肉なのね」

「じゃあ、肉も魚も焼けば、問題無しっス!」

 元気良くグレンが言えば、アイザックがコーヒーカップを傾けながら微笑む。

「良いね。その時は、腕をふるわせてもらうよ」

 器用なアイザックなら、きっと肉でも魚でも美味しく調理してくれることだろう。

 だが、この言葉に目を剥いた者がいた。シリルである。

「お待ちください、まさか、殿下が、料理、を……?」

 フォークを握りしめたまま硬直するシリルに、クローディアがニタリと邪悪に笑った。

 そうして、シリルの前に置かれた皿を細い指で示す。

「……今お兄様が食べたプラムケーキを作ったのも…………その人よ」

 途端にシリルは椅子を鳴らして腰を浮かせ、ギラリと底光りする目でモニカを睨んだ。

「モニカ・エヴァレット! 貴様、まさかと思うが、殿下を使用人のように扱って……」

「ごごごご誤解です……っ、あぁっ、でも、掃除もしてもらってるから誤解じゃない……っ」

「掃除までさせてるのかっ!?」

 シリルの眉の角度がギュンギュンと吊り上がっていく。あぁ、なんて懐かしい怒り顔!

 モニカがあわあわ震えていると、アイザックがおっとりと口を挟んだ。

「ボクはモニカの弟子なんだから、師匠の身の回りの世話をするのは当然だろう?」

「身の回りの世話までっ!?」

「モニカの髪、上手に編めてるだろう? コレット嬢には負けるけど」

 アイザックの言葉に、今度はラナが真顔でモニカを見た。

「……モニカ、それはちょっと女としてどうかと思うわ」

「わああああ、ごめんなさいごめんなさい、いつもはちゃんと自分でやるんですけど、ちょっと昨日まで研究が大詰めで……っ!」



 * * *



(おぅおぅ、今日は賑やかだなぁ)

 階段の上からこっそりモニカ達の様子を眺めていたネロは、尻尾をゆらり、ゆらりと揺らした。

(それにしても、肉パーティとは聞き捨てならねぇなぁ。オレ様の肉も、たっぷり用意してもらわねーと)

 そんなことを考えつつ、ネロは階段を駆け上り、扉が開きっぱなしになっている書斎に駆け込む。客人が帰るまで、大人しく読書をして過ごそうと思ったのだ。

 ネロは最近外国から送られてきたダスティン・ギュンターの新作小説を本棚から引っ張り出す。

 機嫌良く喉を鳴らしながら前足で表紙をめくれば、そこにはメッセージカードが挟まっていた。


 ──静かなる魔女に捧ぐ。


 ネロは金色の目を細めてケケッと笑う。

「最近のあいつは、ちっとも静かじゃねぇけどな」


 港町の、穏やかな夏の昼下がり。

 階下の賑やかな声を聞きながら、ネロはパラリとページをめくった。



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