【16ー12】優しい王子様が願ったこと
──復讐
それはいつだって、モニカにとって恐ろしく甘美な言葉だった。
父が死んだ時、怒りと憎悪に身を任せ、復讐に生きる選択肢だってあった筈だ。
だが、モニカはただ泣いて、嘆いて……そして数字の世界に逃げた。
父を死なせた人間に対する怒りや憎悪が全く無かったとは言わない。だが、その強い激情に身を委ねることが恐ろしかった。
「君にだったら、殺されてもいい。このまま首を絞めるなり、あるいは君の魔術で焼き尽くすなり」
「……できません」
モニカが震える声で答えても、アイザックはモニカの手を己の首にあてがったまま、離してくれない。
アイザックの手は、ぞっとするほど冷たかった。
「君なら、僕とクロックフォード公爵の行いを全て白日の下に曝け出し、父親の無実を訴えることもできたはずだ」
モニカが十年前の入れ替わりの真実を語れば、その真実を隠すために処刑された父の無実を訴えることもできただろう。だが、モニカはそれをしなかった。
七年前に処刑されたヴェネディクト・レイン処刑の真実を追及すれば、入れ替わりの真実が露呈する。
そうなれば、アイザックの処刑は免れない。
「……そう、です。全てを公表すれば、お父さんの無念を晴らすことは、できたかもしれない」
今回のアイザック救出作戦を考えた時、最もモニカが葛藤したのがそれだった。
全てを曖昧にして、真相を闇の中に隠してしまえば、アイザックを助けられる。
だが、モニカの父の無罪を追及することもできなくなる。
「……真実を話せば、お父さんは悪くないって……お父さんは、すごかったんだって、大きな声でみんなに言える……」
最高審議会の場で、そう叫ぶことができたらと、どれだけ思っただろう。
「それでも……それでも、わたしは……」
ポタリ、ポタリとアイザックの頬に雫が落ちる。
アイザックの手が緩んだ。碧い目は戸惑うようにモニカを見上げている。
モニカは顔をくしゃくしゃにして、震える声で呟いた。
「……わたしは、今を生きてるあなたを、助けたかったんです」
父の名誉とアイザックの命を天秤にかけて、モニカはアイザックの命を選んだ。
何回も何回も何回も、頭の中で父に謝り続けながら。
モニカはアイザックの上からのそのそと下りると、ローブの袖で目元を拭った。そして、ソファの横に置いていた鞄から革表紙の日記を取り出す。
その表紙を見た瞬間、アイザックはそれが何かを察したのだろう。ハッと目を見開き、日記を凝視する。
「……それは……アークの……」
そう、北の修道院でモニカが手に入れた、本物のフェリクス・アーク・リディルの日記帳。
これを読んだ時から、モニカは覚悟を決めていた。
──絶対にアイクを助けて、この日記帳を見せるのだと。
「これを、読んでください」
モニカが日記を差し出せば、アイザックは強張った顔で受け取り、その表紙を指先でそっと撫でた。
ほぅっと息を吐いた横顔は、昔日を懐かしんでいるように見える。
アイザックは日記の表紙をめくった。そうして時間をかけて一ページ一ページに目を通していく。それをモニカは黙って見守る。
しばし、パラリ、パラリとページをめくる音だけが無言の部屋に響いた。
やがて日記も後半にさしかかったところで【理想の王子様像】の絵が現れる。
王子様の絵の横に添えられた、理想の王子様の条件。その一つの「みんなに優しい」という文字の花丸を、アイザックは指でなぞった。
「あぁ、そうだ。僕がこれに丸をつけたんだ」
どこか独り言じみた声で呟き、アイザックは瞑目する。
「大事な親友を自殺に追い込んで、その遺体を焼き払って、成り代わって……それなのに、ろくに名声も残せないまま、おめおめと生き延びた」
アイザックの指がページをめくる。次のページに記されているのは、真実を知ったフェリクスの絶望。
そして、アイザックを自由にするための幼い企み。
「……僕は、優しい王子様には、なれなかったよ。アーク」
かすれた声は、まるで懺悔のようだった。
優しい王子にもなれず、充分な名声も残せず生き延びた彼は、これから先もフェリクス・アーク・リディルとして生きていく。
もう王位は望めない、中途半端な立場のままで。
「最後まで、読んでください」
ずっと黙って見守っていたモニカは、無言でアイザックの服の裾を握りしめて告げる。
「そこに、フェリクス殿下の本当の願い事が、書いてあります」
「……? 本当の、願い?」
アイザックの考えるフェリクスの願いとは「人々の記憶に残りたい」だ。
そのことを彼は建国王のエピソードになぞらえて「星座のように名を残したい、輝かせたい星がある」と口にした。
だが、フェリクスがアイザックを屋敷から逃す直前、最後に残した願いは、もっと別のものだったのだ。
ページをめくったアイザックが、日記の文字に目を落とし、凍りつく。
『私は、きっと王様にはなれないだろうけれど、それでもアイクに胸を張れる、優しい王子様になろう。
歴史に残る立派なお星様にはなれなくても、きっとアイクは私のことを忘れたりせず、覚えていてくれるから。
そして大人になったら、アイクに会いに行くんだ。アイクの親友のアークとして。
大人になったアイクに色んな話を聞きたい。彼はどんな生き方を選んだのか。どんな素敵なことを見つけたのか。どんな素敵な人と出会ったのか。
そういう話を、アイクとお酒を飲みながらするんだ。
私がおじさんになってからでもいい、おじいさんになってからでもいい。
いつか、絶対、必ず、アイクに会いに行く。
それが、今の私の夢だ』
フェリクスはアイザックを屋敷の外に逃し、そしていつか会える日を願っていた。
名声を残し、立派なお星様になれなくても、親友のアイクは自分を忘れずにいてくれると信じて。
「……フェリクス殿下の死は、自殺じゃなくて……きっと、事故だったんです」
* * *
アイザックの脳裏に、あの晩の出来事が蘇る。
十年経ってもなお、生々しく鮮明に蘇る記憶。
二人で屋敷を抜け出して星を見に行った。ざぁっと強い風が吹いて、二人の髪を揺らした。
枝がしなって、葉がサワサワと音を立てて、繋いだフェリクスの手はすっかり冷たくなっていた。
『風が強くなってきたね。これ以上は体に障るから戻ろう、アーク』
『……うん』
──そうだ。あの晩は風が強かった。
屋敷の最上階のバルコニーに梯子がかけられていた。
屋根の上にチラチラと見えるのは、フェリクスの金色の髪。
びゅぅと強い風が吹いて、雲に隠れていた丸い月が見えた。
ぼんやりと輝く月の周りには煌く星々。
やっと見えたとばかりに、フェリクスは輝く星に手を伸ばし……そう、片手を離したのだ。
そして、落ちた。
* * *
「……あれは、事故、だった?」
アイザックを逃すために騒ぎを起こしたのは事実だが、フェリクスに自殺の意図は無かった。
祖父に見捨てられたフェリクスは、決して絶望の中で死を選んだわけじゃない。
アイザックと再会する未来を、確かに夢見ていたのだ。
「フェリクス殿下は、あなたに、自由に生きてほしかったんです。好きなことを見つけて、好きな人を見つけて……そうしていつか、そんなあなたに会いたい、と……」
項垂れるアイザックの目元は、少し伸びた前髪で隠れて見えない。
それでも、ポタリと落ちた雫が日記の紙面に滲むのをモニカは見た。
「……アーク」
かすれた声が、亡き親友の名を口にする。
アイザックは自分の存在がフェリクスを追い込んだのだと自分を責めた。そうして、顔も名前も捨ててフェリクスになろうとした。それが、幼いフェリクスの願いを叶えることになると信じて。
……本当のフェリクスの願いは、アイザックの幸福だったというのに。
アイザックはこれから先も、この国の第二王子として生きていかなくてはならない。一度顔と名前を捨ててしまった彼は、もうアイザック・ウォーカーとして生きることはできない。
……それでも、とモニカは思うのだ。
「フェリクス殿下の願いを叶えるために、今からでもできることは、あると思うんです」
たとえ行動が制限されるとしても、それでもアイザックはまだ生きているのだ。
生きていれば、できることは沢山ある。
「いっぱい、いっぱい楽しいことや、好きなものを見つけるんです。他の誰でもない、あなたのために……それが……フェリクス殿下の望んだことだから」
モニカが拙くも必死に言葉を紡げば、アイザックはゆっくりと顔を上げる。
その碧い目は困惑に揺れていたけれど、それでも……瞳の奥に妄執の火は、もう無い。
モニカはそんなアイザックに、眉を下げて微笑む。
「……だから、生きて、ください。自分が死んだ方が良いなんて、絶対に思っちゃ駄目です。あなたが死んだら……フェリクス殿下の願い事は叶いません」
アイザックはしばし無言でモニカを見つめていた。
モニカは緊張しつつも、目を逸らさずにアイザックを見つめ返す。
「君は……」
アイザックの唇が微かに震えた。
「どうして、そこまで……」
どうしてそこまでしてくれるのか、どうしてそこまでできるのか──父親の仇である男に。
困惑しているアイザックに、モニカは背すじを伸ばすと、コホンと咳払いをした。
「わたし、ですね……前に人から言われて嬉しくて、一回言ってみたいなって思ってた言葉があるんです」
「…………?」
戸惑うアイザックに、モニカは胸を張って告げる。
それは、かつて助けられてばかりで申し訳なさそうにするモニカにラナが言ってくれた言葉。
「友達を助けるのに、理由なんていらないんですよ、アイク!」
* * *
ずっと胸の奥にあったわだかまりが、するりと溶けて消えていくかのようだった。
ヒュゥッと息を吸い込めば、肺に真新しい空気が満ちる。久しぶりに、胸いっぱいに空気を吸ったような心地だ。
そうだ、自分はいつだって息苦しかったのだ……罪悪感で。
アイザックを縛り付けていたものを魔法のように取り払ってしまった少女は、胸を張っていたかと思いきや、すぐに背中を丸めてもじもじと指をこね始める。
「あ、えっと、その、わたしなんかが友達というのはおこがましいかもですが……その、よ、夜遊び仲間、ですし……その……」
(……あぁ、まいったな)
アイザックは苦笑まじりに息を吐き、乱れた髪をかきあげた。
そんなアイザックに、モニカがオロオロと眉を下げる。
「アイク? アイク? ど、どうしたんですか?」
不安そうにこちらを見上げるモニカに、アイザックは目を細めた。
ずっと空っぽだった彼の胸を埋めていくのは、温かな感情。
(……こんなの、好きになるに決まってる)
愛しいという衝動のままに、アイザックはモニカを抱き寄せる。顎のすぐ下で「ぶみゃっ」という奇声が聞こえた。
アイザックはクツクツと喉を鳴らして笑い、モニカの耳元で囁く。
「ありがとう、モニカ」
そうしてモニカの白い頬に唇でそっと触れる。
腕の中に抱き込んだ華奢な体がガチガチに強張った。モニカは頬を押さえ、真っ赤になってカタカタ震えている。
「…………に、にに、に、に……」
「に?」
「肉球じゃないぃぃぃぃぃ」
アイザックは久しぶりに声を上げて大笑いをする。
扉の向こう側では、軟膏の小瓶を手にしたネロが「オレ様は空気の読める猫」と呟きながら、欠伸をしていた。