【16-7】紅い聖杯
「わたくしの作ったこの魔導具『黒い聖杯』で、こちらにおわす方が、真に王族の血を引く者であるということを証明いたします」
〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットは、国の重鎮達を前に、堂々たる態度で黒い聖杯を掲げ……。
(……つ、次のセリフはなんだっけぇぇぇぇぇ……うっ、胃が……胃がキリキリするぅぅぅぅぅ)
ひたすら胃痛と戦っていた。
ついでに言うと、髪の毛を高い位置できつめに結っているので頭が痛いし、コルセットの締め付け具合は過去最高だし、なにより恐ろしく高いヒールの靴は今にも爪先が潰れそうだ。
魔法戦をするわけでもないのに、モニカがこの場に杖を持ち込んだ理由はただ一つ。
威厳を見せるためではない。杖がないと、ヒール靴ではまともに歩けないからである。
モニカは杖に体重を預けながら、こっそりフゥフゥと息を吐く。
胃は雑巾絞りにされたみたいに痛いし、心臓なんてバクバクドキドキ跳ねすぎて、うっかり口から飛び出してくるんじゃないだろうか。
モニカがゆっくり呼吸を整えつつ顔を上げると、アイザックと目が合った。
アイザックは戸惑ったような顔でモニカを凝視している。
(〈沈黙の魔女〉の正体を知って、ガッカリしたかな……ガッカリしたよね……)
彼がどれだけ〈沈黙の魔女〉を尊敬していたか、直に見ているからこそ罪悪感で胸が痛い。ついでに胃も。
(それでも……)
モニカは指先でネックレスを軽く揺らした。
照明の光を反射してキラキラと輝くペリドットに、アイザックがハッと息を飲む。
かつて彼は言った。これを身につけていれば、モニカを見つけてくれると。
(ちゃんと、見ててくださいね……わたしが、戦うところを)
モニカは早鐘を打つ心臓を服の上から軽く押さえ、イザベルが作ってくれた台本を思い返す。
ここまでのモニカの台詞は、皆で意見を出し合い、最終的にイザベル・ノートン嬢とその侍女のアガサが監修したものであった。
『最高審議会を乗り切るにあたって、重要なのはイメージを固めることですわ! これからモニカお姉様が演じるのは、知的でクールでどんな時も動揺を顔に出さない、自信に満ちた魔女! 勿論普段のお優しいお姉様も素敵ですけれど、このギャップが良いのです。あぁん、クールに振る舞うお姉様……なんて素敵なのでしょう!』
具体的なイメージができずモニカが戸惑えば、イザベルはこっそり耳打ちしてくれた。
──もし台詞に困ったら、ブリジット様をイメージすればよろしいのですわ。
なるほどブリジットはプライドが高く、常に自信に満ちて堂々としている。
たとえ野次を飛ばされても、彼女なら「お黙り」の一言で切り捨てるだろう。
(……大丈夫、できる)
今のモニカには、シリルから貰ったおまじないがあるのだから。
モニカはゆっくりと息を吸い、言葉を紡ぐ。
「この魔導具は血液に含まれる魔力を解析するもの。その解析結果を照らし合わせることで……親族の鑑定が可能なのです」
そう言ってモニカは、黒い聖杯をクロックフォード公爵によく見えるように傾ける。
クロックフォード公爵は露骨に顔を歪めたりはしない。だが、纏う空気がより一層鋭くなるのを感じた。
彼が「黒い聖杯」を知らないはずがない。七年前、この魔導具を作ろうとした男を処刑したのは、他でもない彼なのだから。
「どなたか、この場に親族でいらっしゃってる方は? ……あぁ、バーレル伯爵、確か書記官が息子さんでいらっしゃいますね?」
モニカに名指しで指名された中年の伯爵が、ギョッとしたような顔をする。
そんなバーレル伯爵に、モニカは薄い笑みを向けた。本当はブリジットみたいに美しく微笑んでみたかったのだが、顔のこわばっているモニカにはこれが精一杯である。
それでもモニカの不器用な薄ら笑いは、充分威圧的に映ったらしい。
「わ、私に、何をさせようと言うのだね、〈沈黙の魔女〉よ……」
「貴方様の血を一雫、分けてください。勿論、呪ったりなんていたしませんよ」
バーレル伯爵は忙しなく視線を彷徨わせながら、顔に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
そんなバーレル伯爵に国王が告げた。
「バーレル伯爵。〈沈黙の魔女〉の余興に協力せよ」
「は、ははっ! 仰せのままに!」
国王に促されたバーレル伯爵は、ぎこちない足取りで前に進み出る。
モニカは懐から針を取り出すと、無詠唱で小さな火を起こす。
燭台の火と変わらぬ大きさの小さな火だ。それでも無詠唱というだけで、周囲に驚きを与えるには充分らしい。人々の目は詠唱無しで起こった火に釘付けになっている。
モニカは起こした火で針を炙り、針を伯爵に手渡した。
「指先で構いません。血を一雫ください」
そう言ってモニカは黒い聖杯の底をくるりと捻る。
杯の底の部分は薄いシャーレのようになっていて、そこに薬液が満たされていた。
バーレル伯爵の指先から滴る血をその薬液の中に落とし、モニカは再び杯の底を元に戻す。
軽く杯を揺すって薬液を浸透させ、モニカは新しい針を取り出した。
「まず、比較のためにわたくしの血で実験をしてみましょう」
そう言ってモニカは火で炙った針で己の指先を突き、血を絞る。
そうして一雫の血を杯の中に落とし、何も起こらないことを人々に確認させた。
「このように、血の繋がりのない人間の血を注いでも、黒い聖杯は何も起こりません」
モニカは聖杯の中に落とした己の血を拭うと、バーレル伯爵の息子を呼んで、針を手渡す。
「次にバーレル伯爵の息子さんの血を、この杯の上部に注ぎます。勿論、一滴で結構です」
バーレル伯爵の息子である若い書記官は、神妙な顔で指先から滴る血を黒い聖杯の中に落とした。
最初は、何も起こらない。
だが、次第に血に触れた部分がじわりじわりと、血と同じ色に染まりだす。
モニカは口を開きかけて、一度閉じた。
……台詞をど忘れしたのである。
(えぇっと、ここで何て言うんだっけ……「刮目せよ!」は大袈裟だから没になったんだよね……えっと「みんな、ちゅーもーく!」はグレンさんの案で没になって……その後、イザベル様が考えてくれた台詞は……)
モニカはイザベルが考えてくれた台詞を頭の中で一度読み上げてから、口にする。
「さぁ、ご覧あれ……黒い聖杯が血の色に染まる瞬間を!」
歌うように高らかに告げて、モニカは黒い聖杯の中身が見えるように傾けながら掲げた。
漆を塗ったかのように漆黒だった黒い聖杯。その内側がみるみる内に紅く染まっていく。遂には杯の内側のみならず、外側にまで及び、漆黒だった杯そのものが、ピジョンブラッドのルビーの如く輝いた。
会場にいる者達が、おぉっと驚きの声を漏らす。
(……お父さん、お父さんの作った魔導具に、みんなが驚いてるよ)
称賛の声は、本来なら父が受けるべきものだ。そのことを少し切なく思いつつ、モニカは聖杯を手元に戻す。
「このように血液を底にセットした状態で、血縁者の血を杯の上部に注ぐと……このように杯全体が血の色に染まります」
本来なら医療用魔導具の検査結果は「血縁者の確率は○%」といった具合に数値で表されるべきだ。
だが、あえてモニカは小説の中の「黒い聖杯」と同じように、杯を染めるやり方を選んだ。
その方が圧倒的にインパクトがあるし、何よりも「黒い聖杯」という形の魔導具を、クロックフォード公爵に見せつけたかったのだ。
貴方がヴェネディクト・レインを殺したことを、わたしは知っていますよ……と、暗に伝えるために。
モニカは道具箱を持って待機しているネロの元に行き、中の薬液を捨てて、予め用意した洗浄水で聖杯を洗う。
黒い聖杯は魔力を解析するための道具なので、魔力を含む水で洗浄すると検査結果に狂いが生じる。なので、魔力を一切含まない水で洗浄する必要があった。
洗い清めた聖杯は再び漆黒へと戻っていく。それを確認して、モニカは国王に向き直った。
「恐れ多くも申し上げます。フェリクス殿下にかけられた嫌疑を払うために……陛下の血を一雫いただきたいのです」
「……よかろう。その杯をこちらへ」
モニカは前に進み出て、バーレル伯爵の時と同じ手順で国王の指先から血を一滴絞り、黒い聖杯の底にセットする。
そうしてモニカは踵を返すとアイザックの前に立ち、膝をついて黒い聖杯を差し出した。
「殿下、貴方の名誉を守るため、その指先に針を刺すことをお許しください」
* * *
(彼女は、何をするつもりなんだ……?)
アイザックはいまだに混乱から抜け出せずにいた。
モニカは知っているはずだ。アイザックが、国王と血の繋がった息子ではないことを。
(……あぁ、そうか。これはきっと、彼女なりの断罪か)
父を死なせた男の罪を、父の形見の魔導具で暴く……これは、そういう復讐だ。
「好きなだけ、どうぞ」
アイザックが手を差し出せば、モニカは「失礼します」と告げて、アイザックの指先を針で突く。
指先にぷくりと血の雫が浮かんだ。モニカはアイザックの手を取り、指先を下に向けるようにくるりと返す。
ポタリと一滴の血が黒い杯の中に落ちた。
このまま色の変わることのない漆黒の聖杯を突きつけ、彼女はアイザックを断罪するのだろう。
父の仇め、と。
だが、虚ろに笑いながら杯を見つめるアイザックの顔は、ピタリと凍りつく。
モニカは黒い聖杯を高々と掲げた。その内側はみるみる内に紅く染まり、やがて杯全体に広がっていく。
濃厚で、鮮やかな血の色に。
モニカは今まで以上に響く声で、高らかに宣言した。
「この紅く染まった聖杯こそ、こちらにおわす方がフェリクス・アーク・リディル殿下であるという証拠なのです!」