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サイレント・ウィッチ  作者: 依空 まつり
第15章「沈黙の魔女」
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【15ー10】整理整頓の概念は人それぞれ

 ヒルダ・エヴァレットは絶望していた。


 魔術研究所の研究員である彼女は、職場だけでなく家にも大量の資料や実験器具を溜め込んでいる。

 掃除の類は全てハウスメイドに任せっきりの彼女だが、さすがに研究資料や実験器具は触らせるわけにもいかないので、自分で整理していた──否、正確に言うなら、整理したつもりでいた。

 使った資料を棚の空いたところに適当にポイポイとしまい、床や机に出しっぱなしにしていない状態なら、それはもうヒルダにとって整理整頓なのである。

 古い研究データを適当な棚に押し込めば、たとえそれがギュウギュウ詰めになっていても整理整頓なのである。

 その結果、棚を開けた拍子に古い研究資料が雪崩を起こして崩れ落ち、大惨事になることも珍しくはなかった。今がまさにそれだ。

 棚を開けた途端、限界までパンパンに詰め込まれた資料の山は一気に崩れ、ヒルダに直撃。そして床に豪快に散らばっていく。

 資料に埋もれたヒルダはずれた眼鏡を直し、難題に直面した学者の顔で呟いた。


「おかしいわ。常日頃から整理整頓しているのに」


 メイドが聞いたら呆れそうなことを呟きながら、とりあえず散らばる資料をかきわけて足場を作る。

 だが、かき分けたところにまた新しい資料が流れ落ちてくるものだから、いつまで経っても片付けは終わらない。

 まさしく足の踏み場もない状況に困り果てていると、階下からメイドが階段を上ってくる音が聞こえた。

 これはまずい。またお小言を言われてしまう。

「ヒルダ様、よろしいですか?」

「ちょっと待って頂戴、これは落下運動における空気抵抗の実験をしていただけで、決して棚の中身が落ちてきたわけではないのよ」

 早口で言い訳をするヒルダを見る中年メイドの顔は呆れに満ちていた。それなりに付き合いの長いメイドは、この手の状況に慣れっこなので、今更驚きもしない。

 はぁっと溜息を吐き、メイドは腰に手を当てて言った。

「何を仰っているのか分かりかねますがね、モニカお嬢さんがお見えですよ」

「…………え?」

 養女の帰省に慌てて立ち上がったヒルダは、案の定資料を踏みつけて、豪快に尻餅をついた。



 * * *



「お帰りなさい、モニカ」

 応接間でお茶を飲んで待っていたモニカを出迎えたヒルダは、微妙に足を引きずり、腰を手でさすっていた。

 ほんの少し前に上の階でドスーン! と豪快な音がしたから、きっとまた何かを散らかして転んだのだろう、と養母をよく知るモニカは推測する。

「あの、腰……大丈夫、ですか?」

「大丈夫よ、ちょっと落下運動における空気抵抗の実験をしていただけだから」

 つまり何かを床に落として、ぶちまけたのだろう。

 その辺りについてはもう慣れっこなので、特に突っ込むこともせず、モニカはお茶のカップをソーサーに戻してヒルダと向き直った。

「あの、ヒルダさんに、お願いしたいことが、あって……」

「なにかしら?」

 ニコニコと首を傾けるヒルダに、ほんの少しの申し訳なさを覚えつつ、モニカは単刀直入に言う。


「お父さんの研究資料を、ください」


 ヒルダの顔から笑顔が消えた。

「……ダメよ」

 答えるまでのほんの僅かな間は、誤魔化すべきか正直に言うべきかを悩んでのものだったのだろう。

 それはヒルダの保身故にではない。全てはモニカを気遣ってのものだということを、モニカは知っていた。

「確かに私はレイン博士が捕まった時、咄嗟に資料を持ち出して隠したわ。でも、これは世間には公表できない資料なのよ……賢い貴女なら、理由は分かるでしょう?」

 レイン博士の研究資料を発表したら、きっとレイン博士の研究成果を良く思わない者──クロックフォード公爵の魔の手が伸びる。

 そのことをヒルダは懸念しているのだ。

 だからこそ、モニカはハッキリと告げた。

「ヒルダさん、わたし……クロックフォード公爵と……た、戦おうと、思うんです」

 モニカの口から「戦う」なんて言葉が出たことに、ヒルダは目を丸くする。

 まして、相手はクロックフォード公爵。かつてモニカの父を死に追いやった、国一番の権力者だ。

 クロックフォード公爵がレイン博士の死に関わっていることを、ヒルダはずっとモニカに隠し続けていた。モニカの身に危険が及ばぬように。

「……あなた、クロックフォード公爵のことに、気付いて……」

「クロックフォード公爵と戦うのに、お父さんの研究資料が必要なんです……お願いします。力を貸してください」

 モニカが頭を下げると、ヒルダは腕組みをして黙り込む。

 長い沈黙は、それだけヒルダの葛藤を表していた。

「モニカ、貴女はレイン博士の研究がどんなものか分かってるの?」

「お父さんの本は読みました。作ろうとしていた物も……知ってます」

 黒い聖杯──血液中の魔力パターンを分析することで、その人間の遺伝情報を読み取る魔導具。

 モニカはその概要こそ理解しているが、父が作ろうとした物をゼロから作るには、途方もない時間がかかるだろう。

 モニカは数学や魔術式の分野においては突出しているが、魔導具の製作には慣れていない。宝石に簡単な術式を組み込むことはできるが、複雑な物を作るには設計図がいる。

 父の研究資料は、絶対に必要なのだ。

 モニカは膝の上で拳を握りしめ、震える声で言った。


「わたしは、クロックフォード公爵と戦わなくちゃいけない……そのために、お父さんの研究が必要なんです」


 いつも逃げることばかり選択してきたモニカが初めて見せた戦う意志に、ヒルダは深く長い息を吐いた。

「思えば、棚の中身が雪崩れたのも、何かのお導きだったのかもしれないわね」

「……?」

「ついてらっしゃい」

 ヒルダは立ち上がり、モニカを手招きした。

 ヒルダが向かったのは、エヴァレット家の二階にある書斎だ。書斎の扉は開けっ放しになっていて、室内から紙の資料が廊下に飛び出している。ヒルダはバツが悪そうにそれらを拾い集め、部屋の中に進んでいく。

 室内はモニカが想像していた通り、床に資料が散らばっていた。ヒルダはそれらもせっせと拾い集め、収納棚までの道を作ると、空っぽになった棚の奥をグッと押す。

 ガコッという音がして奥の板が外れた。そうして外れた板を取り除けば、奥にほんの少しだけスペースがあるのが見える。

 そこには資料の束を紐で綴った物が、一つだけ収められていた。

「……私が咄嗟に持ち出せたのは、これだけよ」

 ヒルダは資料の束をモニカに手渡した。モニカは分厚い資料をパラパラとめくり、目を走らせる。

 その資料は、まさにモニカが求めていた魔導具──黒い聖杯の設計図だ。まだ未完成の物なのだろう。それでも設計図は八割以上完成している。


 この魔導具が、アイザック救出の鍵となるのだ。


 だが、設計図を見たモニカは、こみ上げてくる焦りに唇を噛む。

(設計図が八割以上完成しているのは幸運だったけど……思った以上に設備と器材がいる……特に細かいパーツは、手に入りにくい物が多い……)

 この「黒い聖杯」を作ろうと思ったら、ミネルヴァクラスの設備が必要になるだろう。

 だが、ミネルヴァは使えない。ミネルヴァで魔導具作りをしたら、勘の良いルイスに気づかれてしまう。

 今からモニカがすることは、ルイスにも他の七賢人にも知られるわけにはいかないのだ。

(これを作るには、ミネルヴァ相当の設備がいる……おまけに特殊な材料が多いから、材料集めだけで一ヶ月はかかる……最高審議会が行われるまで、あと二週間もないのに……っ)

 二週間後の最高審議会の場で、フェリクス・アーク・リディルを騙った青年の処遇は決定される。

 そのための布石を、モニカは一つだけ打っていた。

 だが、その布石を活かすには、あまりにも不足しているものが多すぎる。

 設備が、材料が、時間が、技術が、情報が、戦力が、とにかく圧倒的に足りない。



(それでも、なんとかしなきゃ。わたしが、なんとかしなきゃ……わたしが、わたしが……)


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