【15ー9】バーソロミュー・アレクサンダー再び
第二王子を殺害し、肉体操作魔術で顔を写しとって入れ替わった大罪人……という扱いのアイザックは今、リディル王国城の敷地内にある監獄塔と呼ばれる塔の一室にいる。
監獄塔は戦争があった時代には敵国貴族の虜囚が、ここ数十年では主に貴族、王族の囚人に使われている。
アイザックは王子に成り済ました偽物ということになっているが、まだ刑を言い渡されていない以上、王族相応の扱いをしてもらえるらしい。
室内は小綺麗で最低限の設備は整っているし、貴族の屋敷にあるような立派な家具もある。
窓に鉄柵がはめ込まれていることや、扉が鉄製で鍵が何重にもかかっていることを除けば、快適な部屋と言えた。
またアイザック自身も、魔術の使用や抵抗を封じる腕輪状の呪具を嵌められているが、鎖に繋がれたりはしていない。室内は自由に歩けるし、食事も一日三回きちんと出る。
昼になると鉄扉の下にある隙間が少しだけ開いて、食事のトレイが差し込まれた。食事はパンと、具の多いスープ、更に果物までついている。
アイザックはスープを少しだけすくって舌先で舐めた。不自然な苦味や痺れを感じることはない。食事に毒は盛られていないらしい。
(……まぁ、そうだろうな)
クロックフォード公爵は、アイザックが真実を語ることはないと知っているのだ。だから囚人の食事に毒を仕込むリスキーな真似はしない。
パンをちぎって口に放り込んでいると、窓辺で猫の鳴き声が聞こえた。目を向ければ、鉄格子の向こう側に黒猫が一匹ちょこんと座っている。
この階は通常の建物の四階か五階相当の高さにあるはずだ。どうやってここまで登ってきたのだろう。
怪訝に思っていると、黒猫はまるで人間が親しい友人にするみたいに片手を持ち上げてみせた。
「囚人ってぇのは、案外良い待遇なんだな」
黒猫の口から聞こえたのは、間違いなく人間の言葉だった。アイザックが思わずパンをポロリと取り落とせば、黒猫はしてやったとばかりに、にんまり笑う。
「よぅ、王子。絶体絶命だな」
その口調と、意地の悪い金色の目には覚えがあった。
「……ごきげんよう、バーソロミュー・アレクサンダー氏」
アイザックがそう口にすれば、黒猫はいかにも猫らしくゴロゴロと喉を鳴らして笑う。
「オレ様の正体を知った上で、律儀にその名を使うとこ、割と嫌いじゃないぜ」
「今日はずいぶん可愛らしい姿なんだね」
「おぅ、可愛いだろう。もっと褒めていいぞ。にゃぁ」
にゃあ、と鳴く黒竜にアイザックは曖昧に笑いながら窓に近づく。
窓の格子は縦と横に交差していて隙間は狭く、黒猫の体でも潜り抜けることは困難だ。
「君がここにいるのは、レディ・エヴァレットの指示かい?」
〈沈黙の魔女〉は、少しでも自分を気にかけてくれたのだろうか? それともあるいは……。
「レディ・エヴァレットは……私に失望したかな?」
アイザックは自分が犯した罪の重さを理解しているし、他人に謗られる覚悟もできている。
それでも尊敬する女性に失望されると思うと、少しだけ胸が苦しかった。
アイザックがほんの少し表情を陰らせれば、黒猫はフンと鼻を鳴らす。
「安心しろよ。うちのご主人様は基本的に他人に失望はしねぇ。そもそも、他人に期待なんてしてないからな」
「…………」
「あぁ、でも、最近は少し違うか? ……いや、気にすんな。独り言だ」
黒猫はうんうんと頷き、ヒゲをヒクヒクさせながらアイザックを見上げる。
「なぁ、キラキラ王子」
「もう王子じゃないよ」
「じゃあ、キラキラ」
「……他の呼び方は無いのかい?」
アイザックの主張をさらりと無視して、黒猫は言う。
「お前、死ぬ気か?」
アイザックの顔に、自然と透明な笑みが浮かんだ。
その問いかけに対する答えは、もう十年前に決まっているのだ。
「『僕』は、とっくに死人だからね」
アイザック・ウォーカーは十年前に死んでいる。ここにいるのは、もう顔も名前も無くした出来損ないの人形だ。そのことを知るのは、クロックフォード公爵とエリオットだけだけど。
暗く笑うアイザックを、黒猫が金色の目でひたりと見据える。
「なぁ、キラキラ。お前の本名を当ててやろうか?」
その言葉に、アイザックの心臓が跳ねた。
アイザックの名前を知っているということは即ち、この黒猫が……そしてその主人である〈沈黙の魔女〉が、十年前の真実を知っているということを意味する。
そんな馬鹿な。十年前の入れ替わりを知っているのは、クロックフォード公爵とエリオットだけの筈。
コクリと唾を飲むアイザックに、ウォーガンの黒竜はニヤリと笑い……。
「………………しまった。忘れちまった。えっと、なんだっけ? ……アイ? ……ザクザク? ウォーター? なんか、そんな感じの」
流石のアイザックもこれにはふきだし、肩をフルフルと震わせた。
黒猫はバツが悪そうに尻尾を揺らして、アイザックを睨む。
「しょうがねぇだろ。オレ様、人間の名前覚えるの苦手なんだよ。やっぱお前なんてキラキラで充分だ」
「アイザック・ウォーカー。覚えてくれると嬉しいな」
アイザックが笑いの余韻の残る声で言えば、黒猫は拗ねたようにそっぽを向く。
しかし、これには驚いた。アイザックの名前を言い当てたということは即ち……。
「レディ・エヴァレットは……僕の正体を知ってしまったんだね? そのことを知っているのはレディと君だけ?」
「他の奴にホイホイ話せるようなことじゃないだろ」
「賢明な判断だ」
アイザックの正体を迂闊に口にしたら、クロックフォード公爵は全力で〈沈黙の魔女〉を潰そうとするだろう。クロックフォード公爵が、十年前の入れ替わりの証拠を残しているとは思えない。
誰かがアイザック・ウォーカーの存在を主張したところで、公爵に潰されて終わりだ。
「なぁ、正直に全部ぶちまける気は無いのか?」
「無いよ。それだと、フェリクス・アーク・リディルの名を守れない」
アイザックが全てを語れば、フェリクスは十年前に自殺した、という不名誉な真実だけが残ってしまう。
それでは駄目なのだ。
アイザックには、もうこれ以上フェリクスを名乗り続けることはできない。それならせめて、フェリクス・アーク・リディルの名が、少しでも名誉として残るような死に方をしなくては。
「今までの外交実績と呪竜討伐の功績は、本物の第二王子がしたことにしたいんだ。その素晴らしい功績に目をつけた悪い〈帝国の魔術師〉は、新年の儀が終わった後、隙を見て第二王子を殺害し、入れ替わった……そして、最後は惨たらしく処刑されるという流れにしたい」
今、アイザックの頭を占めているのは、いかにフェリクスの名誉を残して死ぬかということだけだ。
クロックフォード公爵としても、己の孫である第二王子に美談が残るという意味で、利害は一致している。
これからアイザックは、その口でフェリクスの功績を称えながら、それを利用しようとした悪人として処刑されるのだ。フェリクスを慕ってくれた人々に憎まれながら。
「今から二週間後に、国のトップを集めた最高審議会が行われる。僕はそこで、英雄王子の名を奪おうとした最低最悪の悪人として振る舞おう。僕の悪名が高くなればなるほど、英雄王子の悲劇も美しくなる」
歌うような口調で語るアイザックを、黒猫は気持ち悪いものを見るような目で見ていた。鼻の上にはぎゅうっと皺が寄っている。
「……人間の考えることって、さっぱり理解できねー」
「きっと、人間でも僕のことを理解してくれる人は少ないと思うよ」
正気じゃない、ということを彼は自覚していた。
それでも彼は止まれない。引き返すことは、もうできない。
「あぁ、それにしても……レディ・エヴァレットは僕のことを知っているのか。なんだか複雑な気分だ」
できることなら、尊敬する人に醜悪な嘘は気づかれたくなかった。
それでも、ほんの少しだけ彼の心は喜んでいる。
「……レディ・エヴァレットが僕の名前を覚えていてくれることが、嬉しい。これで僕は安心して処刑台に上れる」
名前を忘れられたくない、というフェリクスの願いが、今なら少しだけ分かる気がする。
もっとも、アイザックは星になりたいなんて思わない。ただ尊敬する人の記憶に自分の名前が残るなら、それで充分だ。
アイザックは黒猫に笑いかける。死を覚悟した人間の笑顔で。
「最後に一つ頼まれてくれないかい? 兵に連行される時、学園の男子寮のそばの茂みに、懐中時計を投げて隠したんだ。あの懐中時計の中には僕の契約精霊……ウィルディアヌの精霊石がある。それをレディ・エヴァレットに託したい。僕が処刑されれば、ウィルディアヌとの契約も自動的に解除されるだろうから」
「あぁ、いいぜ。それぐらいなら伝えといてやるよ」
そう言って黒猫は身を翻し、身軽に塔を駆け下りていった。
* * *
「……ってことがあってだな」
リディル王国城内にある七賢人用の客室に戻ったネロは、おのれが見聞きしたことを全てモニカに伝えた。
それを無言で聞いていたモニカは、数少ない荷物を荷物袋にまとめ、立ち上がる。
七賢人用にあてがわれた部屋は、城の中でも一際立派な客室だ。七賢人のモニカなら、好きなだけ滞在しても咎められることはない。だが、モニカは一泊もせずに移動するつもりだった。
今のモニカには、やるべきことがあるのだ。そのためには、ほんの少しの時間も惜しい。
「ネロ、学園に戻る前に、ちょっと寄り道するね」
「また寒いところは嫌だぜ」
「大丈夫、王都のすぐ近くだから」
リミットは残り二週間。
二週間後に行われる最高審議会で、フェリクス王子の名を騙った青年の処遇は決定される。
最高審議会は、いわば国のトップが集まる場だ。当然に七賢人であるモニカも出席する……そして、クロックフォード公爵も。
この最高審議会が全ての決着の場になる。
そこで、モニカは戦わなくてはならないのだ。
因縁のクロックフォード公爵と。




