【15ー7】亡き老女の懺悔、幼い王子の願い
フェリクス・アーク・リディルの日記帳に挟まれていた封筒には、手紙が入っていた。どうやらマーシー・アボットが死の間際にしたためた物らしい。
そこには震える字で、こう記されていた。
『ここ数日は、日に日に咳が酷くなり、まともに起き上がることすら辛くなってまいりました。わたくしの寿命はもう幾ばくもないのでしょう。ならば、この命が尽きる前に、わたくしが犯した罪を、後悔を、その全てをここに書き記しておきたく思います。どうか、この手紙を読んでいるのがクロックフォード公爵ではなく、アイザック坊やでありますように。
殿下が亡くなった日の夜のことは、今でも昨日のことのように思い出せます。あの晩、わたくしは殿下に頼まれて、勝手口の人払いをしました。殿下がどうしても外で星を見たいと仰られたからです。
思えば雲の多い日でございましたのに、どうして殿下があんなにも頑なに、外で星を見ることに固執していたのか……あぁ、そのことに気づいていようがいまいが、わたくしは殿下を止めるべきだった。それなのに、わたくしは殿下に甘い顔をして、その可愛らしくもいじらしい願いを聞き入れてしまったのです。
その後、殿下が屋根から転落したと聞いた時、わたくしは血が凍る思いでした。外で星を見ていた殿下が、何故、屋根に登っていたのかは分かりません。ただ、きっと、わたくしが人ばらいをしたことと関係があるのだと、そのような確信だけがわたくしの中にありました。
わたくしは恐ろしくて仕方がなかった。もしかして、殿下が屋根から落ちたのは、わたくしのせいなのではないか。もし、このことが公爵のお耳に入ったら、どのような仕打ちをうけるのか……。
そして恐怖に耐えきれなかったわたくしは、一つの罪を犯したのです。
殿下は常日頃から、こまめに日記をつけていらっしゃった。だから、もしかしたら、わたくしに人払いを頼んだことも日記に書いているかもしれない。それを誰かに見られたら……そう考えたわたくしは、あろうことか殿下の日記をこっそり持ち出したのです。
そして自室に戻り、日記を読んだわたくしは、恐ろしい真実を知ってしまいました。
この真実を知ってしまったわたくしに、これ以上、公爵邸で働き続けることなどできるはずもありません。きっと、わたくしは動揺を顔に出してしまう。公爵に見抜かれてしまう。
だから、わたくしは我が身可愛さに、公爵邸から逃げ出したのです。
親戚のツテを頼って身を隠し、北の果てまで逃げてようやく一息ついた頃、わたくしは殿下の日記を読み返し、強い後悔に見舞われました。
殿下の日記の最後のページは、アイザック坊やに宛てた物なのに……わたくしは保身のために、この日記を持ち出してしまった。
この日記をアイザック坊やに見せなくては、渡さなくては……そう分かっていても、わたくしには勇気がありませんでした。公爵に見つかるのが恐ろしかったのです。
あぁ神よ。願わくば、どうか、どうか……この日記をアイザック坊やに。優しくて哀れなあの子に救いを……』
その手紙の文字は酷く震えていて、読みづらいものだった。
それだけ病が酷かったのか、それとも過去の事象に心乱されたのかは、モニカには分からない。
モニカは手紙を封筒に戻すと、フェリクスの日記をパラパラと捲った。
『きょうもおじいさまにしかられた。わたしがじょうずに馬にのれないからだ。乗馬はこわいから、にがてだ』
『きょうもおじいさまにしかられた。テストの点がわるかったからだ。先生もガッカリしていた。もっと、もっと、がんばらないと』
『きょうもおじいさまにしかられた。お客さまにじょうずにあいさつができなかったからだ。人前にでると、きんちょうしてしまって、声がでなくなる。どうしてわたしは、おじいさまの期待にこたえられないのだろう』
日記のほとんどは、同じ言葉から始まる。
──きょうもおじいさまにしかられた。
そうして、己の至らぬ点を次々と並べていく姿は、ブリジットが語っていた気弱な王子像を思い起こさせた。
だが、日記には「おじいさま」と同じぐらいの頻度で登場する人物がいる。それが彼の大好きな従者のアイザックだ。
『アイザックがハンカチでうさぎの人形を作ってくれた。わたしも作りたいと言ったら、一番かんたんなお花の作り方を教えてくれた。まだ、アイザックみたいに上手に作れないけど、練習したらもっときれいに作れるだろうか』
『初めて馬に乗れた! アイザックが馬の手綱をにぎると、馬はビックリするぐらいおとなしくなるんだ。まるで、まほうみたいだ。アイザックはすごい』
『また、熱が出た。一日、ベッドでつまらなかったけれど、アイザックが色んなお話をきかせてくれたから、退屈はしなかった。アイザックはとても物知りだ』
アイザックについて語る日は、気のせいか文字が活き活きとして見える。なによりそういう日は、花や馬のスケッチが文字に添えられていて、なんとも微笑ましかった。
『私に初めてのお友だちができた。お友だちの名前はアイク。二人きりの時だけの、ヒミツの友だちだ。アイクは私のことをアークとよぶ。アイクとアーク。名前がにてるだけで、なんだかうれしい』
この日から、日記には「アイク」という名前が度々登場するようになった。
従者の時はアイザック、友達の時はアイク、とフェリクスはしっかり使い分けていたので、まるでアイザックとアイクという二人の人間がいるのだと、錯覚しそうだ。
日記を読み進めていけば、フェリクスという少年の人物像も見えてくる。
内気で、自分に自信がなくて……王族と言えど、なんてことはない普通の少年だったのだ。内気なモニカにとっては、親しみやすくすらある。
やがて日記が後半にさしかかると、一ページまるまる使った絵があった。それは拙いながら懸命に描き込んだのであろう王子様の絵だ。
絵の横には、こんなことが書き連ねられている。
【理想の王子様像】
・頭が良い(政治の難しい話も、ちゃんと分かる)
・勇気がある
・みんなに優しい
・剣も乗馬も得意
・狩りも得意
・魔術もたくさん使える
・堂々と挨拶できる(舌を噛まない)
・チェスが強い(エリオットより強い)
・女の人を上手に褒められる(ブリジットに怒られないぐらい)
・ダンスが得意(上手にリードができる、相手の足を踏まない)
・アイクみたいに、色んなことができる
そして「みんなに優しい」の文字の頭には、花丸がつけられていた。
(……きっと、ブリジット様やエリオット様が言ってた通り、優しい王子様だったんだ)
そんなことを考えながら、ページを捲ったモニカは目を見開く。
丁度その次のページで日記は途切れていた。
『なんということだろう、おじいさまは、とても恐ろしいことを考えていた。アイザックを……私の影武者にするというのだ。顔を作り替えて、私と同じ傷痕をつけて、名前すら捨てさせて。そうして公式行事を全て、アイザックにやらせると言うのだ。
おじいさまは、私なんて、いらないと、言っていた。
アイザックは全てを知っていて、私の、そばにいた。
どうしよう 頭がグチャグチャだ』
その文章はインクがところどころ滲み、紙がよれていた……きっと、零れ落ちた涙で。
クロックフォード公爵は、その口でフェリクスに告げてしまったのだ。お前など、もういらないと。
いつも祖父に褒めてもらいたくて、認めてもらいたくて、泣きながら頑張ってきた少年にとって、それはどれほどの絶望だっただろう。
優しい従者の少年が影武者になることを受け入れたと知った時、どれほどやりきれなかっただろう。
悲しみ、絶望し、それでも優しい王子様は……誰も恨んだりしなかったのだ。
『アイザックを──アイクを、自由にしてあげたい。
アイクは優秀だから、本当は何にだってなれるんだ。それなのに私が頼りないせいで、この屋敷に縛りつけてしまった。辛い役目を負わせてしまった。
このままだと、アイクは本当に自由を失ってしまう。
そうなる前に、私は……おじいさまに、歯向かってみようと思う。
アイクに口で説明したら、きっと優しいアイクは私を説得しようとするだろう。
そうしたら私も決心が鈍ってしまいそうだから、お別れの言葉は手紙に書くことにする。
どうか、アイクが自由を手に入れて、自分だけのやりたいことを見つけられますように。
そして……』
最後に綴られた文を目にしたモニカは、大きく目を見開く。
(……あれ? でも、エリオット様の話だと、アイクは…………って、言ってた、はず)
モニカには、エリオットの話と日記の記述が矛盾しているように思えてならないのだ。
何度も何度も最後の文章を読み直し、そしてモニカは理解した。
──アイクは一つ、誤解をしている。
ドクドクと心臓が鼓動し、血が全身をいつもより早く駆け巡る。そんな胸の奥にこみ上げてくるのは、強い、強い衝動。
(この日記を、アイクに見せなくちゃ……)
モニカの中で、アイクを助けたいという願いが変質する。
……アイクを助けなくては、という決意に。
* * *
ケイシーに抱っこされて空いた部屋に連れてこられたネロは、ケイシーの対応に大変満足していた。
まずなんと言っても、抱っこの仕方が安定しているし、毛並みの撫で方が上手い。
人間の子どもの中には、たまに尻尾を強く握る者や、毛並みを逆撫でする者もいるが、ケイシーは毛並みに沿って丁寧に撫でてくれる。これがまた、実に気持ち良いのだ。
(この女、テクニシャンだぜ……)
にゃふぅん、ゴロゴロと心地の良い声で鳴いていると、ケイシーは保存食の肉を茹でて塩を抜いた物まで用意してくれた。無論、火傷しないように冷まし、食べやすくほぐすことも忘れない。
実に猫心を心得ている人間だ、と生きた鳥を丸呑みにしたことがあるウォーガンの黒竜は、しみじみ感心した。ちなみにネロは塩の濃い肉も素材そのままの生肉も、どちらも好きである。
ケイシーは肉を食べるネロを見つめながら、ポツリと呟く。
「……ねぇ、モニカは私のこと、何か言ってた?」
ネロが肉を食べるのを中断し、にゃうっと鳴けば、ケイシーは「あはは」と気まずそうに笑った。
「なーんて、猫に言っても分からないわよね」
ケイシーがセレンディア学園にいた頃、モニカの友人であったことをネロは知っている。
暗殺未遂事件で決別した時に、ケイシーがモニカに「自分はモニカの友達じゃない」と言っていたことも。
(人間ってのは、面倒臭い生き物だなぁ)
立場だの肩書きだのを気にして、好意的な相手に好意を伝えられない人間の感覚が、ネロには理解できない。
そもそもネロは、知っているのだ。ケイシーが刺繍を施したハンカチをモニカに贈ったことも。それをモニカがとても喜んでいたことも。
今日だって、モニカはケイシーに素っ気なくされたらどうしようと、ずっと空を飛ぶネロの背中の上でぶつぶつ言っていたのである。
お前、何しに行くか忘れてないだろうな、と突っ込みたくなるぐらいに、モニカはケイシーのことばかり気にしていた。
とは言え、それをネロがこの場でペラペラ喋るわけにはいかない。今のネロはただの可愛い黒猫さんなのだ。
「あの、お、お待たせ……」
扉がノックされて、モニカが顔を出す。どうやら用事は済んだらしい。
モニカは肉を食べているネロを見て、ちょっとだけ目を丸くした。
「ご飯をもらったの? あの、ケイシー……ありがとう」
「気にしないで。モニカも何か食べてく? 粗食だけど」
「ううん、急いで、戻らないと、だから……」
「……そう」
二人の間になんとなく、気まずい沈黙がおりる。
仕方がないので、空気の読める優秀な使い魔のネロは、一肌脱いでやることにした。
ネロはモニカに向かってジャンプすると、前足で器用にポケットの中身を引っ張り出す。ポトリと床に落ちたのは、花の刺繍を施したハンカチだ。
「わ、あ、えっと……あの……」
モニカは慌ててハンカチを拾い上げ、視線を右に左に彷徨わせた。
ケイシーもハンカチを凝視して、気まずそうに口を一文字にひき結んでいる。
ほら言え、はよ言え……とネロはしゃがみ込んでいるモニカの尻を、肉球でテシテシ叩いた。
モニカはあうあう口を震わせていたが、覚悟を決めた顔で声を絞りだす。
「ハ、ハンカチ、ありがひょうっ!」
ケイシーはしばし唖然としていたが、プッとふきだすと、肩を震わせて笑った。
「緊張すると噛む癖、変わってないのね」
「あう……」
モニカはもじもじと指を捏ねながら、はにかむように笑う。
「あのね、帰る前に……ケイシーに、言いたいことがあるの」
「今の私は見習いだけど修道女だからね。迷える子羊の話を聞くのもシスターの務めよ」
頼りになる姉のような笑い方は、学園にいた頃、モニカに向けていたものと変わらない。
モニカはホッとしたような顔で一度だけ深呼吸をして、口を開いた。
「わたし、ね……きっと、これから、人から見たら、正しくないって思われるようなこと、するかもしれない」
竜であるネロは、正しいとか正しくないという判断基準をいまいち理解できない。ネロにとって全ての行動は「必要だからするか、否か」であって「正しいか否か」という基準を持たないからだ。
だが、人間は自分の中の「正しさ」と常に向き合い、苦悶する。自分の「正しさ」と、他人の「正しさ」をぶつけて葛藤する。そうしてかつて、モニカとケイシーは敵対した。
「きっと、わたしがこれからすることは、誰からも認められない、正しくないことだと、思う」
それでもモニカは、かつて敵対したケイシーに、こう宣言する。
「でも、約束する。絶対に、この国に戦争だけはさせない、って」
モニカの懺悔と決意を静かに聞いていたケイシーは、口の端を持ち上げて不敵に笑う。
「シスター・ケイシーが許します。貴女が思うようにやりなさい……モニカが自分の意志で決めたことなら、最後までやり通すべきだわ」
なんとも力強いシスターの言葉に、モニカは小さく笑って頷いた。