【15ー4】尊敬する人
エリオットは全てを語り終えると、長い長い溜息を吐いた。
その顔に少しだけ疲労の色が滲んでいるのは、喋り疲れたからなのか、或いは過去の強い感情にあてられたのか。
エリオットが背もたれに背中を預けるのとは対照的に、ブリジットはテーブルの上で手を組み、組んだ手を額に押し当てるようにして、俯いていた。その美しい横顔は硬く強張っている。
「……なんてこと。まさか、あの時の従者が……あぁ、確かにあの男なら、殿下の思い出を共有しているのも頷けるわ……いつだって、あの従者は殿下のそばにいたんだもの」
呟く声はどんどんか細くなる。ブリジットは震える手で目元を覆った。
「……本物の殿下は、もう……亡くなっていたのね」
ポツリと落ちた呟きが悲しかった。
ブリジットは本物のフェリクスの死を薄々悟ってはいたものの、それでも、まだどこかで希望を捨てきれずにいたのだろう。
本物の殿下は生きている、どこかに幽閉されているだけだ……と。
「……それも、あの従者のために、自ら命を絶った、なんて……」
ブリジットの悲痛な呟きを聞きながら、モニカはそっと目を伏せた。
モニカは既に本物のフェリクスが死んでいることも、今の第二王子がアイザック・ウォーカーという元従者で、公爵邸の火災で本物と入れ替わったことも知っている。
けれど、モニカが知っているのは過去に起こった「事実」だけだ。
その時、アイザックが何を思っていたのかも、何を願っていたのかも、モニカは知らなかった。エリオットやブリジットと違い、モニカは従者時代のアイザックを知らないのだ。
(……なんで、公爵の言いなりなんだろう、って思ってた……)
学祭の夜、彼が言った言葉がモニカの頭に蘇る。
あの人は夜空を見上げながら、こう言っていたのだ。
『……死してなお、英雄ラルフのようにその輝きを夜空に残せるとしたら……それは、とても幸せなことだと思わないかい?』
あの人は、人々の記憶に残したかったのだ。
アイザック・ウォーカーを逃すために死んだ、彼の主人──フェリクス・アーク・リディルの名を。
そのために彼は顔も名前も捨てて、公爵の言いなりになった。
たまに彼の目に宿る妄執の火は全て……この真実に繋がっていたのだ。
黙り込むモニカとブリジットに、エリオットは軽く笑いながら肩をすくめる。笑っているけれど、その笑顔はどこかぎこちなく、おどけようとして失敗したみたいな顔だった。
「正体を見抜けなかったことを悔やむ必要はないさ。あいつの演技は、気持ち悪いぐらい完璧だった……ただ、皮肉だよな。あいつは俺に対する嫌悪を隠しきれず、結果、一番嫌いな俺にだけ正体がバレてしまった」
「ハワード様は……今でも、あの人を、愚かだと思いますか?」
平民の身でありながら、王子を名乗る大罪人。それは階級至上主義のエリオットにとって、最も忌むべき存在だ。
それなのに、モニカにはエリオットの中に憎悪を見出すことができなかった。
エリオットもまた、そのことを自覚しているのだろう。口の端を少しだけ持ち上げて自嘲する。
「愚かだと……そう思えたら、楽だったんだけどな」
エリオットは背もたれにぐったりと背中を預け、前髪を雑にかき上げながらぼやいた。
「あぁ、そうだ。シリルやノートン嬢みたいに、努力と才能で身分の壁を乗り越える奴がいることも、俺は知ってしまった。そして、そういう奴らを簡単に否定できないことも! 全く、我ながら意志が弱くて嫌になるぜ……あんな偽物王子なんて、さっさと処刑されればいいって、ずっと思ってたのに!」
「……どういうことだ」
入り口の方から聞こえた声に、三人はギョッと振り返った。
生徒会室の扉が少し開いている。そこには、死者のような顔色のシリルが立ち尽くしていた。その背後にはニールとクローディアも。
聞いてたのか、とエリオットが呟けば、シリルは野生動物もかくやという素早さでエリオットに詰め寄り、胸ぐらを掴む。
「どういうことだっ! 殿下は……っ、殿下は、私と出会った時から、もう偽物だったと言うのか!?」
シリルの叫びは、半ば悲鳴じみていた。
そんなシリルにエリオットは哀れみの目を向ける。
「今の話を聞いてたんなら分かるだろ。そうだよ、殿下は十年前から偽物だ。お前が中等部で出会った時には、もう入れ替わった後だった」
「デタラメだっ!」
ヒステリックに叫ぶシリルに、エリオットはゆるゆると首を横に振る。
「お前がデタラメだと思いたいんなら、そうすりゃいいさ。だが、現実にあいつは偽物で、そしてこれから大罪人として処刑されるだろう……大方、何かヘマをして、公爵の逆鱗に触れたんだろうぜ。馬鹿なやつ」
「……っ、このっ!!」
シリルはエリオットに向かって拳を振り上げた。だが、拳を振り下ろすことなく、そのままブルブルと震え、動かなくなる。
平民出身のシリルにとって、彼を見出してくれたフェリクスは絶対的な存在だ。
フェリクスが認めてくれたから、シリルは卑屈になることなく、自分に誇りを持てた。
そんなシリルにとって、フェリクスが偽物であるという事実が、どれだけ残酷なものだったかは言うまでもない。
シリルはしばしフゥフゥと荒い息を吐いていたが、やがてエリオットから手を離すと、生徒会室を飛び出した。
「シリル様っ!」
モニカは慌ててシリルの背中を追いかける。
シリルの背中は丁度、廊下の角を曲がったところだった。だが、そちらは行き止まりの筈だ。モニカは鈍足なりに懸命に足を動かして、シリルを追う。
シリルは廊下の行き止まりで、壁に拳をぶつけて項垂れていた。
その背中にどんな言葉をかければ良いのか、モニカは躊躇う。
真実を知りながらモニカがそれを公にしようと思わなかったのは、アイザックに死んで欲しくないからであり、そして何より、今のフェリクス・アーク・リディルを慕う人達のためでもあった。
──第二王子が偽物であると知ったら、きっと傷つく人がいる。
そう考えた時、真っ先に頭に浮かんだのがシリルだった。
フェリクスに見出され、そのことを誇りに思っていた彼にとって、フェリクスの存在を否定されることは、自分の存在も否定されるに等しい仕打ちだろう。
「……実に、愚かな話だろう」
モニカがいることに気付いているのだろう。シリルはモニカに背を向けたまま、嗄れた声で呻く。
「かつて私は貴様に、殿下に選ばれたことを誇れと言ったのに……このザマだ」
まだモニカが生徒会役員になったばかりの頃、役員なんて分不相応だと震えるモニカに、シリルは卑屈になるな、胸を張れと言った。
自分達は殿下に選ばれたのだからと、誇らしげに。
だが、そんな誇りも今は、残酷な真実を前に粉々に砕け散ってしまった。
シリルは両手で顔を覆う。寒くもないのに、その体は震えていた。
「あの方が、罪人だと言うのなら、私は……私は、なんだったのだ? あの方に見出されて、浮かれて、一人前になれた気になって……」
両手の下で、その薄い唇が引きつった笑いを浮かべる。
それは、常に高慢でプライドの高いシリル・アシュリーらしからぬ……卑屈に歪んだ笑いだ。
「……まるで、道化じゃないか」
一瞬、モニカの頭が真っ白になった。
「違う!」
その強い否定の声が自分の口から出たものだと、モニカは一瞬気付かなかった。
それぐらい、考えるよりも先に飛び出た言葉だったのだ。
「違うっ、違うっ、違うっ! 違うもん……っ!」
強い衝動がモニカの胸を揺さぶる。これは、この感情はきっと……悔しい、という感情だ。
地団駄を踏みたいほどの悔しさを胸に、モニカは叫ぶ。まるで駄々っ子のように。
「シリル様は、すごいんですっ! 数字のことしか分からないわたしと違って、色んなこといっぱい知ってて、仕事を教えるのも上手で、周りのことよく見てて、いつも自信があって、堂々としてて……っ、だから……っ、だからぁ……っ」
自分でも何を言いたいのか分からない。こんなの支離滅裂だ。
それでもモニカはスカートをギュッと握りしめ、衝動のままに口を動かす。
「……だから……わたしが尊敬するシリル様のこと、悪く言っちゃ、イヤ、です……」
シリルは呆気にとられた顔でモニカを見ていた。
モニカはバツが悪くなって俯く。今になって、自分が酷く子どもっぽいことを言ったのだと気がついたのだ。
シリルは何も言わない。モニカがチラリとシリルを見上げると、シリルは勢いよく顔を逸らした。その横顔が赤く見えたのは気のせいだろうか。
シリルはぐしゃりと前髪をかき乱しながら、「あー」だの「うー」だのと不明瞭な言葉を口の中で転がしていたが、やがて気まずそうに咳払いをした。
「……私が中等部に入学した時、侯爵家の養子である私は立場が低く、誰からも声をかけられなかった」
シリルが養子であることは、エリオットから少しだけ聞いたことがある。
だが、シリルの口から彼の過去を聞くのは、これが初めてだ。
「そんな私に声をかけてくれたのが、あの方だ……侯爵家の人間だからではなく、私だから選んだのだと、あの方は仰った。それが私は誇らしかった……私の実力を認めてもらえたのだと」
いつも滑舌の良いシリルが、今は珍しくボソボソとした早口だった。
モニカがおずおずとシリルを見れば、シリルは顔を覆っていた手を下ろす。
「あの方は肩書きを見ずに、私を選んでくれた。それなのに、私はあの方の肩書きが変わったことで、必要以上に取り乱して……なんと恥ずべきことか」
伏せられていた長い睫毛がゆっくりと持ち上がる。澄んだ青い目は真っ直ぐに前を見据えていた。
いつもの彼らしく。高飛車に、高慢に。
「あの時、私はあの方の力になりたいと思った。自分の意思で差し伸べられた手を取った。ならば、その時の私の意志を、今の私が裏切るべきではないな」
しっかりと自分に言い聞かせるような強い声は、もういつもの生徒会副会長シリル・アシュリーのものだった。
「なにより、私は頼まれたのだ。生徒会を任せると……ならば、任期が終わるまで副会長としての務めを全うするのみ」
いつものシリル様だ、とモニカが泣き笑いのような顔をすれば、シリルはゴホンと不自然に咳払いをする。
「あー、つまり、だな。その…………み、見苦しいところを、見せたな」
「……そうね、二人揃って、見苦しさの極みも極みって、か・ん・じ」
シリルの肩がビクッと跳ね上がる。
モニカが振り向けば、廊下の角からクローディアの右半身だけがのぞいていた。
クローディアは美貌の令嬢だが、体の半分だけをきっちり隠したその姿は、いっそ堂々と出てきてほしいぐらいには不気味である。
「……この廊下から生徒会室って、そんなに離れていないのよね……扉が開いてると、会話がダダ漏れなのはご存知?」
シリルが「うぐっ」と言葉を詰まらせる。モニカは頬を両手で押さえて訊ねた。
「も、もも、もしかして、わた、わたた、わたしの、声、も……」
クローディアは首肯するかわりに、ニタリと邪悪に笑う。その笑顔が全てを物語っていた。
モニカの駄々っ子じみた叫びも、全部聞かれていたのだ。恐らく、エリオット達にも。
「……今日が休校日で、良かったわね」
シリルとモニカは二人揃って耳まで真っ赤になった。