【14ー15】妄執の亡霊、立ち尽くす
ポーター古書店の店主は、アイザックが記憶している限り、いつも店の奥にあるカウンター席に座って黙々と執筆をしている。だが珍しく今日に限って、カウンターに人の姿は無かった。
店の扉に鍵がかかっていなかったから、留守にしているということもあるまい。
店の奥に進みがてら「ポーター」と声をかけると、カウンター奥の扉が開き、店主のポーターがぬっと顔を出す。
ポーターはいつも手や服のどこかしらにインク汚れがついているような男だが、今は幾らかこざっぱりとした旅装姿だった。眼鏡もかけていない。
「失礼、これから出かけるところだったかな?」
「……あぁ、あんたか」
ポーターはカウンターの上に置きっぱなしにしていた眼鏡をかけ、手にしていた帽子をかぶる。
「ちょうど原稿が終わって、持ち込みに行くところだったんだ。その原稿料で買いつけの旅に出るつもりだった」
「どうやら僕は、奇跡のようなタイミングで到着したらしい」
ポーターは時に年単位で留守にすることもあるらしいので、あと一日遅れていたら、しばらく彼に会えなかっただろう。
アイザックが冗談めかしてそう言うと、ポーターは帽子の縁を軽く下げ、口の端を歪めるようにして笑った。
「……奇跡、奇跡か。あぁ、実に陳腐な言い回しだが、お前は奇跡や運命というものを手繰り寄せる力を持っているのだろう。お前は非凡だ。物語における主要登場人物だ……それが幸か不幸かまでは、ボクには測りかねるがね」
そう言ってポーターは椅子に腰掛ける。どうやら会話に応じる気はあるらしい。
なんとなくだが、ポーターはアイザックが何のために来店したのかを察しているように感じた。なので、アイザックは率直に本題を切り出す。
「ヴェネディクト・レインという人物について聞きたい」
それは一週間前にモニカが口にした名前だ。
──この先、わたしが何を選んでも、どんな未来に行き着くとしても……どうか、この名前だけは、覚えていてください。絶対に、絶対に、忘れないでください。
アイザックはヴェネディクト・レインという人物の名前を聞いたことはない。だが、目にしたことがあった。
数ヶ月前、モニカとともにこの古書店に訪れた時、モニカが欲しがっていた本。その著者の名だ。
アイザックはその本をちらりと見ただけなので、モニカもその本の著者名をアイザックが覚えていたとは思わなかったのだろう。
あの本をモニカが欲しがった時、ポーターが作者は自分の友人だと口にしていたので、アイザックは少しだけ気になって著者名を目にしていたのだ。
ポーターはカウンターに頬杖をつき、ふぅっと息を吐く。吐息に燭台の火が揺れて、帽子をかぶった男のシルエットもゆらゆらと揺れた。
「ヴェネディクト・レイン。ボクの数少ない友人で、学者だ。彼が何の学者なのかと言われると、返答に困るな。ヴェネディクトは、医学、数学、物理学、生物学、魔法学……あらゆる分野において抜きん出た知識を持っていた。色々器用なやつでな、コーヒーポットやら医療器具やら……はてには魔導具まで、色んな物の設計図を書いていたよ。あれは稀に見る、本物の天才だった」
ポーターはカウンターの上で指を組み、そこに顎を乗せてアイザックを見上げる。
「お前は、ボクの小説も読んだことがあると言っていたな?」
「ダスティン・ギュンター名義のものは一通り読んだと思うけど」
「ならば、こう言えば分かるか。
ヴェネディクト・レインは、黒い聖杯に似た魔導具を作ろうとしていた」
黒い聖杯。それは王家の正統な血を引く人間を証明する、重要なアイテムだ。
アイザックの胸の奥が、ざわり、ざわりと嫌な予感にざわつき始める。
無意識に胸を押さえるアイザックを、ポーターは黒い目でじぃっと見つめていた。
「ヴェネディクトは晩年、遺伝子というものについて研究していた。ボクには専門的なことは分かりかねるがね。なんでもヴェネディクトの魔導具が完成すれば、血液や皮膚などを採取し、分析することで、遺伝的な病の早期発見や、血縁者の割り出しなどができるらしい」
もし、本当にそんな魔導具が存在したら、一番困るのは誰か。
偽物の王子を擁護する、クロックフォード公爵だ。
「結局、その魔導具が完成する前にヴェネディクトは死んだがね」
「……病気か、何かだったのかい?」
「禁術使用罪で処刑されたのさ。審問官はろくに調査もせず、弁明も聞かず、不自然なほどの速さで火刑を執行した」
「……処刑が執行された場所は?」
「ロスメリアという街だ」
ロスメリアはクロックフォード公爵の領地ではないが、領主がクロックフォード公爵の忠臣である。
頭によぎった仮説を否定するには、あまりにも条件が揃いすぎていた。
(……そんな、まさか……)
顔を強張らせるアイザックを、ポーターは無表情にじぃっと見つめている。
それは観察者の目だ。ポーターはアイザックの僅かな表情の変化すら見落とすまいと観察している。
「ヴェネディクトは嫁を早くに亡くしていたが、娘が一人いてな」
「…………」
「ボクの小説を土産に持っていったりもしたんだが、これっぽっちも興味を示さず、数学書ばかり読んでいる変な娘だった」
あぁ、そうだ。随分前、お茶会で毒を盛られたモニカは、幻覚にうなされながら、ずっと呟いていたではないか。
──燃やさないで、燃やさないで、と。
「……その娘は、どうなったんだい?」
「父親が死んだ後は、親戚に引き取られたらしい。その後は知らん」
もし、アイザックの予想が正しいのなら……否、彼はもう予想ではなく、ほぼ確信していた。
モニカの父、ヴェネディクト・レインはクロックフォード公爵に謀殺されたのだ。
第二王子の正体がバレるのを防ぐために。
アイザック・ウォーカーの目的のために、モニカの父は死んだのだ。
かつて、その手で大事な人の亡骸を燃やした彼は、目的のためならその手を汚すことを厭わない。
エマニュエルの弱みを握って脅したように……フェリクス・アーク・リディルの名を残すためなら、なんだってできる。
なのに、今初めてアイザックの頭は軋み、思考を放棄したい衝動に駆られていた。
(ボクのせいで、モニカの父親が死んだ? ……モニカはそれを知っていた? 知っていたから、あの時、父親の名を出した?)
──願いを叶えるために、何かを犠牲にしないといけない時……わたしは、それが簡単にできるって、ずっと思ってたんです。
──誰かの願いのために、お父さんが死んだと知って……どうしたら良いか分からなくなりました。
モニカの願いは何か? そんなの決まっている。父の無実を証明し、無念を晴らすことだ。
そして、その願いのために犠牲にしなくてはいけないものとは何か。
(……ボクだ)
あの日、悩めるモニカに彼は言った「私のことは頼ってくれないのかい?」と。薄っぺらい、ありふれた親切心で。
(……まるで、道化じゃないか。父を死なせた原因が「頼ってくれ」だなんて)
気がつけば手のひらにジワリと冷たい汗が滲み、口の中がカラカラに乾いていた。頭が、痛い。
無言で立ち尽くすアイザックに、ポーターは告げる。
「さっきボクはこう言った。お前は非凡で、物語における主要登場人物であると」
ポーターは椅子を鳴らして立ち上がった。それだけで、彼の影がやけに大きく見える。
「だが、お前の物語が語られることはない。歴史の闇に葬られるだろう」
顔も名前も失い、主人の名を残すことだけに妄執する亡霊のような青年は、乾いた声で問いかける。
「……それは、予言かい?」
「まさか。小説家の妄言さ。新作のネタにもなりやしない」
ポーターは、どこまでが本気か分からぬ態度で肩を竦めた。
その様子を目で追いながら、アイザックは己に言い聞かせる。
(あぁ、その通りだ、ポーター。「僕」の物語など、歴史の上に必要ない)
必要なのはアイザック・ウォーカーの物語じゃない。
歴史に語られるのは、フェリクス・アーク・リディルの物語なのだ。
だが、そのために、一人の少女が父親を失ったという事実が、今になって重く彼の胸にのしかかっていた。