【14-6】必要な傷
アイザックがクロックフォード公爵家に来て一年が経った頃から、屋敷に一人の少年が出入りするようになった。その少年の名前はエリオット・ハワード。ダーズヴィー伯爵家の長男で、年齢はフェリクスと同じ六歳。
恐らくクロックフォード公爵はエリオットをフェリクスの友人にして、社交界の取っ掛かりにしようとでも考えたのだろう。
フェリクスはアイザックに懐いていたけれど、他に友達はいない。だから、フェリクスに友達を作らせる良い機会だと、アイザックは密かに期待していた。
ところが、このエリオット少年、結構なクソガキであった。最初の内こそ、フェリクス相手に丁寧な態度を見せていたが、回を重ねるごとに態度が横柄になっていく。
勉強も運動も苦手なフェリクスのことを、エリオットが見下しているのは明らかだ。その癖、大人達の前では愛想良く、フェリクスと親しげに振る舞ってみせるのだ。
その日もフェリクスと一緒に乗馬の練習をしていたエリオットは、馬に一人で乗れず、アイザックに支えられているフェリクスを鼻で笑い、からかった。
「殿下は、まだ一人で乗れないのかよ」
「ぅ〜〜〜」
アイザックに後ろから支えられて辛うじて馬に乗っているフェリクスは、何も反論できずプルプルと震えている。
馬というのは乗ってみると案外高さがあるものだ。フェリクスはいつ馬に振り落とされるのか、恐ろしくて仕方ないのだろう。
「殿下、僕がついているから、大丈夫ですよ」
アイザックがフェリクスを後ろから支えてそう言えば、エリオットは意地悪く笑った。
「ははっ、王子様っていうより、お姫様みたいだな!」
フェリクスの顔がカッと赤くなり、目尻に涙が浮かぶ。
アイザックは冷ややかな目でエリオットを睨みつけたが、エリオットは高慢に鼻を鳴らしてアイザックを睨み返した。
「なんだよ、使用人。言いたいことがあるなら、言ってみろよ」
「…………」
言いたいことは山ほどある。だが、使用人であるアイザックは言い返すことなんて許されない。
なにより、アイザックはこの先、フェリクスの影武者としてエリオットと接する可能性もあるのだ。エリオットの記憶に残るような言動は望ましくない。なるべく目立たない従者でいるべきだ。
アイザックはエリオットからプイと目をそらすと、フェリクスを支えながら馬を走らせる。フェリクスはもう手綱を握り締めているのが精一杯で、馬と意思疎通をするどころではなかった。
エリオットの姿が見えなくなったところで馬のスピードを落とすと、フェリクスがポツリと言う。
「……ごめんね、アイザック」
「何を謝ることが?」
「私みたいなのが主人で、恥ずかしいだろう……」
周りに人はいないけれど、フェリクスはあえて「アイク」ではなく「アイザック」と呼んだ。
友人としてではなく主人として、己の不甲斐なさを恥じているのだ。
そういう生真面目さが、なんとも彼らしい。
「僕が貴方を恥じたことなど、一度もありませんよ」
確かにフェリクスは、勉強も運動も苦手だ。人見知りも激しくて、初対面の相手とはまともに話せない。
それでも、アイザックは知っているのだ。フェリクスが人一倍努力家であることも。誰よりも心優しいことも。
「貴方は僕の自慢の主人です」
アイザックがそう告げれば、フェリクスははにかみながら小さな声で「ありがとう」と呟いた。
* * *
その翌日、アイザックが裏庭で護身術の訓練を受けている最中に事件が起こった。
「誰か! 誰か来てくれぇ!」
悲鳴じみたその声は、エリオットのものだ。
エリオットとフェリクスは今、二人で一緒にいるはず。そんな状況でエリオットだけが悲鳴を上げているという事実に、アイザックは迷うことなく声の方へ走った。
全身の血が冷たくなり、背筋がゾワゾワとする。それは、かつて家族を竜害で失った時に感じた恐怖だ。
どうか、どうか、フェリクスに何事もありませんように……そう祈りながら駆けつけたアイザックが目にしたのは、脇腹から血を流してぐったりとしているフェリクスの姿だった。
そのそばではエリオットが半ベソをかいて、泣きじゃくっている。
「フェリクス様っ!」
アイザックはフェリクスに駆け寄り、怪我の具合を確認する。フェリクスの右の脇腹には太く硬い木の枝が深々と刺さっていた。ただ転んだだけで、ここまで刺さるとは思えない。
アイザックはギラリとエリオットを睨みつける。
「フェリクス様に何をした」
「ち、ちが……そいつ、木から、落ちて……」
「……木から?」
アイザックはフェリクスが倒れていた地点のすぐそばにある木を見上げた。成る程、木登りをするには丁度良い立派な太さの木だ。だが、運動の苦手なフェリクスが、自分から木に登りたがるとは思えない。
見上げた木の枝の合間には、一冊の本が見え隠れしている。それだけで、勘の良いアイザックは事情を察した。
「……貴方が強要したのか。本を返してほしければ、木にのぼれと」
軋む歯の隙間から呻けば、気圧されたエリオットは真っ青になって震え上がった。
今すぐその横っ面を殴ってやりたいが、今はフェリクスを医師に診せるのが先だ。
アイザックは己の上着を脱いでフェリクスの傷口を止血すると、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた庭師に、医師を呼ぶよう指示をした。
* * *
「処置は終わりましたヨ」
この屋敷に常駐している医師は手を拭いながら、ベッドサイドでフェリクスを見守っているアイザックと侍女頭に声をかけた。
フェリクスが運び込まれた時から、ずっと付きっきりで看病していた二人は安堵の息を吐き、胸を撫で下ろす。特に老齢の侍女頭であるマーシーはすっかり涙腺が緩んでしまったらしく、エプロンで目元を拭っていた。
アイザックは大事な人を失わずに済んだ安堵感に、ようやく肩に入っていた力を抜く。
それでも、目の前で苦しげな呼吸を繰り返しているフェリクスを見ると胸が痛んだ。
(……僕が、目を離したから……)
フェリクスが怪我をした時、アイザックは公爵の言いつけで護身術の訓練をしていたのだ。責められる理由はない。
それでもアイザックは、意地の悪いエリオットと二人きりになることを看過してしまった自分の迂闊さを責めずにはいられなかった。
フェリクスの怪我は幸い内臓には届いておらず、簡単な縫合手術で済んだ。それでも引きつった傷痕は一生残ることになるだろう。アイザックの顔の傷のように。
フェリクスの寝顔を眺め、アイザックが唇を噛み締めていると、医師がアイザックの肩を叩いた。
「アイザック君、ちょっといいデスか?」
「……?」
「大事な話がありますノデ」
医師は少し外国訛りのある、丸眼鏡をかけた男だ。年齢は四十前後だろうか。癖の強い灰色の髪を後ろで束ねていて、背がヒョロリと高い。
医師はフェリクスの主治医でもあるのだが、アイザックはこの医師のことをあまり知らない。そもそも本名もよく分からないのだ。たまにアーサーと呼ぶ者もいるが、大抵の者はドクターか先生と呼ぶ。
アイザックだけでなく屋敷の住人の誰もが、この男の素性を知らないのだ。それでも、この医師はクロックフォード公爵に信用されている、ただそれだけで屋敷の人間には充分だった。
そんなアーサーに「大事な話がある」と言われ、アイザックは困惑した。できれば、フェリクスが目覚めるまでそばにいてやりたい。
それでもアーサーが真剣な顔をしているので、アイザックは立ち上がり、侍女頭に頭を下げた。
「マーシーさん、殿下をお願いします」
「えぇ、分かったわ」
侍女頭のマーシーは、昔、幼い息子を病気で亡くしたことがあるらしく、フェリクスのことをいつも気遣っている。クロックフォード公爵の味方ばかりのこの屋敷で、数少ないフェリクスの味方だ。
マーシーになら、フェリクスを任せて大丈夫だろう。
そう判断し、アイザックは部屋を出ていくアーサーに続いた。
アーサーが向かった先は、クロックフォード公爵の書斎だった。
公爵は書物机に座って仕事をしている。こんな時でも、フェリクスの様子を見にこようともしないのだ。この男は。
公爵は書類と向き合っていた顔を上げて、アーサーとアイザックを一瞥する。
「アレは?」
「それがデスね、ちょっと困ったことになったんデスよ」
アレ、というのはフェリクスのことを指しているのだろう。
アイザックは不快感に少しだけ眉をひそめたが、アーサーは気にした様子もなく、少し大袈裟に両腕を広げてみせた。
「フェリクス殿下の傷は、内臓に及ぶほどではなかったんデスけどね。あの傷痕は、どうしても残っちゃいマス……ワタクシの術で傷痕を消しても構わないんデスがね、今回の事故はダーズヴィー伯爵家も知るところ。これは『入れ替わり』の際に、都合が悪い」
入れ替わり、の一言にアイザックは思わずアーサーの顔を凝視した。アイザックがフェリクスの影武者になることを、この医師は知っているのだ。
その上で、フェリクスの傷痕が入れ替わりの際、禍根にならないかを懸念している。
クロックフォード公爵は薄い水色の目で、アーサーの背後に立つアイザックを見て、顔色一つ変えずに告げた。
「ならば、ソレにも同じ傷を」
まるで、そうするのが当然と言わんばかりに、クロックフォード公爵は言い捨てる。
アイザックにもフェリクスと同じ傷痕をつけよ、と。
今まで、公爵から折檻をされたことは何度もある。フェリクスの世話にかまけて課題が遅れた時、或いは、出来の悪いフェリクスへの見せしめのために、アイザックは何度か折檻を受けていた。
少し前、フェリクスのために天文学の本をこっそり持ち込んだ時は、背中を強かに鞭で打たれた。その鞭の痕は、今も生々しくアイザックの背中に残っている。
いずれ、アイザックがフェリクスと入れ替わる時、折檻の傷痕は顔の傷と共に消すことになっている。アイザックにはいまだに信じがたい話だが、アーサーの手にかかれば、傷痕を魔法のように消すことができるらしい。
必要のない傷痕は全て隠して。
必要な傷痕は、必要なだけナイフで刻んで。
そうやって、アイザックは「フェリクス」に作り替えられていくのだ。
少しずつ自我を奪われ、自分がただの人形になっていく感覚がする。
それでも、アイザックはフェリクスのそばにいたかった。そのためには公爵に従うしかなかった。
「…………分かりました」
暗い目で答えるアイザックに、クロックフォード公爵は「それでいい」とだけ告げ、また書類と向き合う。
もうこれ以上、用は無いと言わんばかりに。
* * *
暴れぬよう手足を拘束され、舌を噛まぬようにと布を噛まされたアイザックを、アーサー医師は無表情に見下ろしていた。
丸い眼鏡の奥にある目に、同情や哀れみの感情はない。それは実験動物を見る目と同じだ。
公爵の狂気のような入れ替わり計画に加担しているだけあって、この医師もまた、まともではないのだろう。
あるいは、こんな仕打ちを黙って受け入れている自分もまた、まともではないのかもしれない。
それでも、もうアイザックはフェリクスと過ごす日々を手放せない。
フェリクスは、空っぽだったアイザックに生きる意味を与えてくれたのだ。
だからフェリクスと共に生きるためなら、どんな仕打ちだって耐えられる。
アーサーが火で炙ったナイフを、アイザックの腹に食い込ませた。プツリと皮膚が破け、肉が裂ける。焼けつくような痛みに、目の前が真っ白になる。
苦悶の声は口に咥えた布に吸い込まれ、くぐもった悲鳴は誰にも届くことはない。
「これでヨシ。次は傷痕を縫合しマス」
アーサーはナイフを置いて、縫合用の針に持ち変える。
まだ、苦痛は終わらない。皮膚に糸を通され、清潔な包帯を巻かれてもなお、ズクズクと疼くような痛みがアイザックを苛む。
それでも、これはフェリクスも味わった痛みなのだと思えば、いくらでも耐えられた。
「処置が終わりマシタ。その傷痕は、他の誰にも見せてはいけませんヨ。勿論、フェリクス殿下にも」
拘束を解かれたアイザックは、熱の篭った荒い息を吐きながら、痛む脇腹を包帯の上から撫でる。
(……これは、僕がアークのそばにいるために、必要な傷なんだ)
少しずつ、作り替えられていく。
少しずつ、「アイザック」が壊されていく。
それでも、フェリクスと共に生きる未来があるのなら、きっと自分は狂わずにいられる。
(あぁ、早く、アークの元に行かないと。看病をしないと。きっと、寂しがってる……)
アイザックはふらつく足取りでフェリクスの部屋に向かう。
フェリクスはまだ眠っていた。そばに控えていた侍女頭のマーシーは、アイザックを見てギョッとしたような顔をする。
「どうしたんです、アイザック坊や。顔が真っ青じゃありませんか。それに酷い汗!」
「……看病、替わります」
マーシーは「そんな顔色で何を言っているのです!」とアイザックを叱ったが、アイザックが頑として動かないと知ると、呆れたような顔で溜息を吐いた。
「……少しだけですよ。良いですね、アイザック?」
「ありがとう、ございます」
マーシーに礼を言い、アイザックはベッドサイドの椅子に腰掛ける。
マーシーはアイザックに気遣わしげな視線を向けつつ、そっと部屋を後にした。
そのパタンと扉が閉まる音に、フェリクスの目蓋が震え、ゆっくりと持ち上がる。
「…………アイ、ク?」
まだ痛みにうなされているであろうフェリクスが、掠れた声でアイザックを呼ぶ。
アイザックは自身の苦痛を全て押し殺し、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「痛かっただろう? よく、我慢したね、アーク」
乱れた髪をそっと撫でてやれば、フェリクスは安心したような笑みを浮かべる。
「…………うん」
「ボクはここにいるから。まだ、寝てた方がいい」
「……うん」
小さく呟き、フェリクスは再び目を閉じる。その寝顔は、先程までよりいくらか安らかだ。
その寝顔を見つめ、アイザックは己に誓う。
たとえ、アイザック・ウォーカーという一人の人間が歪められても。
元の顔と違う人形に作り替えられても。
(……今度こそ……今度こそ、守るんだ)




