【14ー3】ありふれた悲劇
エマニュエルとの食事会を終えたフェリクスは、セレンディア学園へと戻る馬車の中で窓の外の景色を眺めていた。
今のところ、万事順調だ。
〈宝玉の魔術師〉エマニュエル・ダーウィンはこちら側に落ちた。あとはクロックフォード公爵を毒殺し、フェリクスが卒業と同時に即位するだけ。
クロックフォード公爵はフェリクスにとって最大の後ろ盾だが、既に歓楽街で得たコネを使って、グリムトン男爵、モラン伯爵、アッシェンテ伯爵、バルディア侯爵に渡りをつけてある。クロックフォード公爵が急死しても、彼らがフェリクスの後ろ盾になってくれるだろう。
(……もう少しだ)
彼にとって玉座はゴールではない。スタート地点だ。
賢王として歴史に名を残して死ぬ時こそ、彼の終着点。
それまで、彼は歩みを止めることはできない……たとえ何を犠牲にしても。
フェリクスはポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめる。今は昼を少しすぎたところだ。学園に到着するのは夕方ぐらいになるだろう。
今日は予め外出届を学園側に出しているから、このまま寮に戻っても構わないのだが、少しだけ生徒会室に戻って整理したい資料がある。
フェリクスは御者に、寮ではなく校舎に向かうよう指示を出すと、背もたれに体を預けて目を閉じた。
学園に到着するまで、まだだいぶ時間があるのだ。今は仮眠を取っておきたい。
いつしか、窓の外には雨が降り始めていた。
雨の音と車輪の音、そして馬車特有の振動が、微睡む彼に懐かしい夢を見せる。
閉ざされた瞼の裏に蘇るのは、初めて馬車に乗った日の光景。
もっとも、彼が初めて乗った馬車はこんなにお上品な馬車ではなかったけれど。
* * *
アイザック・ウォーカーはリディル王国東部の小さな町の、医師の息子だった。
温厚で優しく、町の人間から慕われている父。美人と評判で料理上手の母。まだ一歳にもならない弟のコリン。そして六歳になったばかりのアイザックの四人家族。どこにでもいる、平凡で幸せな家族だ。
そんな平凡な幸せが崩れた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
あれは年に一度の祭りの日のことだった。
父と母と幼い弟と、家族みんなで祭りに出かけた彼は、鹿肉の串焼きを買ってもらってご機嫌だった。手や口をベタベタにして串焼きを頬張れば、父が苦笑まじりにハンカチで口を拭ってくれる。
「アイザック、串は縦じゃなくて横に持つといい」
「はぁい」
アイザックは父に言われた通りに串を横向きにしつつ、母に抱かれている幼い弟を見上げた。
「串焼き、とっても美味しいよ。コリンも食べるかな?」
「ふふっ、コリンに串焼きはまだ早いわよ」
幼い弟相手にお兄ちゃんぶりたいアイザックは、少しだけ残念に思いつつ、弟がもう少し大きくなったら、串焼きを分けてあげようと誓う。
その時、遠くの方で鐘の音が聞こえた。祭りとは関係のないその鐘の音は、非常事態を知らせるものだ。
カァン、カァン、という暴力的な音の合間に誰かの叫び声が聞こえた。
「竜だ! 竜の群れが町に!!」
先ほどまで笑いに満ちていた町は、たちまち悲鳴とどよめきに支配され、恐慌状態に陥った人々は我先にとその場を駆け出した。
「来なさい!」
父がアイザックの手を引き、母は幼い弟をしっかり抱きしめて走り出す。
アイザックの手からポロリと落ちた串焼きは誰かに踏まれて、たちまち見えなくなった。
町を襲ったのは地竜の群れだった。飛行能力は無いが鱗が硬く、足も早い。おまけに群れになると手がつけられない凶悪な竜だ。常駐の警備兵がどうにかできる相手ではない。
大した軍事力もない町はたちまち壊滅状態になり、大勢の人間が死んだ。
その日からアイザック達は町の端にある避難所で過ごすことになったが、医師である父は怪我人を治療するべく、前線へ赴くことになった。
「お父さん、大丈夫なの? まだ竜がいるんでしょ?」
不安がるアイザックに父は穏やかな声で、竜の群れは殆どが町の外に移動したことを教えてくれた。
それでも、町の中には群れから逸れた竜が数匹残っているのだ。おまけに、王都の竜騎士団もまだ到着していない。
「お父さん、ダメだよ、危ないよ」
「……それでも、父さんはお医者さんだからね。怪我している人がいるなら、行かなくてはいけないんだ」
父は大きな手で息子の頭を撫でて、穏やかに笑いながら言う。
「アイザック、父さんがいない間、母さんとコリンを守ってくれるかい?」
アイザックは泣きそうになるのを堪えて、強く頷く。
「うん、できる。できるよ。だって、ぼく、お兄ちゃんだから」
「良い子だ」
父は力強く笑い、白衣の裾を翻して避難所を後にする。
父が崩壊した家屋の下敷きになり、帰らぬ人となったのは、その翌日のことだった。
* * *
父の死に母は嘆き悲しんだが、息子のために速やかに荷物をまとめ、町を出る支度をした。
乗り合い馬車には人が殺到していて、誰もが我先に馬車に乗り込もうと押し退けあっている。アイザックと母が馬車に乗れたのは、順番を待ち続けて二日が経った頃だった。
ようやく乗り込んだ馬車は座席もない幌馬車で、人が重なり合うように、ぎゅうぎゅう詰めになっている。隣に座っていた中年の男が少し腕を動かすたびに、肘がアイザックの頭にゴツゴツと当たって痛い。
馬車の中でジッとしながら、アイザックは父のことを思い出して泣きたくなるのを堪えていた。
本当はわんわん泣いてしまいたい。でも、自分はお兄ちゃんなのだ。母と弟を守らなくてはいけないのだから、こんなところで泣いているわけにはいかない。
だが、周囲の不安が移ったのか、あるいは空腹なのか、母の腕に抱かれている幼いコリンが、グズグズと泣き始めた。
「まぁコリン、どうしたの? お腹が減ったの? ごめんなさい、もう少し、もう少しだけ我慢して」
母はコリンを一生懸命あやしているが、か細くしゃくり上げる声は次第に大きくなり始めている。このままだと、火がついたように泣きだすのは時間の問題だ。
アイザックはポケットからハンカチを取り出すと、それをクルクルと丸めて端をピンと引っ張った。
「ほら、コリン。ウサギさんだよ」
即興で作ったウサギの人形をコリンのそばでヒョコヒョコ動かせば、コリンの意識がそちらに向く。
コリンは人形のウサギに小さな手を伸ばし、キャッキャと笑っていた。
アイザックはひとしきり弟をあやしてやると、ウサギの人形で弟の頬にキスをする。
「次は何を作ろうか? お花かな? それとも猫?」
コリンは涎だらけの口を動かして「うーまぁ」と繰り返した。
「お馬さんが良いのかい? うーん、難しいな……ちょっと待ってて」
ハンカチで馬を作ろうとアイザックが試行錯誤していると、唐突に馬が激しく嘶き、馬車が大きく揺れた。
傾いた馬車の端で押しつぶされた者が悲鳴と罵声をあげるが、それをかき消すように、獰猛な鳴き声が響き渡る。
その鳴き声が何を意味するか、この場に知らない者はいない。
「……竜だあぁぁあっ!」
誰かが叫んだ瞬間、馬車が大きく横に揺れて倒れた。竜の尾が馬車を横薙ぎにしたのだ。
馬車の中の人々が重なり合い、悲鳴をあげる。下敷きになった者の中には、首が変な方向に曲がったり、頭から血を流したりして動かなくなった者もいた……アイザックの母もだ。
「お母さんっ、お母さんっ!!」
アイザックとコリンを抱きしめて庇った母は、頭から血を流していた。おまけに足首が赤黒く腫れている。
それでも母は、泣き言一つ言わず、コリンをアイザックの方に押しやった。
「コリンを、連れて……逃げ、なさい」
「お母さんも、一緒に……」
「ダメ、足が、動かないの……はや、く……」
アイザックはコリンを抱きしめながら、途方に暮れた。アイザックは賢く分別のある子どもだったが、それでもまだ甘えたい盛りの六歳なのだ。
父親を亡くしたばかりの幼い少年にとって、母を見捨てて逃げるという選択肢はあまりにも酷だった。
「やだ、やだ、やだぁ……っ」
泣きじゃくるアイザックの腕の中で、コリンがわんわんと泣きだした。
──その時、馬車に大きな穴が空いた。
竜がその鋭い爪を馬車に振り下ろしたのだ。
無造作に振り下ろされた巨大な爪の先端が、母の体を抉るのをアイザックは見た。
その瞬間、彼は考えるよりも早く足を動かしていた。
母の亡骸に背を向けて、幼い弟を抱きしめて、横倒れになった馬車から飛び出す。
馬車の外はまるで悪夢のような光景だった。馬車を囲う三匹の地竜。茶色い鱗に覆われたその生き物が無造作に爪を振り下ろすたびに、血飛沫が舞う。
丸太より太い足下では、踏み潰された人々が苦悶の声をあげていた。
「あ、あぁ、あ、う、ぁああああああああ!!」
アイザックは竜と竜の隙間を縫うように逃げようとした。だが、そんな幼い少年に竜は無慈悲に爪を振り下ろす。
アイザックはギリギリでそれをかわそうとしたが、竜の爪の先端が顔の右半分を抉った。
「っぁあああああああ!!」
激痛、痛い、目が開けてられない、ボタボタと垂れる血が幼い弟の顔を汚す。
「あっ、ああっ、うわぁあああ!」
弟を抱きしめて悲鳴をあげるアイザックの背中を、竜の尾が強かに叩く。
そこで、アイザックの意識は一度途絶えた。
* * *
血塗れで倒れるアイザックの肌を雨の粒が濡らした。周囲に漂う死臭と血を、雨が洗い流していく。
「……コリン……コリン……」
アイザックは途切れそうになる意識を懸命につなぎ止めて、幼い弟を胸に抱く。
少しでも、コリンが濡れないように短い腕を伸ばして。
「……ぼくが、守るから…………ぼくは、お兄ちゃんだから…………」
遠くから蹄の音が聞こえた。それも複数。あぁ、きっと竜騎士団だ。竜騎士団が来てくれたのだ。
頭上で大人達の声がする。
「酷いありさまだな……」
「地竜の仕業と聞いたが……この辺に地竜は生息していなかったはずでは?」
「恐らく帝国の竜が、国境を越えて来たのだろう」
「これは、生き残りは……絶望的だな……いや、待て、あちらから声がする!」
アイザックの掠れた声を聞きつけた騎士達は、すぐにアイザックを抱き起こしてくれた。
あぁ、これで助かる。自分はなんとか幼い弟を守ることができたのだ、とアイザックは朦朧としながら考える。
「……兄の方はかろうじて生きているが……」
「あぁ、弟の方は……」
その時、アイザックはようやく気がついた。
腕の中の弟の体が冷たくなっていることに。もう、随分前から泣き声が聞こえなくなっていたことに。
まだ幼い弟が、野ざらしにされて、数日も生き残れるはずがなかったのだ。