【14ー1】黒い聖杯の真実
夜の歓楽街は、モニカが以前訪れた時と変わらず……否、あの時以上に賑やかだった。春になると、人は浮かれて街に繰り出したくなるものらしい。
客引きの女が蠱惑的に微笑めば、街灯に引き寄せられる蛾のように、男達が群がる。そんな男達に群がるのは商品を抱えた露天商。やれ、珍しい髪飾りはいかがかね? と露天商が声をかければ、若い娘達は甲高い声でキャアキャアと喜びの声をあげる。
そんな光景を横目に眺めながら、モニカは僅かな記憶を頼りに夜の街を足早に歩いていた。
やがて喧騒が遠ざかり、夜の街の中でも一際暗く細い道を抜ければ、見えてくるのは「ポーター古書店」の看板だ。
モニカはスーハーと一度だけ深呼吸をし、古書店の扉を開けた。キィと扉が軋む音は、以前来た時も聞いた音だ。
薄暗い店内には等間隔に並べられた本棚。モニカは以前、フェリクスに連れてこられた時のことを思い出しながら、二番目と三番目の棚の間を歩く。
店内に他に客の姿はなく、奥のカウンターでは店主のポーターが以前と変わらぬ姿勢で書き物をしていた。
褐色の肌に黒髪の店主は異国の血が混ざっているらしく、いまいち年齢が分かりづらい。
だが、モニカの父と同年代と言われれば納得できる容姿ではあった。
「こんばんは」
モニカが声をかけても、ポーターは文字を綴る手を止めない。眼鏡の奥にあるアーモンド型の黒い目は、紙面をひたりと見据えたままだ。
だが、モニカの声が届いていない訳でもないらしい。サラサラと羽ペンを動かしながら、ポーターは億劫そうに口を開く。
「思ったより、時間がかかったな。糊づけをしっかりしすぎたか?」
「……いえ、メモ書きはすぐに見つかったんです、けど……黒い聖杯が何を意味するのか、すぐに分からなくて」
ポーターは羽ペンを動かす手を止め、やっとモニカを見上げた。
少しだけ隈の浮いた目が気怠げにモニカを映し、あぁ、と納得したように呟く。
「ボクの小説を読んだ人間なら、すぐに分かる簡単な符丁だと思っていたんだが……そういえば、お前は小説を読まない子どもだったな。昔から数学書ばかり読んでいた」
「もしかしてわたし達……昔、会って、ますか?」
「あぁ、お前の父親が生きていた頃の話だがね」
ポーターは羽ペンをペン立てに戻すと、インクで黒く汚れた手を手布で拭いた。
「さて、昔話をするなら、コーヒーでも淹れようか。適当なところに座ってくれ」
座ってくれと言われても、古書店には店主が座る椅子以外に椅子はない。
モニカは辺りを見回し、小さめの足台を見つけると、それを椅子がわりに腰を下ろす。
ポーターは店の奥にあるらしい小さな居住スペースに引っ込み、しばらくすると盆を手に戻ってきた。盆の上に乗っているのは、カップが二つと銀色のポット──そのポットに、モニカは見覚えがあった。
「そのポット、は……」
それはモニカが大事にしている父の形見の品と、そっくり同じ物だ。
ポーターはコーヒーをカップに注いで、モニカに差し出す。
「お前の父親に頼んで作ってもらった物だ。夜更かしをする日はこれに限る」
やはり、この人は父の友人なのだ。
そんなことを改めて思いつつ、モニカはカップを受け取った。
ポーターはカウンター前の椅子に腰を下ろすと、コーヒーを一口すすって息を吐く。
「さて、どこから話したものかな……『バーソロミュー・アレクサンダーの冒険』は、もう読んだのか?」
「五巻の、第十四章だけ……」
ポーターはカップを傾けながら、鼻の頭に皺を寄せた。
「推理小説の謎解きだけ読むような読み方だな。作者としては一巻から読んで欲しかったがね」
「す、すみません……小説、読むの、苦手、で」
「それで、それを読んだ感想は?」
『バーソロミュー・アレクサンダーの冒険』五巻、第十四章「バーソロミュー・アレクサンダーと黒い聖杯」のあらすじはこうだ。
相棒のエイブラムと共にとある王国を訪れたバーソロミューは、その王国の後継者問題に巻き込まれる。
その国には黒い聖杯という国宝があったのだが、その黒い聖杯が何者かに盗まれてしまった。そこで国王は五人の息子と娘に、この黒い聖杯を見つけ出した者を王にすると告げる。
だが、この黒い聖杯を隠したのは他でもない、国王候補として最も有力視されていた第一王子だった。
黒い聖杯は、王族の血を注ぐと聖杯そのものが赤く輝く神秘の秘宝。
しかし、第一王子は王妃の不義の子で、王の子ではなかった。故に、その事実を隠すべく黒い聖杯を盗み出したのだ。
その真実に気づいたバーソロミューは、王女マリアベルと協力して隠された黒い聖杯を見つけ出し、王に差し出す。
* * *
──それはいかなる技術を持って作られた物なのだろう。最高級のオニキスを削りだしたのか、或いは黒竜の鱗を溶かして固めたのか。精緻な装飾の施されたその聖杯は、杯も持ち手も装飾も、何もかもが混じり気のない最高級の黒一色でできていた。
その杯に王女マリアベルが己の血を一滴垂らせば、漆黒の聖杯は血に触れた部分からジワリと紅が滲みだす。まるで、黒い聖杯が血を吸い上げたかのように、聖杯は血に触れた部分から赤く染まっていき、やがて真紅の聖杯になった。
国王はそれを見届け、声も高らかに告げる。
「王女マリアベルよ、黒い聖杯を真紅に染めたそなたは正しき王の血を引く者であると証明された。さぁ、叛逆の王子よ。お前もその血をもって、お前が王家の者であることをここに示すがいい!」
* * *
王妃と別の男の間に生まれた不義の子である第一王子は、その血で聖杯を紅く染めることができず、破滅する……というのが大筋の流れだ。
だが、モニカにとって重要なのはストーリーでもキャラクターでもない。黒い聖杯の役割だ。
この話の中に登場する黒い聖杯は、特定の血族の血に反応して変色する、一種の魔導具ではないかとモニカは考えている。
そして、この黒い聖杯こそが、モニカの父ヴェネディクト・レインが処刑された理由。
「……お父さんは、この『黒い聖杯』を、作ろうとしたんですね?」
モニカの父は、魔力の遺伝性質の研究をしていた。
人間の魔力は基本的に遺伝する。具体的には得意属性や魔力量などだ。
得意属性は必ず両親どちらかのものが得意属性となるし、両親の魔力量が多ければ、子の魔力量も多くなる。
そのメカニズムを父は解析しようとしていた。
「正確には、お父さんが作りたかったのは、この黒い聖杯を模した、遺伝情報を読み取る魔導具だと思います。採取した血液を分析、解析することで、遺伝的な病気の有無や血縁関係などを調べることができる……という」
それは、遺伝的な病気の治療や、身元不明の遺体が見つかった時の照合に役立つ技術だ。
だが、この研究内容を見たとある人物は「叛逆の王子」と同じことを考えた。
──血縁関係を調べることができるようになったら、国王と第二王子が血縁関係ではないことがバレてしまう。
だから、その人物……クロックフォード公爵は裏から手を回し、ヴェネディクト・レインに罪を被せて処刑したのだ。
全ては、フェリクス・アーク・リディルという偽物の王子を、国王にするために。
モニカは両手でコーヒーカップを握りしめ、足元を睨みつける。そうしていないと、自分の中にある激情に飲み込まれてしまいそうだったのだ。
俯くモニカに、ポーターは淡々と告げる。
「黒い聖杯のエピソードは、東方の小国の伝承を元にしている。元々は『王家の人間の血を吸い、赤く輝く黒い宝石』という伝承だったんだ。小説にするにあたって、聖杯という形にアレンジしたがね……あぁ、どうして聖杯という形にしたと思う?」
モニカが困惑顔でぼんやりとポーターを見れば、ポーターは少しだけ口の端を持ち上げ、コーヒーポットを持ち上げてみせる。
「コレさ。ネタを考えている時に、お前の父親から貰ったこのポットが目に入ってね。真っ黒なコーヒーを湛えたポットを見ていたら、ふと黒い聖杯というアイデアが浮かんだんだ」
モニカの父が愛用していた特注の金属ポットは縦に長く、中央の結合部がくびれており、なるほど杯の形に似ていなくもない。
モニカがどれだけ調べても見つけられなかった黒い聖杯が、小説やコーヒーポットという形でモニカのそばにあったのだと思うと、なんだか皮肉だ。
モニカはカップのコーヒーを飲み干すと、ポーターを見据えて口を開く。
「……ポーターさんは、何を、どこまで、知っているんです、か?」
ポーターは、何故モニカの父が処刑されたのか、理解しているような口ぶりだった。
即ち……彼は知っているのだ。今、フェリクス・アーク・リディルを名乗っている第二王子が偽物だということに。
だが、ポーターはアイクがその第二王子であることを、知っていたのか否か?
ポーターの手元の燭台の火が、ゆらりと彼の陰鬱な顔を照らし出す。
「『全てを』と言ったら……全てを知りながら親友のために何もせず、傍観していたボクを、お前は軽蔑するか?」
ポーターの声は静かで、淡々としていたが、奥底に僅かな罪悪感が滲んでいた。
(……この人も、わたしと同じだ)
モニカはゆるゆると首を横に振る。
「……いいえ。何もできなかったのは、わたしも、です」
「『何もしなかった』と『何もできなかった』は、似て非なるものだ。当時幼かったお前と、全てを知っていた大人のボクとでは、事情が違う」
「……クロックフォード公爵の権力の前では、大人も子どもも大差ない、と思います」
ポーターは本当に何もしなかったわけではないのだろう。少なくとも彼は彼なりに動いて、親友の死の真相を探るべく情報収集をした。
だが、そこで辿り着いた真実を前に、彼はきっと、立ち尽くすことしかできなかった。
『第二王子は偽物だ。それを隠すためにクロックフォード公爵は、自分にとって都合の悪い研究をしていたヴェネディクト・レインを処刑した』
……こんな突拍子もない話を、誰が信じてくれるだろう。
「親友が死んだ原因の王子が、身分を隠してこの店を訪れた時は驚いた。あぁ、そうだ。驚いたけれども、ボクは何もしなかった。何もしなかったんだ。ただ、傍観者のままだった。きっと死ぬまで、ボクは生涯傍観者のまま、こうして己の妄想を紙に書き散らして生涯を終えるのだと、そう思っていたある日……」
眼鏡の奥の黒い目が、ひたりとモニカを見据える。
「あの偽物王子が、お前を連れてきた。親友が死んだ原因となった男が、親友の娘を連れてきたんだ。なんて悪夢だと思ったね」
その時、初めて傍観者は自らの意思で動いたのだ。
咄嗟に原稿用紙の端に、暗号めいた文字を綴って。それを、本の奥に挟み込んで。
「……ポーターさんは、すごい、です。一人で情報を集めて、推理して、ここまで辿り着くなんて……」
ポーターはギロリとモニカを睨みつけ、羽ペンの先端をモニカの眉間に突きつけた。
まるで、ナイフの切っ先でも突きつけるかのように。
「こんなのは推理でもなんでもない。証拠もなければ信念もない、ただの小説家の妄想だ。分かるか? お前は今、ボクの妄想を聞かされているんだ」
ポーターは言葉を切り、少しだけ……本当に少しだけ、眉根を寄せる。
「だから、無謀にもクロックフォード公爵に楯突こうとは思うな」
それはおそらく、不器用な彼なりの気遣いだ。
だが、隣国の皇帝と約束を交わしたモニカはもう、傍観者でいることはできない。モニカが何もしなければ、この国は帝国と戦争になるか、或いは内乱で滅茶苦茶になる。
モニカは己の眉間に突きつけられるペン先を見つめながら、口を開いた。
「わたしは……お父さんが処刑されるのを、ただ見ていることしかできませんでした」
お父さんは悪くない、という言葉は喉に貼りついて、モニカは声を上げることもできぬまま、ただ父が焼かれて息絶えるのを見ていた。父の体と一緒に燃やされる本の数字だけを、その目に焼きつけて。
「わたしに何ができるかは、分かりません……けど」
モニカは無詠唱で風の魔術を行使する。
ポーターの指の間から羽ペンがするりと抜けて、一人でに宙をクルクルと回り始めた。ギョッとするポーターに、モニカは静かに告げる。
「あの頃のわたしより、できることがあると、思うんです」
ポーターは眼鏡の奥の黒い目を見開き、羽ペンとモニカを見ている。
どうやら彼は、フェリクスの正体こそ知っていたが、親友の娘のその後までは知らなかったらしい。
モニカは宙に浮いた羽ペンを摘まみ、ぎこちなく笑ってみせた。
「だって、わたしは……〈沈黙の魔女〉だから」
慣れない強がりをしつつ、モニカは頭の片隅で考える。
あぁ、アイクは、彼を王様にするために、一人の研究者が殺された事実を知っているのだろうか?
知っているのだとしたら、その研究者の死に何を思うのだろう?
貴方を王にするために、わたしのお父さんが死んだんです、と言ったら、あの人はどんな顔をするのだろうか?
(……あの人と、話がしたい)