【13ー11】イーリスの花
小屋を後にしたブリジットは、苦々しげな顔で呟いた。
「……まさか、あの従者がとっくに死んでいたなんて」
ブリジットにとって、フェリクスをよく知る従者の少年──アイザック・ウォーカーは貴重な情報源だ。それが既に亡くなっていたという事実に彼女は焦っている。
「あの従者を味方につければ、真実に近づけると思っていたのに……」
悔しそうに呻くブリジットに、モニカは目を伏せながら訊ねた。
「……その、アイザックさんという方は、どんな方、だったん、ですか?」
「腹が立つほど有能な男よ。殿下は、それこそ兄のように懐いていて……悔しいけれどあたくしよりも、よっぽど慕われていたわ」
奥歯をギシリと軋ませて言うぐらいだから、相当悔しかったのだろう。
「正直、本物の殿下を探すにあたって、あのアイザックという従者が一番の手がかりだったのよ。あの従者は殿下のためなら何だってするような忠義者だった。殿下が偽物と入れ替わっていたら……黙っている筈がない」
ブリジットは伊達眼鏡を外し、眉間のシワを指で揉む。
「……あるいは、アイザック・ウォーカーは殿下に近すぎたからこそ、口封じのために殺害された可能性もあるわね。一緒に死んだアーサーとかいう医者は、どうだか知らないけれど」
ブリジットの呟きにモニカは肯定も否定もせず、足元に視線を落とした。
今、モニカの頭の中には一つの予想が浮上している。
……だが、それを繋げるためのピースが、まだ足りないのだ。
それから二人は、しばし無言で屋敷の周りをぐるりと一周し、外から見て不審な部屋が無いかを探した。だが、ブリジットが言うような、カーテンに閉ざされた不審な部屋は無い。
そのまま屋敷正面の庭まで戻ってきたところで、頬に泥をつけたラウルが「おーい! おーい!」とモニカ達に手を振った。
「これから執事さんと一緒に屋敷の中を見て回るからさ、一緒に行こうぜ!」
無論、モニカとブリジットに断る理由はない。二人が頷くと、ラウルは「じゃあ、これ持ってな」と切り花を詰めた籠を、モニカとブリジットに一つずつ渡した。
そうして自身も花籠を一つ持って「こっちこっち」と二人を正面玄関まで案内する。
玄関には初老の執事が待機していた。ラウルは自分より遥かに年上の執事に、気さくに話しかける。
「これから、屋敷に飾る花を選ぶんだろ? それなら、若い女の子の意見も聞いた方が良いかと思うんだ」
「……なるほど、そういうことでしたら構いません」
ラウルに対して恭しい態度を取る執事を、ブリジットは不思議そうに見ていた。使用人の中でも地位の高い執事が、何故、外部の庭師に対してこんなにも丁重な態度をとっているのか、不思議なのだろう。
繰り返すが、ラウルは魔法伯の地位を持つ七賢人である。
「では、こちらへ」
執事は扉を開けると、三人を屋敷の中へ招き入れた。
屋敷の中も外装と同じく、品良く美しい装飾でまとめられている。
緋色の絨毯はよく見ると微妙に色味の違う糸で模様を織り込んでいるし、柱のレリーフは離れて見るのと近くで見るのとで印象が変わる。そういった屋敷を構成する物の一つ一つが調和を織り成し、この空間を作り上げているのだ。
そしてこの計算され尽くされた美しい空間に見合う花を選ぶのが、ラウルの役割なのである。
花より野菜ばかり育てているラウルに、屋敷に飾る花選びなんてできるのだろうか、とモニカは失礼ながら不安に思っていたのだが、ラウルは迷いなく執事に指示を出していた。
「正面玄関は、最近交配に成功した八重咲きのバラが良いと思うな。香りが強い品種だけど、広い空間だから程よく香りが広がるし、華やかだから見栄えも良い。珍しい品種だから、客受けも良いだろうし」
「なるほど……では、こちらの部屋は」
「初夏に紫のジギタリスを飾ってた部屋だよな。なら雰囲気を変えて、柔らかい印象の花が良いと思うぜ。アプリコットカラーの花をメインに据えて、それに白のオルラヤを添えれば、だいぶ雰囲気が変わるんじゃないかな」
モニカの懸念とは裏腹に、ラウルは慣れた様子で次々と花の種類を提示していった。
モニカにはラウルが口にする単語の意味が半分も理解できなかったのだが、ブリジットが「やるわね、あの男」と小さく呟いていたから、恐らくラウルの指示は適切なのだろう。
執事は一階をぐるりと回ると、二階へ三人を案内する。
ブリジットは二階より上の階に、本物のフェリクスが幽閉されていると考えているからだろう。一際、その目が鋭くなった。
一般的に一階は客人をもてなすための部屋が多く、上の階に行くほどプライベートな空間になる。この屋敷もその例に漏れず、二階に屋敷の住人達が使う部屋が多い。
ブリジットはその部屋の配置も、概ね頭に入っているようだった。執事がとある扉の前で足を止めると、ブリジットの横顔が僅かにこわばる。
「こちらは、フェリクス殿下が幼少期に使われていた部屋です」
そう言って執事が扉を開ける。
幼少期のフェリクスが使っていたというから、モニカは子ども部屋を想像していたのだが、室内の家具はどれも大人向けサイズの物ばかりだ。
室内をぐるりと見回し、ラウルが執事に訊ねた。
「この部屋は、今も殿下が使っているんだっけ?」
「はい、たまにこちらに滞在される時に、お使いになられます」
今もたまにフェリクスが使うだけあって、室内の家具もそれに見合ったサイズの物が揃えられているのだろう。家具は比較的真新しい物が多く、幼少期のフェリクスが使っていた物は、殆ど残っていないように見える。
それでもブリジットは、どこか切なく愛しげな目で、室内の家具をじっと見つめていた。
この部屋にいる、幼き日のフェリクスの姿を思い描くかのように。
「うーん、お上品な部屋だなぁ。なぁ執事さん、前回、殿下が滞在した時に飾っていた花は?」
「イーリスでございます」
「……? イーリス?」
ラウルは執事の言葉をおうむ返しに口にした。
花の専門家であるラウルがすぐにピンとこないなんて、珍しい花だったのだろうか?
モニカがそんなことを考えていると、ブリジットがボソリと呟く。
「……アイリス」
その呟きに、執事はハッとしたような顔で訂正した。
「失礼しました、アイリスでございます。以前ここに勤めていた男が、アイリスをイーリスと呼んでいたので……つい」
「あぁ、アイリスのことかぁ! イーリスは、えーっと、なんだっけ、帝国の言い方だったか?」
ポンと手を打つラウルに、執事は気まずそうな顔で曖昧に頷く。
──その時、モニカの中で何かが繋がった。
「あ、あのっ!!」
今まで無言だったモニカが声を張り上げたことに、執事もラウルもブリジットも、驚いたような顔でモニカを凝視する。
いつもなら怯んでしまうところだが、モニカは必死だった。
「その、以前勤めていた方って、もしかして……アー……」
「失礼する」
その時、モニカの言葉を遮るように扉が開いた。
扉の方を振り向いたモニカは思わず息を飲む。モニカだけではない、ブリジットもだ。
そこに佇んでいるのは、この屋敷の主人。クロックフォード公爵、ダライアス・ナイトレイだった。
* * *
ただそこにいるだけで、人の目を惹きつける圧倒的な存在感。
ただ一言で、些細な一挙一動で、場の人間を従わせ、動かす支配力。
そういった、ごく僅かな人間だけが持つカリスマとでも呼ぶべき力を、クロックフォード公爵はその全身から滲ませていた。ルーツを辿れば、この人物もまた王族の血を引く人間なのだ。
思えば、フェリクスがたまに見せる威圧感や人を従わせる技術も、クロックフォード公爵から学んだのだろう。
突然のクロックフォード公爵の登場に、モニカもブリジットも凍りついていた。多忙なクロックフォード公爵が、屋敷にいるとは思っていなかったのだ。
だが、ラウルはモニカ達にするのと変わらぬ快活さで、クロックフォード公爵に笑いかけた。
「やぁ、閣下。こんにちは。わざわざ顔を出しに来てくれたんですか?」
「貴公に挨拶をと思ってな」
その言葉にブリジットがギョッと目を剥いてラウルを凝視した。当然だ。この国一番の権力者がただの庭師に挨拶をしにくるなんて、本来ならあり得ない。
ラウルはいつもよりは幾らか丁寧な口調だったが、それでもかしこまってはいない。それもまた、ブリジットを驚かせる一因なのだろう。
「今年の花は気に入って貰えましたか? 閣下に『この国で新しく品種開発された物が望ましい』って言われたんで、そういうのを多めに植えてみたんですけど」
「あぁ、この国の技術と財力を象徴する花がいい」
花の品種改良には莫大な金と時間がかかる。新種の花は、それだけで一つの財産だ。
だからこそクロックフォード公爵は、国内で品種改良に成功した花を庭園に埋め尽くすことで、その権力を誇示したいのだろう。
クロックフォード公爵は、己の権力を誇示するためなら、金も手間も惜しまない。
権力を誇示することで己の自尊心を満たすのは三流貴族なのだということを、モニカはセレンディア学園で学んでいる。
一流の貴族にとって、権力を誇示するという行為は、己の家の格や品位を保つための手段にすぎないのだ。
「……ところで、そこの二人は?」
そう言ってクロックフォード公爵は、モニカとブリジットに目を向ける。
モニカはゴクリと唾を飲んだ。クロックフォード公爵とは、新年の儀の後、一対一で対話をしたばかりだ。あの時のモニカは顔を隠してはいたけれど、最後に一言だけ言葉を発している。
わたしが貴方に望むものは、何もありません……と。
(へ、下手に声を発したら、正体がバレるかもしれない……っ!)
チラリと横目でブリジットを見れば、彼女もまた強張った顔をしていた。恐らくブリジットは、モニカ以上にクロックフォード公爵と顔を合わせた回数が多いのだろう。
モニカとブリジットが黙り込んでいると、ラウルが助け舟を出してくれた。
「この二人は、オレの家の者ですよ」
「……不必要に使用人を屋敷に入れることは、控えよと言ったはずだが」
クロックフォード公爵がジロリとモニカ達を睨む。
その視線には、相手の心臓を冷ややかな手で握り潰そうとするかのような、威圧感があった。
だがラウルは特に気にした様子もなく、あっけらかんと言う。
「二人はオレの弟子でもあるんで、屋敷に花を飾るための勉強をさせてやりたかったんです。このお屋敷ほど、花を飾りがいのある屋敷もそうそう無いので」
「……ふん、見習いには過ぎた教材だ」
「いやぁ、教育には一流の教材を使えっていうのが、オレんちの家訓なので!」
嘘か本当か分かりづらい軽口を叩いてラウルがカラカラと笑えば、クロックフォード公爵の威圧感も少しだけ和らいだ。
「……なるほど、この国最高峰の魔術師である貴公が言うと説得力があるな……〈茨の魔女〉殿」
ブリジットが絶句するのを見て、モニカはこの後の言い訳をどうするかに頭を悩ませた。
* * *
作業を全て終えて屋敷を後にすると、ラウルはローズバーグ家の馬車でモニカ達を宿まで送ってくれた。
本来使用人は道具を乗せた荷馬車に乗るのだが、モニカとブリジットだけ特別扱いである。
馬車の中で、ラウルはニコニコしながらモニカに訊ねた。
「何か役に立ちそうな情報はあったかい?」
「……はい」
モニカがハッキリと答えれば、ラウルは満足げに頷き、モニカの肩を気さくに叩く。
「また、手助けが必要になったら言ってくれよな! オレ達友達だろ!」
「あ、ありがとう、ござい、ます」
ラウルの大きい声に、モニカはビクビクしながらブリジットを見た。
モニカが〈茨の魔女〉と友達、という事実にブリジットは何かしら反応を見せるかと思ったが、彼女は何も言わずに、俯いて足元を睨みつけている。
やがて馬車を降りて、宿の部屋に戻っても、ブリジットは黙ったままだった。
無言で口に含んでいた綿を吐き出し、顔のドーランを布で拭う。
「……あの、ブリジット、様」
屋敷の中を見て回ったけれど、本物のフェリクスが幽閉されているらしき部屋は無かった。それは、ラウルと共に殆どの部屋を見て回ったから間違いない。
少なくとも、公爵邸にブリジットの求めている王子様はいなかったのだ。
そして、モニカはそのことについて、一つの確信を抱いていた。
「……本物の、フェリクス殿下は…………もう」
「言わないで」
モニカの言葉を遮り、ブリジットは顔を拭った布に顔を埋める。
「……薄々、分かっては、いたのよ」
賢いブリジットは、きっと今のフェリクスが偽物だと感じた瞬間に、最悪の予想をしていたのだろう。
即ち──本物のフェリクス・アーク・リディルは、もう死んでいて、だからこそ影武者と入れ替わる必要があったのだと。
「……それでも、あたくしは自分の手で、足で、真実を確かめたかった」
ブリジットはしばし顔を覆っていたが、やがてグイグイと乱暴に顔を拭うと、ピンで留めていた金髪をバサリと広げ、いつもの彼女らしい態度で言った。
「協力感謝します、モニカ・ノートン。お前の謎の人脈については色々と問い詰めたいところですが、今は不問にしましょう」
「お、恐れ入ります……」
「ことの真相について、あたくしがこれ以上触れるのは難しいことは承知しているわ。それでも、今は次の手を考えることとします……たとえ、殿下がもういないとしても。あたくしは真実を知りたい」
強い人だ、と思う。
残酷な現実を突きつけられても尚、彼女は歩みを止めず、真実を掴もうとしている。
(……それでも、わたしは……ブリジット様に、全てを話すことはできない)
モニカは一度だけ拳を握りしめ、硬い声でブリジットに訊ねた。
「ブリジット様は、外国の言葉にも、お詳しい、です、よね」
「それが何か?」
「…………アーサーという名前を、帝国の言葉にすると…………何て言うか、ご存知ですか?」
ブリジットは少しだけ訝しげに眉を寄せ、短く答えた。
「アルトゥール」
モニカはその名を、学祭の時に耳にしている。
『ユアン、例の件は確認できたのですか?』
『えぇ、蜘蛛を取るフリをして、至近距離で確認したから間違いないわ。あれは裏切り者のアルトゥールの仕事よ……あの方の読みは正しかった』
(……繋がった)
モニカは震えそうになる手を握りしめ、硬い声でブリジットに言った。
「ブリジット様。学園に戻る前に、寄りたいところが、あります」
「あたくしに協力した報酬代わりに、どこへでも連れて行きましょう。それで、どこに行きたいの?」
モニカはしばし考えた後に、口を開く。
「……王都に」




