【13ー6】音楽馬鹿、数学馬鹿、チェス馬鹿(と常識人)の恋愛談議
白と黒の二色に彩られた盤面を無表情に見下ろし、モニカは黒のナイトをコトリと動かす。
盤を挟んで反対側に座るのは、精悍な顔の黒髪の青年、ロベルト・ヴィンケル。
ロベルトが白のクイーンを動かしたところで、モニカは間髪入れず黒のビショップを動かした。
「チェックメイト、です」
「……負けました」
ロベルトが頭を下げた瞬間、無表情だったモニカは眉を下げ、いつもの頼りなさげな顔に戻る。
チェスは悩みや不安を一時的に忘れられるのがいい。特にロベルトは、この教室で唯一モニカに匹敵する実力者なので、なおのことチェスに没頭することができた。
婚約云々の話は困りものだが、ロベルトとのチェスはモニカだって嫌いではないのだ。
ロベルトは盤面の駒を真剣に見つめ、今の勝負について振り返っている。
「今回は自分の詰めが甘かったです。新しい手を思いついたので、試してみたのですが……フォルテを利かせすぎて、カンタービレには程遠かった」
「……はい?」
「もっと、緩やかなクレッシェンドにするべきでした」
「……えっと?」
何故、唐突に音楽用語が飛び出したのか。
モニカの疑問を察したのか、ロベルトはどこか誇らしげに言った。
「自分の言葉には音楽的優雅さが足りないと、モールディング先輩に御指南いただきました。なので、モールディング先輩を見習って実践してみた次第です」
モニカはぎこちなく首を動かして、この勝負を見学していたエリオットとベンジャミンを見た。
どこか遠い目をしているエリオットの横で、ベンジャミンは腕組みをしてうんうんと頷いている。
「女性を口説くのに、ヴィンケル君の言い回しはあまりに硬すぎる。女性を口説く時は、もっと音楽的で優美でなくてはならないのだよ。分かるかね?」
「す、すみません、ちょっとよく分からないです……」
申し訳なさそうに謝るモニカに、エリオットが頬杖をつきながら半目で言った。
「安心しろよ、ノートン嬢。俺もよく分からん」
「恋愛において重要なのは、華やかさと優美さ! 即ち、ブリッランテ! グラツィオーソ! 貴婦人の心を震わせる旋律を奏でるためには、感性が必要なのだよ!」
ベンジャミンが亜麻色の髪を振り乱して熱弁を振るえば、ロベルトはどこからともなく手帳を取り出し、ベンジャミンの言葉をそのまま書き記した。真面目である。
正直、ベンジャミンの言うことがモニカにはこれっぽっちも理解できなかったのだが、恋愛という言葉に、モニカはブリジットを思い出した。
ブリジットは幼い頃のフェリクスを愛していたと言う。
ただ、会いたいと……辛そうな顔で。
常に凛と気高い淑女であるブリジットがそんな顔を見せたことが、モニカには結構な衝撃だった。
あの時のブリジットの悲しそうな横顔が、モニカは忘れられない。
「……恋愛って、楽しそうに、見えない、です」
モニカがポツリと呟いた瞬間、エリオットとベンジャミンが同時に顔を上げてモニカを凝視した。モニカが恋愛なんて言葉を口にするのが、余程珍しかったのだろう。
「ははぁん、なるほどねぇ……」
エリオットが何故か訳知り顔でニンマリと笑い、ベンジャミンが髪をかき上げて言った。
「無論、恋愛は華やかかつ優美に、音楽的に楽しまなくてはならないというのが私の持論だが、時に切なく胸を焦がす恋情も、他者を妬ましく思う嫉妬心も、運命に分かたれた悲恋も! あぁ、恋しい人に抱く劣情に葛藤する心すらも! 全てが醜くも美しいものなのだよ、分かるかねノートン嬢!」
「……えっと、つまり、恋愛って、醜いんですか? 美しいんですか?」
「醜くも美しい! この二つは両立しうるのだよ!」
「ちょ、ちょっと、よく、分からないです……数式で言ってください……」
物事をいちいち音楽に例えようとするベンジャミンと、数式で理解しようとするモニカの間には、深い断絶があった。この溝が埋まることはおそらく、きっと、一生ない。
モニカがグルグルと目を回しながら頭を抱えていると、エリオットが垂れ目を更に垂れさせて、意地の悪い顔でモニカを見た。
「ノートン嬢も、遂にそういうことを意識するようになったか……まぁ、学祭の頃からな、そうじゃないかと思ってたんだよ、俺は」
「……え? いえ、あの、わたしの話じゃなくて……」
「俺は身分違いの恋なんて、ろくなもんじゃないと思うがね。貴族ならそれに相応しい妻を娶るべきだ」
「は、はぁ」
身分違いの恋とは何の話だろう? とモニカは首を捻った。
エリオットは、学祭の頃から……などと言うが、モニカには学祭の時にそれらしい出来事に遭遇した記憶がない。
困惑するモニカに、エリオットはやっぱり訳知り顔で言う。
「身分の垣根を軽率に越える奴は、大抵ろくな目に遭わないんだ。世の物語だって、大抵が悲劇だろう?」
「エリオット! 君のそういう頭の硬い考えが、身分違いの恋という悲劇を生み出すのだよ! あぁ、だが、この身分の壁があるからこそ悲劇が美しいのもまた事実っ! 悲劇は本人達が望まずとも美しい音楽を生み出してしまうから、なんと罪なのかッ!」
ベンジャミンはエリオットに向かって唾を飛ばして力説し、最終的に自分の言葉に苦悶の表情を浮かべて天井を仰ぐ。
エリオットが肩を竦め、モニカにシニカルな笑みを向けた。
「……まぁ、ノートン嬢は一応、ケルベック伯爵家、前伯爵夫人の養女なんだろう。それなら、相応の教養を身につければ可能性として無くはないんじゃないか………………あいつも養子な訳だし」
あいつって誰だろう? とモニカがますます混乱していると、ベンジャミンがクワッと目を見開いてエリオットを凝視する。
「驚いた。随分と頭が柔らかくなったじゃないか、エリオット。以前はあんなにも身分に固執していたというのに」
「……別に。元庶民同士お似合いだと思っただけさ」
モニカは思った。一体、誰の話をしているのだろう……と。
「ごめんなさい……やっぱり、恋愛って、わたしには、よく分からないです……」
モニカがボソリと呟けば、今まで黙々とベンジャミンの言葉を書き記していたロベルトが、手帳から顔を上げた。
「大丈夫です、モニカ嬢。自分も恋愛面においては初心者。だからこそ、成長の余地があると考えています」
「は、はぁ」
「恋愛とはチェスと同じで高度な駆け引きであると、自分は学びました。自分はチェスの駆け引きなら得意分野。ならば、恋愛の駆け引きも同様に習得できると考えています。恋愛初心者同士、共に精進していきましょう」
なるほど理にかなっているような、いないような……と、モニカは頭を抱える。
物事をすぐに音楽で考えるベンジャミン、数学で考えるモニカ、チェスで考えるロベルト。
この三者の間には、やはり深い断絶があるのだが、モニカはそのことに気付いていない。
(結局、恋愛って何なんだろう……もう、生殖活動の過程の一つ、みたいな感じでいいのかな……あぁ、でも恋愛が無くても生物は生殖活動ができるわけだし……あれ、もしかして、恋愛って種の存続に必要無い……?)
モニカがうんうん唸っていると、頭上から低い声が響いた。
「……授業中は、私語厳禁」
見上げれば、歴戦の傭兵のように厳つい顔のボイド教諭がこちらを見ている。
四人はすみません、と声を揃えて謝罪し、そそくさとチェスの駒を並べ直した。