【13ー4】初恋の王子様
ブリジットがモニカを連れてきたのは、セレンディア学園で最も格式の高い個室のティールームだった。
ティーテーブルの上には既に食器が一通り揃えられているから、ブリジットは事前にこの部屋を用意していたのだろう……つまり、モニカを逃すつもりなど無かったというわけだ。
室内にはブリジット付きのメイドが控えていたが、二人分の紅茶をカップに注ぐと、あとは何も言わずに退室した。これで室内には二人きりだ。
「まずは紅茶を召し上がれ。フロウレンディアの初摘みよ」
「あの、ブリジット様が知りたがってる『殿下の秘密』って、なんですか。わたしに、何を手伝わせたいん、ですかっ」
モニカが率直に切り出せば、ブリジットは紅茶を一口飲んで、溜息を吐いた。
「前置きもなく本題を切り出すのは、無粋な殿方が好むやり方ね。品が無いこと」
そう言ってブリジットは花瓶に活けられた花に目を向ける。つられてモニカも花に目を向けた。
活けられているのは黄色い薔薇。レースのように繊細な花弁の薔薇は、この季節簡単に手に入る物ではないだろう。
活けられた花一つで、茶会の主のセンスと財力が問われることを、モニカはこの半年で学んでいた。
「茶会らしく花と茶器を愛でて、紅茶を楽しみながら、あたくしの話に付き合いなさい」
「…………」
婉曲な言い回しや、探り合いの苦手なモニカとしては、早く本題に入ってほしいのだが、ブリジットは何か思うところがあるらしい。
モニカが黙って紅茶に口をつけると、ブリジットは淡く微笑み口を開いた。
「お前は、フェリクス殿下のことをどう思っていて?」
「……へっ?」
唐突な質問にモニカは間の抜けた声を漏らす。
少し前までのモニカだったら「顔と体が黄金比ですごいなぁと思います」と答えていただろう。
だが、今のモニカはフェリクスに対して思うことが多すぎて、上手く言葉にできなかった。
「……正直、よく分からない、です」
フェリクスは上辺だけを見れば、人当たりが良く誰からも慕われている有能な王子様だ。
だが、彼がクロックフォード公爵の傀儡であることを、知っている人は皆知っている。
更にモニカは彼が「アイク」と名乗って、こっそり夜遊びしていたことや、〈沈黙の魔女〉の大ファンであるということも知っている。
……あまりにも色んな面が多すぎて、どれが本当の彼なのか、モニカには分からないのだ。
モニカの曖昧な答えに、ブリジットは「そう」と短く呟き、手元のカップに視線を落とす。
「勉強も運動も得意で、人望も厚く、話術も得意で人の心を掴むのが上手い完璧な王子様……と、お前がそう口にしていたら、この話はここで終わりにしていたし、あたくしがお前に協力を請うこともなかったでしょうね」
「……え?」
キョトンとした顔でブリジットを見れば、彼女は一度瞼を閉ざし、そしてゆっくりと開いた。
「病弱で、泣き虫で、勉強も運動も苦手で、何をやっても平均以下。なにより人前で話すことが大の苦手な人見知り」
それはもしかして、自分のことを言っているのだろうか……そう身構えるモニカに、ブリジットは言う。
「……それが、あたくしの知る、フェリクス殿下よ」
一瞬、言われた言葉の意味を理解できなかった。
フェリクスが何をやっても平均以下? 人前で話すことが苦手?
困惑を隠せないモニカに、ブリジットは少しだけ遠い目をして語り始めた。
「あたくしが殿下と初めてお会いしたのは、七歳の時。初対面の印象は『なんて頼りなくて、みっともないのかしら』の一言に尽きたわ。挨拶もろくにできない。こちらとは目も合わせられない。すぐに俯いてもじもじするばかり」
ブリジットの話は、聞けば聞くほどモニカの話のようだった。
とてもフェリクスについて話しているとは思えない。
「勉強も運動も人一倍努力していた。それでも人並みには届かなくて『王族なのに、期待に応えられなくてごめんなさい』と、メソメソ泣いていたわ。本当に、臆病で弱虫でカッコ悪くて…………それでも……誰よりも優しかった」
最後の一言を口にした時、ブリジットの完璧な美貌がほんの少しだけ切なげに綻んだ。
その顔を見れば、彼女がフェリクスに対してどんな想いを抱いていたのかは、容易に想像できる。
「きっとこの人は国王にはなれないだろうと、誰もが思っていた。あたくしも、そう思っていた。それでも……添い遂げるならこの人が良いと、思ったわ」
初恋だったのよ、と小さく呟く声は、どこか寂しげだった。
常に完璧な令嬢が、己の感情を吐露する姿に、モニカは言葉を失う。
まして、恋心を理解できないモニカには、どういう言葉をかければ良いのかすら分からない。
「……あたくしは殿下に会える日を楽しみにしていたのよ。でも、今から十年前、殿下は大きな病を患って……一年以上会えない日が続いたわ」
ブリジットが言うには、幼少期のフェリクスは体の弱い少年だったらしい。病弱で、季節の変わり目になるとすぐに熱を出したのだとか。
だからこそ、フェリクスが大きな病を患ったと聞いたブリジットは酷く心配した。
見舞いすら許されず、不安な気持ちで一年以上の時を過ごし……。
「ようやく殿下の病が完治して、会いに行ったら……あの人は別人のように変わっていたわ」
* * *
フェリクスはいつだって、ブリジットを前にすると恥ずかしそうに俯く少年だった。
それなのに、再会した少年は、流れるような仕草でブリジットの手の甲に口づけを落とし、こう言った。
『久しぶり。キミに会えて嬉しいよ、ブリジット。一年前より、ずっと綺麗になったね』
初恋の少年にそんなことを言われたら、大抵の少女なら心ときめかせていただろう。
だが、それよりもブリジットは強烈な違和感を覚えた。
目の前にいる少年は、確かにフェリクス・アーク・リディルだ。一年以上会っていなかった彼は背が伸びていたけれど、その顔を見間違える筈がない。
それなのに、ブリジットは酷い違和感と気味の悪さに、吐き気すら覚えた。
──お前は誰です。
そんな言葉が頭をよぎった。だが、ここはクロックフォード公爵邸だ。まして、いくら親しくとも相手は王族。こんな不躾な発言、許される筈がない。
ブリジットは違和感に目を瞑り、今まで通りにフェリクスに接した。
久しぶりに会ったフェリクスは、勉強も運動も容易くこなせるようになっていた。
あんなに下手だったダンスも難なく女性をリードできるし、作法もエスコートも完璧だ。
その振る舞いは堂々としていて、誰もが次期国王に相応しい王子だと口を揃えて言う。
それなのに、ブリジットはフェリクスを受け入れることができなかった。
──違う、違う、違う、あれはあたくしの殿下じゃない!
元より母親譲りの容姿は際立って美しかったから、社交界の貴婦人達もたちまち彼に夢中になった。
自分を取り囲む貴婦人達に、フェリクスは甘い笑顔で美辞麗句を垂れ流す。
更には十代前半で外交デビューを果たし、フェリクスは周囲に注目されるようになった。
この頃からだ。国内貴族が第一王子派と第二王子派に分かれ始めたのは。
* * *
「あたくしの知る殿下は、それはもう内気で人見知りで、女の子とまともに会話もできない頼りない王子だったわ」
ブリジットの語る「昔の殿下像」は、とても褒めているとは思えない。
それなのに、昔のフェリクスを語るブリジットの声は、好きな人のことを語る少女らしく、ほんの少しだけ弾んでいるのだ。
しかし、一転してブリジットの声のトーンが落ちる。
「……それがいつのまにか、あんな中身のないスッカスカのポエムを素面で垂れ流す軽薄で浮ついた男になって……あたくしが、あの甘ったるい美辞麗句を聞くたびに、どれだけ鳥肌に耐えてきたと思って?」
ブリジットの手の中で、繊細な扇子がギシギシと音を立てて軋んだ。怖い。
モニカは恐る恐る口を挟む。
「え、えっと……それじゃあ、ブリジット様が知りたがっている『殿下の秘密』って……」
「あたくしは、今、この学園で生徒会長を務め、フェリクス・アーク・リディルを名乗っている男が、影武者だと考えています」
ずばりと言い切ったブリジットに、モニカは彼女がこのことを誰にも相談できなかった理由を悟った。
フェリクスが偽物だなんて、公の場で追及できる筈がない。不敬罪で処刑されても文句を言えない、そんなレベルの発言だ。
慄くモニカに、ブリジットは低い声で告げる。
「あたくしは、本物の殿下に会いたいのよ」
今この学園にいるフェリクスが偽物だなんて、あまりにも突拍子もない発言だ。そんな主張をしたところで、誰も信じたりしないだろう。
だが、モニカは知っているのだ。フェリクスに裏の顔があることを。何かを隠していることを。
何より彼が土の精霊王由来のミドルネームを持ちながら、得意属性が水であることに、モニカはずっと違和感を抱いていたのだ。
(……あの人が、影武者?)
荒唐無稽な話だと笑い飛ばすことがモニカにはできなかった。
歓楽街で「アイク」の言った言葉が、モニカの頭をよぎる。
──私は、王にならなくてはいけないんだ。
あの言葉の真意は、なんだったのだろう。もし、アイクが影武者なのだとしたら……どういう気持ちで、彼はその言葉を口にしたのだろう。
バクバクとうるさい心臓を服の上から押さえ、モニカは掠れ声で言った。
「……もし、あの人が影武者なら……本物の殿下は、どこにいると、お考え、ですか?」
「本物の殿下は体が弱かったから、今もクロックフォード公爵邸でこっそり療養しているのだと、あたくしは考えているわ」
クロックフォード公爵邸。それは、一ヶ月後にモニカが潜入する予定の屋敷だ。
もし、本当にクロックフォード公爵邸に本物の第二王子がいるとしたら……ブリジットの言葉が真実だとしたら、それを暴いた時、アイクはどうなるのだろう。
「……ブリジット様は、もし、私達の知る殿下が偽物だった場合……それを、公に、したいんです、か?」
「そうしたら、殿下の評価は地に堕ちるでしょうね」
そう、ブリジットの言う通り、フェリクス・アーク・リディルは社交界での立場を失うだろう。
最悪の場合、アイク共々、王家の人間を騙した罪に問われかねない。
ブリジットもそのことは理解しているようだった。
「あたくしは、真実を公にして糾弾したい訳じゃない……ただ、あたくしの殿下に、会いたいだけよ」
モニカは自問自答した。
自分はどうするべきか……そして、どうしたいのか。
アイクの抱える秘密を暴くことは、きっとアイクのためにならないのだろう。彼はきっと、モニカが真実を知ることを望まない。
(……それでも、わたしは、知りたい)
モニカのことを夜遊び仲間だと言って楽しそうに笑っていた彼が、たまに寂しそうな、何かを諦めたような顔を見せる理由を。
(……あの人のことを、知りたい)
誰かに対して、こんなふうに思ったことは、きっと初めてだ。
そして、自ら一歩踏み出すことも。
「ブリジット様、わたし……」
モニカが口を開いたその時、茶室の扉がノックされ、ブリジットの侍女の焦ったような声が聞こえた。
「お嬢様、申し訳ありません。フェリクス殿下が…………あっ」
侍女が全てを言い終えるより早く、扉が開いた。
廊下の冷たい空気がティールームにさぁっと流れ込み、部屋の温度を僅かに下げる。
「やぁ、二人とも。私もお茶会に混ぜてくれないかい?」
そこに佇んでいるのは、美しく微笑む渦中の人物。
フェリクス・アーク・リディルだった。