【12ー17】面影
水の精霊ウィルディアヌは困惑していた。ようやく森まで辿り着いたのだが、森は深い霧に包まれている。
しかもただの霧ではない。おそらく魔術によって生みだされた、魔力をたっぷりと含んだ霧だ。
この霧の持つ魔力がウィルディアヌの感知能力を鈍らせていた。これでは、どこで魔法戦が行われているのかが感知できない。
(……とにかく、急いでヒューバード・ディーを討たねば)
人型に化けた方が移動しやすいが、万が一誰かに目撃されたら目も当てられない。ウィルディアヌはトカゲの姿のまま森を移動した。
今回の命令は、彼の主人のほんの気まぐれだ。本来の目的とは、かけ離れたところにある。
それでも、彼の主人はモニカ・ノートンという少女を助けたいのだろう。
(あの方はモニカ・ノートン嬢を気に入っている……やはり、似ているからだろうか)
そんな考えがちらりと頭を過ぎるが、ウィルディアヌはそれ以上考えることをやめた。
契約精霊如きが主人の心に土足で踏み入って良い筈がないからだ。
やがて霧が薄くなってきた頃、ウィルディアヌは前方に二人の人影を見つけた。彼はトカゲの姿のまま木に張り付き、動きを止めて様子を窺う。
(……あれは)
ウィルディアヌが見つけた二人の内の一人は、この魔法戦の結界維持を担当している、実践魔術の教師マクレガンだ。
マクレガンは寒そうに腕を擦って歩きながら、もう一人の人物に話しかけている。
「ヒューバード・ディー君はね、魔術の腕も良いけど、それ以上に魔導具職人の才能があったのよネ。ただ、本人はその才能に無頓着で『狩り』に使える物騒な魔導具ばーっかり開発しちゃうのよ。そりゃもう、困った不良君でネ…………まぁ、どっかの誰かさんほどじゃないけど」
「はっはっは、若い頃というのは、血の気が多いものですからねぇ」
白い歯を見せて爽やかに笑うのは七賢人が一人〈結界の魔術師〉ルイス・ミラー。
今回の魔法戦の結界補強にあたり、マクレガンは助っ人を呼ぶと言っていたが、どうやらその助っ人というのがルイスだったらしい。
七賢人とはなんとも豪華な助っ人であるが、今回の魔法戦には彼の弟子のグレン・ダドリーが参加しているのだから、とりわけ驚くようなことではない。
真に驚くべきは、その後にマクレガンが発した言葉だった。
「それで、この魔法戦、どう始末をつけるの? 〈沈黙の魔女〉の一人勝ちなんて、公にできないデショ?」
「ヒューバード・ディーが魔導具を暴走させて自滅。勝負は引き分けということに、しておいてもらえますかな?」
(……〈沈黙の魔女〉が、この魔法戦に介入している!?)
それはウィルディアヌの主人が、心から敬っている魔術師ではないか。
彼の主人はここ最近、この〈沈黙の魔女〉探しに夢中だ。時間を見つけては、左手を負傷した女子がいないかを調べている。
フェリクスはきっと彼女を見つけだして、何かがしたいというわけでもないのだろう。ただ、会いたいのだ。素顔の彼女に。憧れてやまない強くて美しい魔女に。
ウィルディアヌは契約精霊として、主人のその願いを叶えたかった。だから、スルスルと木から地面に下りて、ルイスとマクレガンの後を追う。
「エヴァレット君を見かけた時は、まぁまぁビックリしたのヨ? きっと任務だろうと思って、適当に知らんぷりしたけど」
「ご配慮ありがとうございます。マクレガン先生」
「それにしても相変わらずとんでもないネ、彼女。あの高度追尾術式、早く論文にして提出して貰わなきゃ……魔導具の書き換えも、すごかったネ……あれ、やられた側はプライド折れるよネ」
「私も以前、防御結界を書き換えられましたよ。それも、かなり気合入れて作ったダミー術式をあっさり看破されました」
「プライド折れた?」
「はっはっは。もしこの先、国内で結界の書き換え事件が発生したら、迷わず〈沈黙の魔女〉殿を疑おうと心に決めましたね。えぇ」
どうやら、この二人は〈沈黙の魔女〉が学園内にいることを把握しているらしい。
このまま〈沈黙の魔女〉の正体について、口を滑らせてくれないだろうか、とウィルディアヌが様子を伺っていると、ルイスが足を止めて辺りを見回した。
ルイス達が探しているのは、恐らく魔法戦の参加者達だ。魔法戦が終わったので、参加者達を回収にきたのだろう。
「……なかなか見当たりませんねぇ。まったく、このクソ寒いのに大人の手を煩わせるとは、困った若者達です。どれ、感知術式で探してみますか」
ルイスの言葉にウィルディアヌは大慌てで、その場を離れた。
もしルイスが感知術式を発動したら、魔力の塊である高位精霊のウィルディアヌは感知に引っかかってしまう。
(……できることなら〈沈黙の魔女〉の姿を確認したかったのですが……恐らく、もう森を出ている可能性が高い)
とりあえず、モニカ・ノートンを賭けた決闘は引き分けという形で決着が着いたのだ。今更ウィルディアヌがヒューバードと戦う理由も無い。
今はフェリクスの元に戻って、〈沈黙の魔女〉が暗躍していたことを報告しなくては。
* * *
ヒューバードを沈黙させたモニカは、地に倒れているシリル達を暖かい場所に運んでやりたい気持ちをグッと堪え、大急ぎで森を出た。
魔法戦が終わった以上、現場の確認に誰かしらがやってくる筈だ。それに、観客席を離れてだいぶ時間が経っている。あまり戻るのが遅くなっては、ラナ達が不審に思うだろう。
来た時と同じように、不慣れな飛行魔術を使って観戦会場付近まで戻ったモニカは、術を解除したところで大きくよろめいた。
いつもなら、魔術を使う際に魔力の消費量を抑える術式を組み込むところだが、今回のモニカはそれができないほど精神的に追い詰められていた。
まして、霧を発生させる魔術や飛行魔術などは、一定時間魔力を放出し続けなくてはならないので、節制術式の有無に関わらず、どうしても魔力の消費量が多くなる。
魔力不足に加え、連日の睡眠不足と栄養不足、精神的疲労が重なり、モニカの体は限界寸前だった。
(……観客席、戻ら、ないと……ラナが、心配、して……)
重い足を動かして数歩進んだところで、モニカはベシャリと地面に崩れ落ちた。
(……だめ、このままじゃ、また、迷惑かけちゃう……)
起きなくては、という意思に反して、意識はどんどん闇に沈んでいく。もう、目を開けていることすらかなわない。
「モニカ」
誰かの腕が、棒切れみたいに痩せ細ったモニカの体を抱き上げる。
(あぁ……また、わたしは、誰かに迷惑をかけたんだ……)
ポロリと溢れた涙の滴で頬を濡らし、モニカは水気を失った唇で呟いた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……迷惑かけて、ごめんなさい……」
* * *
フェリクスが抱き上げたモニカの体はゾッとするほど冷たく、頬はこけ、唇はカサカサに乾いていた。
モニカの体を抱き上げたことは以前にもあるけれど、明らかに前以上に軽くなっている。ヒューバード・ディーが起こした騒動のせいで、ろくに食事も睡眠もとっていなかったのだろう。
フェリクスが医務室に向かって歩きだすと、モニカの口が小さく動いた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……迷惑かけて、ごめんなさい……」
どうやら彼女は、夢の中でも誰かに謝り続けているらしい。きっと、この少女の口癖なのだろう。
モニカは周りがそれほど気にしていないような些細なことでも、まるで途方もない大失敗をしてしまったかのように、必死になって謝罪する。
(……気にしなくて良いのに)
微かに瞼を伏せれば、幼い頃の記憶が頭をよぎった。
『……ごめんなさい、ごめんなさい、いつも迷惑かけてごめんなさい…………アイク』
そう言って、記憶の中の友人はいつも泣いていた。澄んだ水色の目からボロボロと涙を零して。みっともなくしゃくりあげて。
今、己の腕の中にいる少女が、幼い友人の面影と重なる。
泣き虫で、臆病で、自分に自信が無くて、すぐに自分を責めて……それなのに、大事なところで彼を頼ってくれない。
「……本当は、もっと頼って欲しかったのに」
誰にも聞こえぬほど小さく呟き、フェリクスは医務室の扉を開ける。医務室には誰もいなかった。職員は魔法戦の現場に向かっているのだろう。
フェリクスはベッドにモニカを横たえると、パサついている薄茶の髪を指先で梳いた。
彼は自分がモニカに執着する理由を、薄々理解していた。
自分はどうしても重ねてしまうのだ。モニカを、かつての友人に。
そう確信したのは、ポーター古書店。欲しがっていた本を買い与えた時のモニカの表情が、全身で嬉しいと喜ぶ姿が、幼い友人の姿に重なった。
……あの時の彼は、大事な友人を喜ばせることができたなら、自分はどんな目に遭ったって構わなかったのだ。
フェリクスは碧い目を陰らせ、小さく溜息を吐く。少し感傷的になりすぎているという自覚はあった。
フェリクスはモニカの青白い肌を指先でつついて、拗ねたような声で呟く。
「……君が僕を頼ってくれないから、いけないんだ」
モニカはいつだってフェリクスを頼ってくれない。何も望んでくれない。挙げ句の果てには「迷惑をかけてごめんなさい」なんて言う。
だから、モニカの言動はいつだって、フェリクスが胸の奥に隠している感情を揺さぶるのだ。
しばしモニカの頬をフニフニつついていると、足元から「殿下」という声が聞こえた。彼の契約精霊のウィルディアヌだ。
「やぁ、ご苦労様、ウィル。ヒューバード・ディーは始末できたかい?」
「……もうしわけありません。わたくしが到着した時には既に……〈沈黙の魔女〉様が、ヒューバード・ディーを倒した後でした」
「……レディ・エヴァレットが?」
予想外の名前に、フェリクスは驚き目を丸くした。
ウィルディアヌの報告によると、魔法戦に乱入した〈沈黙の魔女〉がヒューバード・ディーを内密に倒したのだという。
ウィルディアヌはその現場を目撃したわけではないが、マクレガン教諭とルイス・ミラーがそう話していたらしい。
ルイス・ミラーが〈沈黙の魔女〉と繋がっていることは薄々察していたが、マクレガンは予想外だった。
できれば問い詰めたいところだが、とぼけるのが上手いあの老教師は、決して口を割ったりはしないだろう。
(……やはり、学園内にレディ・エヴァレットがいるのは間違いない)
左手を負傷した小柄な女子生徒について密かに調査しているが、今のところめぼしい情報はない。
この学園に通う令嬢付きの使用人に成り済ましているのではないか、というのがフェリクスの予想だが、そうなってくると、一気に調査の難易度が上がるのだ。令嬢本人はともかく、その使用人の情報までは、流石の生徒会でも把握しきれない。
フェリクスがそんなことを考えていると、ウィルディアヌがスルスルとフェリクスの足をよじ登り、定位置のポケットに収まりながら言った。
「しかし、〈沈黙の魔女〉様は何故この魔法戦に介入したのでしょう?」
確かに〈沈黙の魔女〉が何らかの事情で正体を隠しているのなら、何故、正体がバレる危険のある魔法戦に乱入したのか。
思案するフェリクスはベッドで眠るモニカを見て、何かに気づいたようにハッと目を見開く。
「……もしかして、私がこの子を気にかけていると知って……陰ながら、手助けを?」
今まさに、目の前で眠る少女が〈沈黙の魔女〉張本人だなんて、フェリクスはこれっぽっちも考えたりはしなかった。
彼は〈沈黙の魔女〉を英雄視していたし、それに何より……モニカに対して「友人」の面影を重ねすぎていたのだ。
* * *
観客席は騒然としていた。
マクレガン教諭の説明によると、途中から霧の影響で視界が悪くなった魔法戦は、最終的にヒューバード・ディーの魔導具が暴走する事故になったというではないか。
ざわつく会場に、エリオットが困り顔で頬をかく。
「参ったな、殿下は席を外してるし、シリルもいないっていうのに……」
この場を取り仕切るべきは生徒会役員なのだが、そのツートップが席を外している。
エリオットが渋々壇上に上がるべく腰を浮かすと、それより早くブリジットが立ち上がり、壇上に上がった。
「皆様、静粛に」
凛と澄んだソプラノボイスが、会場にいる者の耳を震わせる。
ブリジットは生徒達が静まり、壇上に注目するのを待って、口を開いた。
「此度の決闘、最後までその結末を見届けることができず、大変残念に思います。ですが、今は事故に巻き込まれた生徒の安全確認が最優先」
ブリジットの声は非常に美しく、滑舌や間の取り方も上手い。非常に聞き取りやすい話し方だった。
彼女もまた、フェリクスのように人前で話すことに長けた人間なのだ。
「今日はもう日も傾いておりますし、皆様はどうぞ寮にお戻りを。事の顛末は後日、生徒会の方から報告させていただきます」
ブリジットがそう告げれば、生徒達はまばらに散り散りになった。
気の利くニールが素早く動き、出口に人が集中しすぎないよう、後方の座席の生徒から退出するよう誘導している。それを見守りつつ、ブリジットは壇上から下りた。
「ブリジット」
ブリジットの元に早足で歩み寄ってくるのはフェリクスだ。どうやら、たった今戻ってきたばかりらしい。
ブリジットは唇に淡い笑みを浮かべ、ゆっくりとフェリクスに顔を向けた。
「モニカ・ノートンは見つかりまして?」
「あぁ、会場付近に倒れていたので、医務室に運んできた」
「……そう、それは大変でしたこと」
フェリクスの言葉に、こっそり聞き耳を立てていたラナ・コレットが胸を撫で下ろすのが見えた。
きっとこの後、彼女は友人のモニカ・ノートンを見舞うため、医務室に押しかけることだろう。
「医務室は、魔法戦で倒れた者達がまもなく運び込まれて大忙しになりますわ。見舞いはご遠慮を」
ブリジットが釘を刺せば、ラナは不満そうに唇をへの字に曲げた。
それを横目で眺めつつ、ブリジットはさもたった今気づいたような顔で言う。
「あぁ、でも医務室のベッドは四つだけ……この後、殿方が四人も運び込まれるとなると、ベッドが足りなくなってしまいますわね。殿下、もしよろしければ、あたくしの使用人にモニカ・ノートンを寮まで運ばせましょうか?」
「そうだね。女子寮なら君の方が適任だろう。すまないが、頼んでも良いかい?」
ブリジットは誰が見ても完璧な美しい笑顔で頷いた。
「……えぇ、お任せを」
* * *
頬をサラサラと滑る寝具は、滑らかな絹の感触がした。
まるで新年の儀の間、七賢人にあてがわれた客室の寝台みたいだ。
「……んぅ」
覚醒したモニカは、己が寝かされているのが見覚えのない部屋だと知ると、のろのろと首を傾けた。
(……わたし、さっきまで、何してたっけ?)
軋む頭を押さえながら、モニカはゆっくりと記憶を辿る。
ヒューバードとの戦闘を終えて、急いで観戦会場に戻ろうとしたことまでは覚えている。だが、そこから先の記憶がない。
「目が覚めたようね」
涼やかな声の方に目を向ければ、ソファに腰掛けたブリジットと目が合った。
予想外の人物に、モニカはますます困惑する。
「あの、えっと……ここは、どこ、ですか?」
問う声は酷く掠れていた。痛む喉を押さえてケホケホと咳き込むと、ブリジットが無言で水差しを差し出す。
「あ、あり、がとう、ござい、ます」
こんな立派な寝具に水が溢れたら大変だ。
モニカは慎重な手つきで水差しを傾けた。水差しの中身はただの水ではなく、エディブルフラワーと柑橘の香りがして、ほのかに甘い。薄い果実水みたいで美味しい、と思いながら口を湿らせていると、モニカが水を飲む様子を眺めながらブリジットが言った。
「ここは、あたくしの部屋よ」
何故、自分がブリジットの部屋に寝かされていたのだろう。医務室や寮の屋根裏部屋ならともかく、ブリジットの私室に寝かされている理由が分からない。
そのことをモニカが問うより早く、ブリジットが口を開いた。
「単刀直入に言うわ」
レースの手袋に覆われた指が、突然モニカの左手首をギュッと握る。モニカの手首を鋭い痛みが走った。
「あぅっ!? っ、ぁ……あ……!」
モニカは思わず呻き声をあげ、空になった水差しを落とす。
ブリジットは寝具の上に落ちた水差しをサイドテーブルにコトリと置くと、真っ直ぐにモニカを見据え、冷ややかな声で言った。
「モニカ・ノートン、お前は一体何者なのです」




