【12-6】理論派と感覚派
グレンが〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーに引き取られ、弟子になったばかりの頃、グレンは魔術の修行に乗り気ではなかった。
グレンはルイスに引き取られる前、魔術を暴走させてミネルヴァの校舎を半壊状態にしている。
もし、同じことをしてしまったら? 今度は暴走した魔術で死傷者が出てしまったら?
想像するだけで体が竦み、とても魔術を使おうなんて思えなかった。
だから、グレンは正直にルイスに話した。
「……オレ、魔術の勉強するの、イヤっス」
罵倒されることは承知の上で、グレンは正直に胸の内を全てぶちまけた。
また失敗するのが怖い。誰かを怪我させるのが怖い。魔術なんて、本当はもう懲り懲りなのだ、と。
すると、ルイスは案外あっさりとした口調で言った。
「あぁ、良かったじゃありませんか」
「………………へ?」
「早い内に挫折できて」
ルイスは細い指をクルリと回すと、その先端をピタリとグレンの額に突きつけた。
片眼鏡の奥で、灰色がかった紫の目が冷たく輝く。
「今までのお前は、何の努力も無しにポンと手に入れた力に、振り回されていただけにすぎません」
何の努力も無しに、の言葉にカチンときて、グレンは思わず強い口調で反論した。
「お、オレ、ミネルヴァでちゃんと勉強したっス! 秘密の特訓だって……!」
グレンが眉を釣り上げて主張すれば、ルイスは腹が立つぐらい愉快そうに「あっはっは」と声をあげて笑う。
グレンはむぅっと唇を尖らせて、ルイスを睨んだ。
「……何がおかしいんスか」
「たかだか三ヶ月かそこらの素人訓練で、魔術を使えた気になっていた若造の言うことが、おもしろすぎて」
「…………」
「半ば惰性でこなした訓練を努力だと言う輩は、お手軽に充足感を得られて良いですね」
この人は〈結界の魔術師〉から〈毒舌の魔術師〉に改名するべきだ、とグレンは思った。口調こそ丁寧だが、いちいち言うことが辛辣なのである。
グレンが不貞腐れた顔で黙り込むと、ルイスはニコリと品良く微笑んだ。
「挫折を知らぬまま増長した奴は、いずれどこかで痛い目を見るものです。早めに痛い思いをできて、良かったではありませんか」
増長なんてしてない、と言いきれないことが悔しかった。
少なくとも、予言を受けたことで「自分が選ばれた」と得意になっていたことに違いはないのだ。
「何の積み重ねも無しに手に入れたものなど、失う時は一瞬ですよ。これから積み重ねなさい。お前にはそれだけの時間がある」
「……でも、やっぱ、攻撃魔術使うのは、まだ怖いっス」
臆病者め、と罵られるのは覚悟の上でそう言えば、ルイスは細い指を顎に添えて、何かを考え込むような仕草を見せた。
「ふむ……では、最初は楽しい魔術から教えてあげましょう」
「楽しい魔術?」
キョトンとするグレンに、ルイスは茶目っ気混じりのウィンクをしてみせた。
「空を自由に飛んでみたくはありませんか?」
* * *
最近のモニカはまったく心の休まらない日々が続いている。
教室を移動する時は、ヒューバード・ディーと遭遇しないかビクビク周りを気にしなくてはいけないし、教室にいる時はロベルト・ヴィンケルが乗り込んできて「チェスをしましょう」と誘いにくるのだ。
チェスは確かに楽しいけれど、授業以外の勝負を受けては、また婚約云々の話を持ち出されてしまう。なにより、クラスメイト達の視線が痛い。
高等科一年に編入したばかりのロベルトは、モニカが思っていた以上に目立つ存在であるらしい。
ランドールからの留学生というだけでも珍しいのに、剣術の授業では学年首席に勝利したとかなんとか。
そんな男子生徒が連日、モニカに会いにやって来るのだ。噂にならない方がどうかしている。
ラナには事情を話したけれど、やはり居た堪れないことに変わりはない。
なので生徒会業務の無い放課後、モニカはロベルトが来る前に教室を抜け出し、図書室で過ごすことにした。セレンディア学園の図書室は蔵書が非常に充実しているので、いくらでも時間を潰せる。
今、モニカが探しているのは生物学に関する本だ。
ポーター古書店で入手した父の本を読むためには、基本的な生物学の知識が必要になることが多々ある。そのために、父の本を読んで分からなかった単語や、引用された論文に目を通したかったのだ。本を理解するために、また別の本を読む、というのは学者にとってよくあることである。
セレンディア学園の図書室は学生棟から独立した図書館棟にある。
魔術に関する書物はミネルヴァの方が多いが、それ以外の分野における蔵書量はセレンディア学園の方が圧倒的に多いだろう。
(何回来てもすごいなぁ……)
感心しながらお目当ての本を手に取ったモニカは、その場で本の中身を確認しようとし、左手の痛みに顔をしかめた。まだ殆ど握力の戻っていない左手では、分厚い本を広げて固定することが難しい。
立ち読みは無理だと判断したモニカは、本を抱えて読書スペースに向かった。
図書室内には勉強机や、ゆっくり読書を楽しむためのソファなどが設置されているのだ。
空いている席を探すモニカは、すぐ近くの席に見覚えのある金茶色の癖っ毛を見つけて目を丸くした。
モニカの知人の中で、おそらく一番図書室と無縁そうな人物──グレン・ダドリーだ。
グレンは一冊の本を広げて勉強中のようだったが、唇をへの字に曲げ、眉間と鼻の頭に皺を寄せている様子を見るに、あまり捗ってはいないらしい。
例え知人であっても、モニカは自分から声をかけるのが苦手だ。それでもモニカは少しだけ勇気を出して、グレンの背中に声をかけた。
「グレンさん、こ、こんにちは」
自分から友達に声をかけた! しかも読書中の友達に!
ちょっとした達成感に浸っているモニカに、グレンは紙面から顔を上げて目を向ける。
「こんにちはっス。モニカも勉強しに来たんスか?」
「いえ、読書に……グレンさんは、お勉強を?」
「うーん、そんな感じっス」
モニカはグレンが広げている本をちらりと眺め……絶句した。
彼が読んでいたのは短縮詠唱に関する論文を集めた本だ。実はモニカもこの本に寄稿をしており、グレンが開いているページはまさに、そのモニカが寄稿したページなのである。
モニカは動揺を押し殺し、グレンに訊ねた。
「えっと、グ、グレンさんは、短縮詠唱を覚えたいん、ですか?」
「覚えたいっス……でないと、実戦で役立たずだから、オレ……」
呟くグレンの横顔は、いつも陽気な彼らしくない固い表情だった。
実戦と言われて思い浮かぶのは、やはり魔術を使った戦闘を得意とする魔法兵団だろう。グレンの師匠のルイスも七賢人になる前は、この魔法兵団のトップだったのだ。
この魔法兵団では入団テストで重要視される項目が四つある。
・短縮詠唱が使えること
・同時に二つの魔術を維持できること
・得意属性以外の魔術も習得していること
・飛行魔術が使えること
この中で、とりわけ重要視されるのが短縮詠唱である。
魔術師にとって最大の弱点は詠唱の間、隙ができること。短縮詠唱なら詠唱時間を半分以下にできるし、その分、隙も少なくなる。
だが、短縮詠唱とは複雑な数式を理解して、略せるところを徹底的に略していく作業と同じなのだ。つまり、魔術式への高い理解力が求められる。
グレンが書き散らしている魔術式を見る限り、彼の魔術式の理解力は短縮詠唱を身につける以前の問題だ。
モニカは、数日前のグレンの言葉を思い出した。
『オレはなーんにもできなかったっス。呪竜を倒したのは、生徒会長と〈沈黙の魔女〉さんっスよ!』
その時の彼は、いつもの陽気な彼だったけれど、もしかしたら内心、酷く悔しく思っていたのかもしれない。
「グ、グレンさんは……その……もしかして、呪竜騒動のことを、気にしてるんです、か」
「んー……それもあるっスけど……」
グレンは歯切れ悪く言葉を切り、視線を少しだけ彷徨わせた。
その横顔には、いつも快活な彼らしからぬ苦い表情が浮かんでいる。
「ちょっと、負けたくない奴がいて」
友達が困っていたら力になってあげたい。
だが、ここで下手に魔術式について口を出したら、モニカの正体がバレることに繋がりかねない。
モニカ・ノートンは魔術に関しては素人、ということになっているのだ。
(で、でも、アドバイスだけ、なら……)
モニカはおずおずとグレンに訊ねた。
「あ、あの、グレンさん、は、短縮詠唱を覚えるのに、どうしてこの本を選んだん、ですか?」
「〈沈黙の魔女〉さんの論文が載ってたからっス! モニカは見たことないかもしれないけど、〈沈黙の魔女〉さんって、本当にすごいんっスよ! 一言も詠唱せずに魔術を使っちゃうんっス! オレも、あんな風に無詠唱でバンバン魔術を使えるようになりたくて……」
自分の名前が出たことに、内心ダラダラと冷や汗を流しつつ、モニカは懸命に頭を回転させた。
やる気に満ちているグレンには非常に申し訳ないが、グレンの現在の理解力では無詠唱はおろか、短縮詠唱すら不可能である。二桁の足し算でつまづいている人間に、高等数学を使いこなせと言っているようなものだ。
「グレンさんは、どんな魔術が使えるんです、か?」
「火球を飛ばす魔術と、飛行魔術の二つっス」
「得意属性は火、でした……よね……」
「そうっスよ」
モニカは内心頭を抱えた。
(め、めちゃくちゃすぎる……っ!)
得意属性が火ならば、まずは火を操作する魔術を中級程度まで教えるのがセオリーである。なのに、火の魔術は初級程度にとどまっており、どういう訳か風属性の中でも最高難易度の飛行魔術を習得している。
(なんで火の魔術が初級止まりで、突然、飛行魔術? ルイスさんは、どういう教え方したのぉぉぉ!?)
頭を抱えるモニカに、グレンが指折り数えながら言う。
「まずは自分に合った術を探せって言われて、風の魔術とか地の魔術とか氷の魔術とかも、色々教わったんっスけど、竜巻起きたり地割れ起こしたり訓練場ごと氷漬けになったりで、ちょっと使えるとは言いがたい感じっスね。師匠も魔術式を理解するまで、もう使うなって言ってたし」
(……それは暴走です。ほぼほぼ暴走です)
グレンはとにかく魔力量が多く、暴走しやすい。だから、まずは得意属性以外でもグレンが使いやすい魔術は無いか、色々な魔術を使わせて試行錯誤したのだろう。
(得意属性以外の魔術も一応発動したってことは……多分、魔力操作は上手なんだ……)
ならば、教えるべきは多少魔力操作が難しくとも、魔術式が比較的簡単な魔術が望ましい。飛行魔術はまさにその典型である。
魔術式そのものはそこまで難解ではないのだが、体を浮かばせつつバランスを取らなくてはいけないので、とにかく高度な魔力操作技術と、優れたバランス感覚など身体能力の高さが必要なのだ(モニカが飛行魔術を使えないのは、後者の身体能力の低さが理由である)
しかし、攻撃手段が火球のみというのは少々気になる。
モニカは少し踏み込んだ質問をしてみることにした。
「グレンさんは、火球をどの程度まで操れるんですか? その、威力とか、速度とか……」
「師匠に威力の強弱と、速度調整を徹底して覚えろって言われたんで、最近はずーっとその練習してたんスよね。だから、その辺はバッチリっス」
「な、なるほど……」
「あと、飛行魔術使いながら攻撃魔術使えるようになれ、って師匠に言われてたんで、その辺も冬休み中に師匠に見てもらいながら練習して……空中で一時停止すれば、なんとかできる感じっスかね。まだ、ビュンビュン飛ばしながら、攻撃魔術使うのは無理だけど」
グレンの説明を聞いていくうちに、モニカにはだんだんとルイスの教育方針が見えてきた。
魔法兵団でも通用するレベルの、実戦型の魔術師になるための条件は四つ。
短縮詠唱、二つの魔術の維持、得意属性以外の魔術の使用、飛行魔術……グレンは短縮詠唱以外の三つをほぼほぼ身につけているのだ。
その癖、使える魔術は火球と飛行魔術の二つだけ。恐らく、使える魔術の種類を闇雲に増やすより、感覚で魔術の使い方を覚えることを優先させたのだろう。
その上で、今覚えている術の精度を高めていく方針なのだ。
(すごく規格外だけど、グレンさんの性格を考えると理に適ってる……かも)
モニカが納得していると、グレンは言った。
「だから、次のステップは短縮詠唱かなーって」
「…………」
グレンの言葉に、モニカは思わず真顔になる。
端的に言うと、魔術師としての血が騒いでしまった。
「グレンさん、短縮詠唱も無詠唱も、言うほど大したものじゃない、です」
「……へっ?」
「あれは、ただ魔術を早く発動できるだけです」
モニカは世界で唯一の無詠唱魔術の使い手として高く評価されているが、モニカ自身は無詠唱魔術にそこまでの価値を見出していない。
無詠唱魔術のメリットは発動が早いことと、こっそり使えること。ただそれだけである。
それなら魔力を込めるだけで発動する魔導具と大差ないではないか、というのがモニカの持論だ。
「どんなに先手を取ったところで、攻撃が当たらなかったら意味がないです、から、グレンさんが次に覚えるべきなのは追尾術式です」
追尾術式とは名前の通り、攻撃魔術に一定の追尾性能を持たせる術式のことだ。移動している敵に攻撃を当てたい時に非常に有効な魔術式で、特に狭い所での対人戦で役に立つ。追尾性能はさほど高いとは言い難いが、それでもただ真っ直ぐに魔術を飛ばすのに比べれば、命中率は雲泥の差だ。
攻撃魔術というのは、一般的にさほど命中率は高くないと言われている。
大型の竜などは的が大きいから当てやすいが、動き回っている小型の竜に攻撃魔術を当てるというのは至難の技なのだ。
「追尾術式の組み込み方をきちんと覚えれば、他の攻撃魔術を使う時にも応用が効きます。短縮詠唱はその術式ごとに短縮方法が違うから、とにかく覚えるのが大変だと思います。覚えるなら、絶対に追尾術式が先です」
そこまで言ってモニカが言葉を切ると、ポカンとしているグレンと目が合った。
モニカはさぁっと青ざめる。
(わぁぁぁぁっ、や、やりすぎたっ!? やりすぎた!! ちょっとだけ遠回しにアドバイスするぐらいのつもりだったのにぃぃぃ!)
モニカはぐるぐると視線を彷徨わせつつ、必死で言い訳を考えた。
「……と、ですね、えっと、し、シリル様が以前言っていた……ような……」
「そうなんスか! 魔術の得意な副会長が言うんなら、間違いないっスね! あれっ、もしかしてモニカも魔術の勉強をしてるんスか?」
「いいえっ! 全然っ! これっぽっちも! わたしは魔術のことを! 知りませんっ! ……世間話っ! 世間話の中で、そんな話が出たような……出てないような……」
どんな世間話だ、と各方面から突っ込まれそうな言い訳だったが、グレンは特に疑う様子もなく「そうなんスかー」と納得してくれた。
呆れるほど単純である。が、その単純さに救われたモニカは、ホッと胸を撫で下ろす。
「それとですね、追尾術式について学ぶのなら……ギディオン・ラザフォード先生の出されてる本が、とても分かりやすいです……と、これもシリル様が、言って、ましたっ! 世間話でっ!」
「そうなんスか! じゃあ、早速それを読んでみるっス!」
椅子から立ち上がったグレンはモニカを見下ろすと、ちょっとだけ恥ずかしそうに頭をかいた。
「モニカ、ありがとうっス。オレ、ちょっと焦ってて……次のステップ間違えるとこだったっス」
「……?」
「最近〈沈黙の魔女〉さんっていう、すごい人を見ちゃって……オレもあんなことができたら、って簡単にとびついちゃったんだな。魔術はコツコツと、地道に基礎を積み重ねないとダメっスよね、うん」
最後の方は自分に言い聞かせるような呟きだった。
モニカは小さく微笑み、もじもじと指をこねながら、小声で提案する。
「あのですね、えっと……わたし、魔術のことは、全然、これっぽっちも知らないんですけど……魔術式は数式と似ているので、ちょっとだけなら、解説のお手伝い……できると思い、ます」
正体を隠しているのに、危ない橋を渡っているという自覚はあった。
それでも、モニカはほんの少しでも良いから、グレンの力になりたかったのだ。
呪竜騒動で彼を助けられなかった罪滅ぼしをしたい、という気持ちも少なからずある。だがそれ以上に、ひたむきな魔術師の卵の、成長の手助けをしたいと思ったのだ。
「助かるっス、ありがとモニカ!」
「……いえ、えへへ」
グレンが嬉しそうに笑うから、モニカもつられてへにゃりと笑った。
このモニカとグレンのやりとりを、物陰から見ている一人の少年がいた。
中等科の制服を着たその少年は「ふむふむ〜」と呟きながら、手帳にサラサラと文字を書き込む。
(あれがフェリクス様のお気に入りの子リスのモニカ・ノートン様と、グレン・ダドリー様ですね〜。うん、うん、じゃあ早速、アルバート様に報告しなくっちゃ〜)
胸の内でそう呟いて、その少年はのんびりした足取りで図書室を後にした。




