【12ー5】兄達のアドバイス全部盛り
人目を気にしながら廊下を移動し、ようやく選択授業の教室に辿り着いたモニカは、ぐったりとしながら空いている席に着席した。
そんなモニカのそばに、二人の男子生徒が腰を下ろす。同じチェスの授業を受けている、エリオット・ハワードと、ベンジャミン・モールディングだ。
「おぉ、聴こえる、聴こえるぞ、嘆きのシンフォニーが。悲哀と苦悶は雨の如く人の心を打ち、その目から溢れる滴は雨と共に海へ流れ、広大な旅路の果てに一つの答えを見出すだろう。それは絶望の蓋を開ける決断か、あるいは全てを失う覚悟か! おぉ、旅人の目に映るものはなんだったのか、その答えが最終楽章で語られる! ……という、最終楽章直前の旅人みたいな顔をしているが、大丈夫なのかね、ノートン嬢?」
「………………えぇと」
途方に暮れるモニカに、エリオットが半眼で補足した。
「意訳すると『辛気臭い顔してるけど大丈夫か』ってとこだろ」
「辛気臭い顔! その一言に音楽性を集約し、世界観を広げ、奏でてこその演奏家! それができなくて、何が音楽家か!」
半分ぐらい己の世界にトリップしているベンジャミンに、モニカは苦笑混じりに言った。
「……えっと、心配おかけしてすみません。大丈夫、です」
「大方、この間の予算会議の件で頭を抱えてるんだろ」
エリオットの言葉にモニカは曖昧に笑う。
「…………そんな感じ、です」
本当はそれだけじゃない。今、モニカが抱えている問題は一つや二つではないのだ。
一番大きな悩みはクロックフォード公爵について。父の死にクロックフォード公爵がどこまで関わっているのかを、モニカはどうしても知りたい。
更に、そんなクロックフォード公爵にフェリクスが言いなりになっている理由や、フェリクスの目的も気になる。
そんな状況下にありながら、モニカはフェリクスの護衛任務もまっとうしなくてはいけないのだ。
肉体操作魔術の使い手であるユアンと呼ばれていた男。あの男が何のためにフェリクスに近づいたのかも、まだ分かっていない。この先、ユアン以外の暗殺者がフェリクスの命を狙ってくる可能性だってあるのだ。気を抜くことはできない。
(それなのに、殿下に〈沈黙の魔女〉が学園にいるって、バレてるしぃぃぃ……)
今、フェリクスに指示を受けた生徒会役員は、それとなく小柄な女子生徒の左手をチェックしている。
モニカの左手がまともに動くようになるには、あと数週間はかかるというのがレイの見立てだ。それまでの間、モニカはどうにか左手の負傷を隠さなければならない。
問題はまだある。ケルベック領に現れた間者。イザベル達の機転でなんとか誤魔化すことに成功したらしいが、何者かがモニカのことを探っていることには変わりない。
そしてとどめと言っても良い最大の懸念事項が、バーニーの手紙にあった「先輩」の件。
あの先輩に見つかった瞬間に、全てが水の泡である。残り半年の間、あの先輩と同じ校舎にいるというだけで、モニカは気が狂いそうだった。本気で屋根裏部屋に引きこもりたい。
やらなくてはいけないことはとにかく沢山あるのに、何から手をつければ良いのか分からない。
それなのに、モニカの正体を探る者の包囲網がジリジリと狭まりつつある。
(うっ……うっ……胃が痛い……)
せめてこの授業の間ぐらいは、チェスのことだけ考えていたい。そうしよう、きっとそれがいい。
半分ぐらい現実逃避のような気持ちでそんなことを考えていると、ボイド教諭が扉を開けて中に入ってきた。
いつ見ても筋骨隆々とした傭兵のようなボイド教諭が「静粛に」と短く告げれば、生徒達はピタリと口をつぐむ。ボイド教諭はそれを確認して小さく頷くと、口を開いた。
「編入生を紹介する。編入生、中へ」
編入生、と言われた瞬間、モニカの頭をよぎったのは、まさに先ほどまで懸念していたヒューバード・ディーである。
(ま、まま、まさか、ディー先輩がっ!?)
息をのんだモニカの予想は外れていた……が、モニカはその編入生を知っていた。
軍人らしい足取りで入室したその男子生徒は、休めの姿勢で声を張り上げる。
「高等科一年の編入生、ロベルト・ヴィンケルです。どうぞご指導ご鞭撻の程をお願いいたします」
エリオットとベンジャミンが全く同じ動きでモニカを見る。
モニカは白眼を剥き、半ば意識を失っていた。
* * *
チェス大会でモニカに敗北し、チェスを前提に交際を申し込むもお断りをされた、ランドール王国男爵家の五男ロベルト・ヴィンケルは、学祭の後、速やかに「院」に退学届を提出し、セレンディア学園への編入を決めた。
「院」の教師達は真っ青になってロベルトを止めたが、ロベルトの意思は鋼のように固い。
己は世界一のチェスの名手になる。そのためだけにランドール王国よりもチェスプレイヤーの多いリディル王国に留学したのだ。
確かに「院」には強者が多かったが、既にロベルトの敵になる人間はいない。ともなれば、更なる強者のいる学園へ編入学するのは、当然のことであった。
セレンディア学園に編入すれば、ロベルトを負かしたモニカ・ノートン嬢と思う存分チェスができる。
更に、モニカ・ノートン嬢の在学中に婚約を了承してもらうことができれば、卒業した後も存分に彼女とチェスができる。完璧な人生プランだ。
だが、ロベルトには悩みがあった。彼はチェスも座学も馬術も剣術も得意だが、恋愛というものに関して非常に疎い。女性が喜びそうな芸術分野に関する知識も無い。
そこでロベルトは「院」を退学した後、一度、故郷ランドール王国に帰省し、四人の兄達に相談をすることにした。とても頼りになる兄達なら、きっと有益なアドバイスをくれるはずだ。
「どうしても振り向かせたい女性がいる場合、兄さん達ならどうしますか?」
末っ子が大真面目に訊ねると、四人の兄達は目の色を変えた。
あぁ、あんなに小さかったロベルトが! チェスのことしか考えていないロベルト坊やが! 俺達の可愛い弟が! ついに恋愛に興味を!!
兄達はやんややんやとひとしきり盛り上がった後で、一人ずつアドバイスを伝授してくれた。
まず最初に一番目の兄が、逞しい二の腕で力瘤を作りながら言う。
「ご婦人達は鍛えられた男の肉体が好きだ! ロベルト、お前は立派な筋肉を持っている。それをアピールするのだ。特に二の腕だ、二の腕! ご婦人達は皆、男の二の腕に弱い!」
なるほど二の腕、とロベルトは心の中にメモをした。
次に二番目の兄が、甘い顔に蠱惑的な笑みを浮かべて言う。
「一番大事なのは体の相性でしょ? あぁ、ロベルト。お前のナニの大きさは、幼少期から見てきた俺が保証してあげる。きっと女の子も満足してくれるから、自信を持ってアタックすればいい」
二番目の兄は兄弟の中で、一番女性の扱いに慣れている色男である。その兄が言うのだから、きっとナニの大きさは大事なのだろうと、ロベルトは納得した。
続いて三番目の兄が、長めの前髪をかきあげながら言う。
「あぁ、兄さん達は少しばかり体に頼りすぎていないかい? 女の子を喜ばせると言ったら、やっぱり詩が一番だ。その子への思いを込めた詩を作って贈れば、きっと喜んでくれるだろう」
「ですが兄さん……自分は詩を作ったことがありません」
ロベルトが不安そうに言えば、三番目の兄は「大丈夫さ」と力強く断言した。
「困った時はとりあえず花だ。花に喩えろ『庭の花を見ていたら、貴女のことを思い出しました』とか、そんな感じでいい」
案外、雑なアドバイスである。
だがロベルトは、なるほど流石文才のある兄の言うことは違う、と深く感心した。
最後に四番目の兄が飼い犬を胸に抱き上げながら、おっとりと言った。
「我が家にはこんなに賢くて可愛いワンコ達が三匹もいるんだよ。これをアピールしない手はないよね。ねぇ、ロベルト。こんなワンコと家族になれたら幸せだよね? その子もきっと、そう思ってくれるよ。だって、うちのワンコ達はこんなに可愛いんだもの」
そう言って四番目の兄は「ねぇ?」と厳つい顔の軍用犬に頬擦りをする。
なるほど、我が家の愛犬達をアピールすれば良いのか、とロベルトは心のメモに書き加えた。
かくして四人の兄達のアドバイスを胸に、ロベルト・ヴィンケルは再び国境を越えて、セレンディア学園にやってきたのだ。
素晴らしいチェスプレイヤーである、モニカ・ノートンと再戦し、そして婚約を認めてもらうために。
* * *
「おい、ノートン嬢、起きろ。おい」
隣のテーブルのエリオットに肩を揺さぶられたモニカが意識を取り戻すと、既に自由対局の時間が始まっていた。今から各々対戦相手を探して、授業時間いっぱいまでチェスを指すのだ。
あぁそうだ、チェスだ。チェスをしよう。チェスをして心を無にしなくては……と我に返ったモニカに向かって、ズンズンと大股で歩み寄ってくる男がいた。言わずもがな、ロベルトである。
ロベルトは真冬であるにもかかわらず、制服の上着を脱いでシャツの袖を限界まで捲り上げていた。それこそ二の腕が剥き出しになるぐらいに。
その季節感を無視した格好にモニカが唖然としていると、ロベルトはモニカの前で足を止める。
「お久しぶりです、モニカ嬢」
「……は、はは、は、はい」
モニカが森で熊に遭遇した旅人のような顔でカクカクと頷くと、ロベルトはおもむろに懐から一枚の紙を取り出して広げた。
「貴女のために、詩を作ってきました」
「………………はい?」
「聞いてください」
ロベルトは大真面目な顔でそう言うと、その紙にしたためたらしい詩を朗々と読み上げる。
「『庭の白い花を見ていたら、チェスの白駒が浮かびました。
貴女の五十三手目の白のルークは素晴らしかった。
また貴女とチェスがしたいです。
貴女のチェスが忘れられません』──ロベルト・ヴィンケル」
しんと静まり返っていた教室に、ロベルトの声は実によく響く。ついでに言うと、無駄に美声のバリトンだ。
教室の生徒達はチェスをしつつ、このやりとりを息を飲んで見守っていた。
特に一番近くの席にいたエリオットは、何と言って良いのか分からないような顔をしているし、ベンジャミンは「あれが詩? あれが詩だとぅ? おぉ、音楽的じゃない……美しくない……」とブツブツ呟いている。
「ロベルト・ヴィンケル。対局時間は静かに」
ボイド教諭が短く注意すれば、ロベルトは実直な態度で頭を下げた。
「はい、神聖なチェスを指す場で騒がしくしてしまい、大変申し訳ありませんでした。お許しください。自分はいち早く、この想いを彼女に伝えたかったのです」
教室中から注目されたモニカは、胃を押さえながら思った。
今の詩(?)は、文脈から察するにモニカとチェスをしたいという意思表示なのだろう。
(つ、つまり……これは、チェス勝負の果たし状……?)
モニカが困惑していると、ロベルトは更に別の紙を取り出し、モニカに差し出す。
「それと、これをどうぞ」
「あ、あのぅ、これ、は……?」
「我が家の犬を写生してきました。我ながら、よく描けたと思います」
モニカはおっかなびっくり二つ折りにした紙を受け取り、そぅっと広げた。
そこには「四つ足の何か」としか言いようのない物体が三体描かれている。ロベルト曰く、彼の家の犬らしい。
(これは、えっと、この絵に対する感想を求められてる? ……の、かな?)
反応に困るモニカに、更にロベルトは言い募る。
「婚約の件、是非とも前向きにご検討願います」
(えぇっ!? 今、そういう流れだった!?)
ポカンと口を丸くするモニカの横で、エリオットとベンジャミンが沈痛な顔で額に手を当てる。
「……嫌な予感がする……これ、絶対、チェス大会の二の舞だろ……絶対ややこしいことになる……」
「おおぅ、なんということだ。彼には音楽的アプローチが致命的に欠けている……感性が死滅している……」
隣の席の先輩二人がチェスを中断してブツブツ呟いていたが、その呟きはロベルトにもモニカにも届いていなかった。
ロベルトはマイペースにモニカの前に座ると、チェス盤に駒を並べ始める。
「それでは、対局を始めましょう」
「あ、えっと、はい……」
ロベルトの行動の意味がモニカには半分も理解できなかったが、まぁ、とりあえず彼はチェスがしたいのだろう、とモニカは大雑把な結論を出した。
モニカはモタモタと駒を並べつつ、先程から気になって仕方なかったロベルトの服を見る。
「あのぅ……袖まくりして、寒くない……ですか?」
「問題ありません。毎日鍛えていますから」
「は、はぁ……」
ランドールの騎士は、真冬でも袖まくりという慣習でもあるのだろうか。
モニカがそんなことを考えていると、ロベルトがふと思い出したような口調で言った。
「あぁ、それと……」
「は、はい」
「自分は大きいと兄から太鼓判を頂きました。きっと、モニカ嬢を満足させられると思います」
(何が大きいんだろう…………身長?)
よく分からないまま、モニカは曖昧に「はぁ」と相槌を打った。




