【12ー4】カマキリと負け犬
新学期最初の選択授業の日、エリアーヌ・ハイアットは移動時間になると素早く荷物をまとめて、立ち上がった。
そうして、いつも一緒に移動するクラスメイトに、ふわりと柔らかな笑みを向けて言う。
「わたくし提出物があるので、お先に失礼いたしますわね」
そう言って教室を出たエリアーヌは、令嬢として許されるギリギリの早足で廊下をスタスタ歩く。彼女が向かう先は、職員室でもなければ選択授業の教室でもない。
(……あの方の教室から「実践魔術」の教室に移動するなら、絶対にこの廊下を通るはず……)
エリアーヌは廊下の角で足を止めると、そわそわと辺りを見回したり、意味もなく髪をいじったりしながら、お目当ての人物が来るのを待つ。
やがて廊下の角の向こう側から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
貴族の子女が通うこの学園で、一際元気良く響く声。間違いない。
エリアーヌがごくごく自然な足取りで廊下の角を曲がれば、少し離れたところに金茶色の髪が見える。
(提出物のために偶然この廊下を通ったわたくしは、偶然グレン様をお見かけし、足を止めてこう言うのよ「ご機嫌よう、グレン様。冬休みはお世話になりました。お体のお加減はいかがですか?」……えぇ、とても自然だわ。これ以上ないぐらい自然な会話だわ)
完璧な計画に満足しつつ、エリアーヌはグレンとの距離を詰め……そして、硬直した。
グレンの隣を、長身の女子生徒が歩いている。
真っ直ぐな黒髪、白い肌、瑠璃色の目。誰もが感嘆の吐息を溢す圧倒的な美しさの令嬢。エリアーヌと同じ学園三大美人の一人、クローディア・アシュリー。
女性にしては長身のクローディアだが、背の高いグレンと並ぶと非常にバランスが取れていて、驚くほど見栄えが良かった。
何故、クローディアがグレンと並んで歩いているのか……エリアーヌが硬直していると、グレンの方が先にエリアーヌに気づき、足を止める。
「あっれー、エリーじゃないスか。久しぶりっス!」
「え、えぇ」
グレンとクローディアが並んで歩いている、という絵面のインパクトのせいで、用意していた台詞はエリアーヌの頭の中から綺麗に吹き飛んでいた。
もじもじしているエリアーヌを、クローディアは人形じみた瑠璃色の目でじぃっと見つめている。だが、クローディアの目に、エリアーヌに対する興味の色は無い。ただ進行方向に人がいるから見ている、それだけだ。クローディアのことを意識しているエリアーヌとは違う、興味も関心も無い目。
それが、エリアーヌのプライドや劣等感をチクチクと刺激した。
「まぁ、グレン様ってば、アシュリー様と仲がよろしかったのですね。わたくし、とんと存じ上げませんでしたわ」
いつもよりやや早口にそう言えば、クローディアがゆっくりと瞬きをした。
「…………仲良しではないわ」
「そうなんス! 友達なんスよ!」
クローディアのボソボソとした声を、グレンの馬鹿でかい声がかき消す。
クローディアは無表情ながら、誰が見ても心外と分かる空気を漂わせて、低い声で言った。
「…………私は、ニールと一緒に歩いていただけよ」
そこでようやく、エリアーヌはグレンとクローディアの影に隠れるように、もう一人男子生徒がいることに気がついた。生徒会総務ニール・クレイ・メイウッド。クローディアの婚約者である。
地味で小柄なニールは普段から目立たないのだが、存在感の強いグレンやクローディアといると、なおのこと影が薄くなるようだった。
うっかりニールを見落としていたことをエリアーヌが恥じていると、ニールはニコニコと人当たりの良い笑顔でエリアーヌに声をかける。
「こんにちは、ハイアット嬢。呪竜事件は大変でしたね。公爵家の皆様にお変わりはありませんか?」
「えぇ、お気遣いありがとうございますわ」
エリアーヌはさほどニールと親しいわけではないが、面識はそれなりにある。ニールの父親が、仕事の関係でレーンブルグ領を訪れることが多いからだ。
国家公認の調停人であるメイウッド男爵は、国内貴族の中でもとりわけ顔が広い。最近は竜騎士団の新しい駐屯所の件で、諍いが起こる度に調停に出向いていると聞く。
家柄は圧倒的にエリアーヌが格上だが、メイウッド男爵家の人間はぞんざいに扱って良い相手ではない。なので、エリアーヌは当たり障りのない世間話をニールに振った。
「メイウッド様は、グレン様と親しいのですね。もしかして選択授業も一緒でいらっしゃるのかしら?」
「はい、そうなんです。実践魔術の授業を受けてて。ハイアット嬢は?」
「わたくしは演奏の授業を受けていますの。でも、まだまだ未熟で……お恥ずかしいですわ」
「そんなことないです。以前ハイアット嬢のハープをお聴きしたことがあるんですけれど、とてもお上手でしたよ」
「まぁ、嬉しい」
ニールと話をしながら、エリアーヌはチラチラと横目でグレンを見た。
(……話に入ってきて良いんですのよ? ハープの演奏を聴いてみたいって仰ってもよろしくてよ? どうしてもということでしたら、放課後に音楽室で少しぐらい演奏を聴かせてあげても……)
期待の目で見るエリアーヌに、グレンはニコニコしながら言う。
「ニールとエリーが話してると、なんか可愛いっすね」
まるで近所の子どもを見守るお兄ちゃんのような顔であった。
童顔低身長を気にしているニールの目から光が消え、子どもっぽいことを常々気にしているエリアーヌの頬はピクリと引きつる。
そんな中、クローディアが無言でグレンの背中を抓った。
「……あら、こんなところに虫がいたわ」
「ぎゃぁっ、いだだだだだだだ、ちょっ、待っ……」
「……虫は念入りに潰さないとね。プチプチプチプチ……」
「痛い痛い痛い痛い! 地味に痛いっスよ、それ!?」
グレンがつねられているのは背中なのだが、気のせいか、それ以外の場所もヒクヒクと痙攣しているように見えた。なにより、ただ背中を抓られているだけにしては痛がり方が尋常じゃない。
もしかして、とエリアーヌは不安に思い、グレンに訊ねた。
「あの、グレン様……もしかして、まだ、お体の具合が……」
エリアーヌの言葉に、クローディアがパッと手を離す。
グレンは涙目で抓られた背中をさすっていたが、すぐにいつも通り白い歯を見せて笑った。
「なんちゃって。ぜーんぜん、大したことないっスよ!」
「そうですか……なら、良いのですが……」
グレンが呪いで倒れた時のことを思い出し、エリアーヌが顔を曇らせると、グレンは「あぁっ!」と大きな声をあげた。
「そろそろ行かないと、授業に遅刻しちゃうっスよ!」
グレンの言葉にニールも「そうですね」と同意する。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。失礼しますね、ハイアット嬢」
「えぇ、ご機嫌よう」
互いに挨拶を交わして、その場を立ち去ろうとしたその時、グレンが不自然に足を止めた。
その目は大きく見開かれ、彼の前方から歩いてくる一人の男子生徒を凝視している。
エリアーヌはなんとなくつられて、グレンの視線の先にいる男子生徒を見た。
燃えるような赤毛を逆立てた、背の高い男子生徒だ。顎の細い顔やヒョロリと長い手足は、どことなくカマキリを思わせる。
制服はだらしなく着崩され、既定の手袋はしておらず、両手の指にはゴツゴツとした指輪が幾つもはめられていた。
(……不良だわ)
制服の袖のラインを見るに高等科の三年生らしいが、エリアーヌには見覚えのない男だ。
だが、グレンはその男子生徒を引きつった顔で凝視している。知り合いなのだろうか?
エリアーヌが疑問に思っていると、赤毛の男は欠伸混じりに口を開いた。
「なぁ、お前ら。高度実践魔術の教室ってぇのぁ、どこにある?」
赤毛の男がそう訊ねた瞬間、グレンの顔が歪んだ。
エリアーヌが初めて見るその表情は……強く、激しい憤怒だ。
「なんであんたが、ここにいるんだよ!!」
普段から声の大きいグレンの怒声に、窓ガラスがビリビリと揺れた。
エリアーヌは思わずビクリと肩を震わせる。クローディアはいつもと同じ無表情だが、ニールはギョッとしたような顔でグレンを見ていた。
だが、肝心の赤毛の男は己の耳に指を突っ込みながら、気怠げな顔で言う。
「誰だ、お前?」
「………………っ!!」
「昔どこかで会ったか? 覚えてねぇなぁ。覚えてねぇってことぁ、多分アレだな……」
男は三白眼気味の目で記憶を辿るように宙を見ていたが、やがてその目をぐるりと回してグレンを見る。
そして、唇に薄い笑みを浮かべて言った。
「お前、負け犬なんだろ?」
ギシッという音がエリアーヌの頭上で聞こえた。それはグレンの歯が軋む音だ。
グレンはまるで臨戦態勢の野犬のように、体が前のめりになっていた。だが、グレンが一歩前に踏みだすより早く、ニールがグレンの前に立つ。
「もしかして編入生の方ですか? 高度実践魔術の教室は一階の東側です。この先の階段を降りて、右手に進んで三番目の教室ですよ」
「んっんー、そうかぃ。ありがとよ」
赤毛の男はそれだけ言うと、グレン達に背を向けて歩きだす。
その男の姿が廊下の角に消えるまで、グレンは男の背中を怒りに満ちた目で睨み続けていた。




