【2−8】化けの皮
フェリクスがモニカの手を引いて案内したのは、生徒会室のすぐ隣にある資料室だった。
美しい装飾が施された鍵付きの棚には、資料がギッシリと詰め込まれている。
「奥の棚は歴代生徒の名簿、その隣は現役生徒の名簿、その隣は教師関係。行事関係はこっち」
フェリクスは棚の一つ一つに何が収納されているかを説明すると、一番右端にある棚の前で足を止める。
「ここが、会計関係の棚」
フェリクスは上着のポケットから鍵束を取り出し、棚の鍵を開けると、資料を取り出した。
資料室には作業用の机と椅子がある。フェリクスはそこに資料を置くと、モニカを見てニコリと笑った。
「君には、過去五年分の会計記録の見直しを頼みたいんだ」
大抵の人間なら、なぜ自分がそんなことをしなくてはならないのか、と顔をしかめていただろう。
だが、モニカは目の前にある帳簿にうずうずせずにはいられなかった。
何せ、ここ最近はずっと歴史だ語学だの勉強ばかりで、数字に触れる機会が少なかったのである。
山小屋に溜め込んでいた仕事は全て、ルイス・ミラーの手で、他の人間に割り振られている。
つまるところ、モニカは数字に飢えていた。
「あ、あの、い、いいん、ですか?」
喜びを隠しきれず弾む声で言えば、フェリクスは「勿論」と頷く。
「授業のことなら、私から教師に話しておくよ。昼休みまでに……お願いできるかな?」
「はいっ!」
返事をすると同時にモニカは勢い良く帳簿をめくりだす。
久しぶりに張り切るモニカの目は、爛々と輝いていた。
* * *
(……さて)
早速帳簿と向き合い始めたモニカの横顔を見つめ、フェリクスは極々自然な態度でポケットから鍵束を落とした。
チャリ、と軽い音がしてもモニカは気付いた様子はない。それでも、作業机と資料棚の動線上に落としたから、資料棚に移動する時に必ず気づくはずだ。
フェリクスはモニカを資料室に残したまま、生徒会室を後にする。
廊下では生真面目なシリル・アシュリーが扉のすぐそばに控えていた。
生徒会室の扉は防音効果の高い造りになっているから盗み聞きは難しいのだが、それでもシリルが壁に耳をくっつけて、なんとか中の会話を盗み聞きしようとしている姿が容易に想像できる。
「殿下、あの小娘は……」
「彼女には、仕事を一つ頼んだんだ」
フェリクスがそう言った瞬間、シリルは限界まで目を見開き、仰け反った。シリルは黙っていれば知的でクールな面差しの美男子なのだが、感情の起伏が激しすぎる。
「殿下っ、仕事でしたら、何もあのような小娘に頼まずとも、このシリル・アシュリーに命じてくだされば……っ」
「君は五年分の会計記録の見直しを、昼休みまでに終わらせられるかい?」
シリルはグッと言葉を詰まらせたが、すぐに表情を引き締めて答えた。
「……それが、殿下のご命令でしたら」
フェリクスもシリルも会計記録の膨大さは知っている。今から取り組んだとして、昼休みまでに終わるか否かはギリギリのところだ。
生徒会の書類に見慣れている人間なら或いは間に合うかもしれないが、そうでないなら、もう半日は必要になるだろう。
「殿下、もしかして……あの小娘に会計記録の見直しを? 生徒会の人間でもないのに?」
シリルは困惑したように眉を顰めていたが、すぐに何かに気づいたような顔をすると、パッと顔を輝かせた。
「なるほど! 殿下に不敬を働いたあの小娘に対する仕置きなのですね! 間に合わなかったら、殿下の命令に背いた罪で処罰対象にできる!」
フェリクスは正解とも不正解とも言わず、ただ静かにシリルに命じた。
「彼女は午前中の授業に出られなくなる。モニカ・ノートン嬢の担任に、私が彼女を借りる旨を伝えておいてくれるかな?」
「はい、畏まりました!」
仕事を命じられたシリルは、スキップでもしそうな軽快な足取りで職員室へ向かっていった。
微笑を浮かべてその背中を見送っていたフェリクスの胸元で、小さな小さな声がする。
「……よろしいの、ですか」
フェリクスの胸ポケットから、小さな蜥蜴が頭だけを覗かせた。淡い水色がかった白い鱗の蜥蜴は、濃い青の目をしている。普通の蜥蜴ならば絶対に有り得ない色彩だ。
フェリクスは目線だけを動かして、胸ポケットの蜥蜴を見下ろした。
「何か疑問が?」
「わざと鍵を落とされたでしょう?」
蜥蜴は小さな口をパクパクと動かして、フェリクスに囁く。
フェリクスはくつくつと喉を鳴らして笑った。
「ウィル、君はモニカ・ノートン嬢をどう思う?」
「変わった人間だと思います」
「まぁ、それも事実だけど……重要なのは、彼女がどの勢力にいるかという点さ」
モニカ・ノートンは立ち入り禁止の旧庭園に出入りし、更には夜の男子寮から抜け出すフェリクスを目撃した……偶然居合わせた一般人とは考えにくい。
「考えられるのは三つだ。その一、お祖父様が寄越した私のお目付け役。その二、陛下が寄越した私の護衛役。その三、私の命を狙いにきた刺客」
「一と二は無いかと思います。クロックフォード公爵や陛下の差し金にしては、彼女は……その……あまりにも……えぇと……」
そう、モニカ・ノートンは誰が見てもポンコツだ。
そして、あんな無能をクロックフォード公爵は絶対に使わない。国王陛下にしてもそうだろう。
となると可能性が高いのは第三の選択肢──モニカ・ノートンがフェリクスの命を狙う刺客という線、なのだが……。
「私の命を狙いに来たにしては、あまりにお粗末だよね、彼女」
「…………はい」
「そもそも、私の顔を知らなかったみたいだし」
モニカ・ノートンがフェリクスの命を狙う刺客なら、旧庭園で攻撃を仕掛けていても良い筈だ。
挙句、モニカはフェリクスが男子寮を抜け出した現場を見て「殿下を狙う刺客かと思った」という盛大な失言をかましている。
「殿下、本当に何も知らないただの女子生徒……という可能性もあるのでは?」
「だから、試したんだよ」
もし、モニカ・ノートンがなんらかの目的を持ってこの学園にやってきたのだとしたら、必ず資料室の資料を漁る筈だ……フェリクスが落とした鍵を使って。
「あの資料室の書類棚はね、全ての戸に極細の糸を張っているんだ。もし、戸を開けたのなら、一目で分かる」
もし、モニカが拾った鍵で棚の資料を漁ったのだとしたら、どの資料をモニカが必要としていたかが、フェリクスにはすぐに分かる。
そのために、フェリクスは資料がどの棚にあるかをモニカに教えたのだ。
「さて、昼休みになるのを待とうじゃないか。昼になれば、彼女の化けの皮も剥がれる」
「……もし、剥がれなかったら?」
白蜥蜴の問いに、フェリクスは碧い目を細めて笑う。
「私は小動物が割と好きなんだ。生徒会室で飼うのも一興だと思わないかい?」
冗談なのか、本気なのか分かりづらい口調でフェリクスが言えば、白い蜥蜴はポケットの奥にするりと引っ込んだ。
「……小動物に変化できず、申し訳ありません。精進いたします」
フェリクスは珍しく声を出して笑って、軽やかな足取りでその場を後にした。




