【12ー2】クラッカーとピクルス、美味しかったです。
新学期初日、モニカは未だかつてないほど慎重に周囲を気にしながら、自身の教室へ向かった。
右良し、左良し、前方後方良し……少し進むごとにそうやって周囲をキョロキョロと気にする姿は、誰が見ても不審者そのものである。
「……何やってるの?」
背後からラナに声をかけられたモニカは肩を震わせ「ぴぎゃぅっ!?」と奇声を発した。思わず大声で叫びそうになったのをギリギリで噛み殺した結果の奇声である。
もし「あの人」の前で大声を出そうものなら……絶対気づかれる。間違いなく気づかれる。そうして、ニタニタ笑いながら「あの人」はこう言うのだ。
──よぉぉぉぉぉお、会いたかったぜぇ? エヴァレットぉ?
かつて味わった恐怖を思い出しガタガタ震えていると、ラナが心配そうにモニカの顔を覗き込んだ。
「やだ、ちょっと、顔色真っ青じゃない。ねぇ、寮で休んでたら?」
「だ、だだ、だい、じょうぶ、今日は、授業ない、し」
新学期初日は、簡単なオリエンテーションだけで終わる。
家同士で繋がりのある令嬢達は、オリエンテーションの後に茶会を開き、冬休みの間の自慢話やら情報交換やらで忙しいらしいが、モニカには縁のない話である。
(オリエンテーションの後には生徒会があるけど……わたし、ちゃんといつも通りに振る舞えるかな……)
冬休みに起こった出来事を思い出すと、左腕がズキズキと痛んだ。
呪竜から受けたダメージは痣こそ綺麗に消えたものの、痛みはまだ残っている。握力も殆ど回復していないので、左手ではティーカップを持ち上げることすら困難だった。
(……ちゃんと、隠さなきゃ)
モニカは冬休み中の出来事を思い返す。
〈沈黙の魔女〉を前にした時、フェリクスは畏まり、尊敬の目を向けた。
シリルもそうだ。国のトップである七賢人相手に失礼の無いようにと丁重な態度だった。
それが当たり前なのだ。
もし、ラナにバレたら……きっと、今まで通り友達として接してもらうことはできないだろう。
(……それだけは、やだ)
モニカは握力が殆ど無い左手をキュッと握りしめる。指を少し曲げただけで、指先から手首にかけてズキリと痛んだ。
上手く隠さなくてはいけない。左手の痛みも、モニカの正体も、何もかも。
(だからこそ、あの人に見つかるわけにはいかない……)
かつて、自分を追い回した先輩の姿を思い浮かべ、モニカが苦い顔をしていると、背後から「おーい!」と聞き覚えのある声がした。
こちらに歩み寄ってくるのは、グレンとニールだ。
モニカ達に向かってブンブンと元気良く手を振るグレンは、全身の痣がすっかり消えていた。声も張りがあって、元気ないつもの彼だ。
「おはよーっす!」
「おはようございます」
合流した四人は挨拶を交わすと、教室へと向かいながら各々の冬休みの話題に花を咲かせた。
ニールが自分は実家でのんびり過ごしていたと語り、ラナは父と共に出向いたサザンドール港の様子を語って聞かせる。
「やっぱりサザンドールは何回行っても素敵ね。お店も多いから見てて飽きないし。それで、モニカとグレンは?」
きた、遂に訊かれた。
モニカがイザベルの日記の内容を思い返し、どこを語るべきか考え込んでいると、グレンが先に口を開いた。
「オレ、冬休み前半は師匠の仕事の手伝いで、レーンブルグに行ってたっス」
その言葉に、ラナがギョッと目を剥いた。
「えぇっ!? そ、そうだったの!? レーンブルグって、呪竜騒動があったところじゃない!」
どうやらラナは、レーンブルグにグレンが出向いたことを知らなかったらしい。
レーンブルグの呪竜事件は国全体を揺るがすほどの大騒動だったが、呪竜を倒したのは第二王子と〈沈黙の魔女〉なので、この二人の名前ばかりが注目されていた。
その場に〈結界の魔術師〉の弟子が居合わせたことを知っている者は、さほど多くないのだ。ラナが驚くのも無理はない。
モニカがそんなことを考えていると、ラナがじぃっとモニカを見た。
「……モニカ、あんまり驚いてないみたいだけど、もしかしてもう知ってたの?」
「えっ!? う、ううんっ! 驚いてる、よ!」
モニカはもげそうな程、勢いよく首を横に振る。
(本当はあの場に居合わせてました……なんて言えない……っ!)
幸い、ラナはモニカの挙動不審さにそれ以上追求したりはせず、グレンに訊ねた。
「ねぇねぇ、それじゃあ、貴方もレーンブルグの呪竜と戦ったの?」
「いや、オレは……」
グレンは少しだけ言葉を詰まらせ、視線を落とす。
あの呪竜の恐怖を思い出し、辛い気持ちになっているのではないかと、モニカはかける言葉に悩んだ。
きっと、この場でモニカだけが知っているのだ。グレンが呪竜の呪いを受けて、死にかけたことを。
だがモニカが何かを言うより早く、グレンはパッと顔を上げて笑った。
「オレはなーんにもできなかったっス。呪竜を倒したのは、生徒会長と〈沈黙の魔女〉さんっスよ!」
「殿下達が戦うところを見てないの?」
「あー、ちょっと見てないっスねー」
当然だ。だって、あの時、グレンは狩場で呪いを受けて意識を失っていたのだから。
だが、グレンは自分が呪いを受けたことを話すつもりはないようだった。
(グレンさん、体調は大丈夫なのかな……)
呪竜の呪いをほんの少し受けただけのモニカでも、いまだに後遺症に苛まれているのだ。
いくら魔力耐性が高いからって、全身に呪いを受けたグレンが平気なはずがない。
自分がもっと上手く立ち回れていれば、グレンが呪いを受けることもなかったのに、とモニカは俯きながら考える。
新年の儀の期間中、モニカはルイスに謝罪をした。大事なお弟子さんに怪我をさせてごめんなさい、と。
それに対するルイス・ミラーの答えは実にサッパリしたものだった。
『私は自分の弟子の未熟さを、他人のせいにするほど愚かではありませんよ』
隙あらば相手に貸しを作り、しっかりきっちり取り立てる性格のルイスだが、呪竜騒動の件に関してモニカを責めたりはしなかった。
それでも、モニカはグレンを助けるために、もっと何かができたのではないかと思わずにはいられないのだ。
「モーニーカー、どーしたんっスか? なんか、ションボリっスね?」
ハッと顔をあげれば、グレンが心配そうにモニカを見下ろしている。モニカは曖昧に微笑んだ。
「な、なんでもない、です……」
「そーいや、モニカは冬休み何してたんスか? 冬至はミートパイ食べたっスか?」
「いえ、クラッカーとピクルスを……」
言いかけて、モニカはハッと口をつぐんだ。
うっかり自分が本当に食べた物──養母ヒルダが台所を壊滅状態にしたため、モニカの冬至のご馳走はクラッカーだったのだ──を馬鹿正直に答えてしまったが、冬休みの「設定」はイザベルの日記に書いてあったではないか。
モニカは慌てて、昨晩読んだ日記の内容を思い返した。
「えっと……あの……ケルベック伯爵家では、すごいご馳走がいっぱいだったんです。サクサクのミートパイに、具沢山のスープに、白いお砂糖をたっぷり使ったジンジャーケーキに……」
だがイザベルの日記では、モニカはこのご馳走に殆どありつけず、暖炉から一番遠い席で凍えながら、野菜クズのスープを啜るのだ。
『わたくしが一切れ落としたジンジャーケーキを、あの娘は卑しく拾って食べていましたのよ。あぁ、なんて見苦しい! まるで野良犬のよう!』
というのが、日記の一文である。だが、これをどう説明したものか。
モニカがしどろもどろになっていると、ラナ、グレン、ニールの三人はモニカに同情の目を向けた。
「……今日は、ちゃんと食堂で食事をするわよ。付き合いなさいよね」
「うっ……ぐすっ……モニカが可哀想っス……」
「……あの、なんと言えばいいか……大変でしたね」
どうやら三人の中では「ケルベック伯爵家では素晴らしいご馳走が出たのに、モニカはクラッカーとピクルスしか与えられなかった」と解釈されているらしい。
とりあえず、イザベルの日記の設定とそんなに相違はないので、モニカは曖昧に笑って誤魔化しておくことにした。