【番外編13】シリルの帰省
シリルの生まれ故郷であるアシェンダルテは、リディル王国南西部にある街だ。名産品は織物で、街の女達は皆、物心ついた頃には機織を教わる。シリルの母も家ではいつも織り機の前に座って、色とりどりの糸を手繰って、美しい模様の布を織っていた。
最近は水力を用いた自動織り機の登場で手織物は衰退しつつあるが、それでもアシェンダルテの手織物「アシェンド織り」は、その精緻な模様と鮮やかな彩色故に国内貴族からの人気が根強い。
久しぶりに訪れた故郷は、シリルの記憶の中の街並みと変わっているところも多いが、それでもあちらこちらから聞こえるパタンパタンという機織りの音は変わらずで、やけに懐かしかった。
乗合馬車を降りたシリルは、懐かしい街並みを旅行鞄を手に歩く。
帰省するにあたり、ハイオーン侯爵は侯爵家の馬車を使って構わないと言ってくれたが、シリルはそれを丁重に辞退した。一目で貴族御用達と分かる馬車は、彼の実家のそばに停めると目立つからだ。
母はそういった目立ち方をすることを嫌う。だから、シリルはハイオーン侯爵家から与えられている質の良い服ではなく、地味な旅装をしていた。
艶やかなプラチナブロンドに濃いブルーの目、華やかな顔だち──見るからに貴族然とした容姿のシリルは、いつも周囲の子ども達からは浮いていた。
そのことをシリル本人よりも母の方がずっと気にしていたのを今でも覚えている。
母はいつだってシリルに父の面影を見て、怯えていた。いつか、シリルも父のようなロクデナシになるのではないかと。
シリルは帽子を目深にかぶり直し、視線を足元に落として歩く。
近所の人間に畏怖の眼差しや、奇異の目で見られることには慣れている。ただ、その視線が母に向けられることだけは我慢ならなかった。
* * *
シリルが育った家は、数年経った今も変わらず同じ場所にあった。ハイオーン侯爵はシリルの母に働かなくても暮らしていけるだけの金銭援助をしているはずだが、それでも母は昔と変わらない暮らしを続けている。
シリルはコクリと唾を飲み、扉の前に立ち尽くした。扉をノックしようと持ち上げた右手が、不自然に止まる。
もし、この扉を開けて「ただいま戻りました」と告げて……母に「ここは貴方の家ではないでしょう」と言われたらどうしよう。そんな考えが頭を過ぎる。
「……っ」
立ち尽くすシリルは悩みに悩んだ末、一つの結論にたどり着いた。
そうだ「お久しぶりです」と言えば良いのだ。これなら、自然に会話を繋げることができる。そうして、まずは母の出方を伺って……。
「あら、お帰りなさい」
背後から聞こえた声に、シリルはうっかり荷物を取り落としそうになった。
ギクシャクと振り向けば、背後にはホウキを手にした母が佇んでいる。どうやら家の周りの掃き掃除をしていたらしい。
シリルはあれこれ悩んでいたことも忘れ、慌てて口を開いた。
「たっ、たっ、ただいま戻りまし、たっ!」
これではモニカ・ノートンを笑えない。それぐらい無様にひっくり返った声だった。
母はどこかボンヤリした顔でシリルを見ていたが、ホウキを壁に立てかけて家の扉を開ける。
「寒かったでしょう。今、暖炉に火を入れるわ」
「わ、私が、やりますっ」
「そう? じゃあ、お願い」
当たり前のことを頼まれただけで。ただいまの言葉を拒絶されなかっだけで。
シリルは泣きたいぐらいホッとしていた。
* * *
久しぶりの実家は、外観同様にシリルの記憶と変わっていなかった。
部屋の隅には仕事道具の織り機があって、色とりどりの糸が美しく精緻な模様を描いている。
群青の生地に光沢のある糸で描かれた白い薔薇。薔薇は白一色だが、よく見ると微妙に光沢や色味の違う糸が数種類使われていて、立体感のある仕上がりになっていた。
暖炉に火が入ると、母は湯を沸かして茶を入れる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
猫舌のシリルが飲みやすい程良い温度の茶は、既に甘味がつけられていた。子どもの頃からシリルが好きだった味だ。
また一口啜れば、懐かしさに胸の奥が締めつけられる。
向かいの席に座った母は黙って茶を飲んでいたが、カップの中身が半分ぐらい空になると、少し硬い口調で言った。
「学園生活は、どう?」
シリルは緊張に背筋を伸ばした。
実家に向かう馬車の中で、ずっと母に何を話そうか考えていた筈なのに、いざ母と向かい合うと頭の中が真っ白になってしまって、言葉が上手く出てこない。
そもそも学園生活に関することはいつも手紙に書いてしまっているので、真新しい話題が思いつかないのだ。
シリルはカップをテーブルに戻し、思案する。
(そうだ。こういう時は殿下の話をしよう)
シリルはフェリクスのことなら、それこそ日が暮れるまで語り続ける自信があった。
フェリクスのことを熱く語るシリルを、エリオットなんぞはいつも、ものすごく残念なものを見るような目で見るが、エリオットは殿下に対する敬意が足りないのだとシリルは常々思っている。
「生徒会の仕事は順調です。今年度は会計の入れ替わりがあり、少々慌ただしくなりましたが、殿下の素晴らしい采配で全ての行事をつつがなく終えることができ、改めて殿下の優れた指揮能力に感服しております。特に、学祭の時の殿下の挨拶が……」
「殿下ではなく、貴方の話が聞きたいわ」
静かに落とされた言葉に、シリルは凍りつく。
そうしてしばし気まずそうに視線を彷徨わせた末に、シリルはぎこちなく口を開いた。
「……その、私の話など…………ほとんど、手紙に書いてしまったので」
「貴方の口から聞きたいわ」
母の言葉に、シリルは強張った顔で黙り込む。
幼い頃、街の学校に通っていた時は、テストの点が良かったこと、教師に褒められたことを得意げに母に話していたのに、今は自分の話を口にすることが怖い。
──お母様、今日は試験で百点を取りました。私が一番だったんです!
そうやって意気揚々と報告をする度に、母は溜息まじりに「そう」と呟き、目をそらすのだ。
手紙なら冷静に振り返って報告することができるのに、直接話すとなると途端に母の反応が怖くなり、シリルの舌は凍りつく。
だが、ずっと黙っているわけにもいかない。
それに、母には報告しなくてはいけないことがあるのだ。
「……今年の『新年の儀』に、私も連れて行っていただけることに、なりました」
冬至の翌日に行われる新年の儀とは、国中の貴族達が交互に城を訪れて、国王に挨拶をするものである。
この新年の儀、基本的に爵位を持つ者のみが参加し、その家族は留守番というのが通例だ。
ただし、いずれ爵位を継ぐ予定の嫡男に限っては、この式典に参加する風潮があった。いずれ、その嫡男が爵位を継いだ時のために、今から国王や他の貴族と面識を持っておくのだ。
そして、ハイオーン侯爵は今年の新年の儀にシリルを連れていくと宣言した。
それ即ち、養子であるシリルがハイオーン侯爵に後継者として認められたことを意味する。
侯爵家の養子となって数年が経つが、シリルはいつも不安だった。自分が頭脳の面でクローディアに劣っていることは誰の目にも明白。
せめて自分だけの特技を身につけようと魔術を学べば、魔力過剰摂取症を発病する始末。
自分が空回っている。期待に応えられていない。このままだと侯爵家に見捨てられるのではないか──そんな不安に、シリルはいつも追い詰められていた。
まぁ、ここ数ヶ月ほどは、そんな不安を感じる暇もないほど忙しかったのだが。主に世話の焼ける後輩のせいで。
ハイオーン侯爵に新年の儀の話を切り出された時、シリルは感動のあまり胸がいっぱいで、危うく泣き崩れそうにすらなった。それぐらい嬉しかった。
だが、同時に不安も胸にこみ上げてくる。
お母様がこの話を聞いたら、どんな顔をするだろう?
何度想像しても、記憶の中の母はため息まじりにこう言うのだ。
『あぁ、貴方はやっぱり、貴族の子なんだわ』
もし、また同じことを言われたら……そんな恐怖にシリルの指先が震えた。
母の顔を見るのが怖い。諦めたような顔で溜息を吐かれたら……自分はどうしたら良いのだろう。
俯くシリルに、母は静かにこう告げた。
「……頑張ったのね」
シリルの薄い肩が震え、俯いていた顔がゆっくりと持ち上がる。
向かいに座る母は、穏やかな顔をしていた。
「学園祭で私を案内してくれた子が言っていたわ。貴方がいつも仕事を丁寧に教えてくれる……優しい、って」
「………………え」
「貴方のそういうところを、ハイオーン侯爵は見てくださっていたのね」
滲む視界の端に映るのは、母の織り機。
母が織物をするところを見るのが好きだった。パタンパタンという音に合わせて、少しずつ綺麗な模様が生まれていくところを、幼いシリルはこの席からいつも見ていた。
『一つ一つコツコツと。丁寧に織ることが大切なのよ』
だから、シリルはコツコツと、一つずつ丁寧に頑張ってきたのだ。
初めてもらった「頑張ったのね」という母の言葉を、シリルは胸の中で反芻する。
そうして彼は泣き笑いのような顔で、それでも誇らしげに答えた。
「私は、貴方の息子ですから」