【番外編10】フェリクスの帰省
フェリクスが隣国ファルフォリアとの交渉を終えて、レーンブルグ公爵家を発つことになったのは、滞在して丁度十日目のことだった。
呪竜との遭遇という大事件こそあったものの──否、この騒動があったからこそ、貿易に関する交渉は恐ろしくスムーズに終了した。貿易拡大反対派だったファルフォリアのマレ伯爵が、呪竜撃退後は分かりやすく態度を軟化させたからである。
共に危機を乗り越えたことで、ファルフォリアの客人達はリディル王国側に対して、連帯感のようなものを感じたらしい。
今後は竜害対策に向けて、リディル王国とファルフォリア王国で情報共有等も視野に入れていきたい、とフェリクスが提案すると、ファルフォリア側の使者達は目の色を変えて食いついた。
竜害対策は現状では、国ごとに対応がまちまちであり、国同士が協力することは少ない。
だが、ここでリディル王国とファルフォリア王国が協力体制をとれば、竜害対策で他国をリードできるし、なによりファルフォリア王国と強固な同盟を結べる。
フェリクスは今回の外交で、小麦の輸入量を増やすだけでなく、ファルフォリア王国と同盟を結ぶチャンスも手に入れたのだ。この成果は大きい。
呪竜を倒して予言された竜害を未然に防ぎ、そして外交でも百点以上の結果を出したともなれば、第二王子派の貴族達はさぞ喜ぶことだろう。
(……まぁ、あの呪竜は、クロックフォード公爵の手による人災なのだけど)
城に戻る馬車の中、フェリクスは窓の外の景色をぼんやりと眺めつつ、レーンブルグ公爵家での出来事を思い出す。
数日前、レーンブルグ公爵家から一人の使用人が姿を消した。ピーターと呼ばれていた壮年の男は、フェリクスがこの屋敷に来た時から、目をつけていた人物だ。
恐らく、あの男が今回の呪竜騒動を仕組んだのだろう。フェリクスを英雄としてまつりあげるために。
(……本当は呪竜が私に倒されるシナリオだったけど、呪術が暴走してしまった。危うく私を死なせかけたピーターは、クロックフォード公爵に責められるのを恐れて逃げ出したってところかな?)
エリアーヌをはじめ、レーンブルグ公爵家の人々は、失踪したピーターのことを心配していた。
竜と間近で遭遇して以来、ピーターは酷く怯えていたらしいので、きっとそれで心を病んでしまったのではないか、というのがもっぱらの噂だ。
(まぁ、クロックフォード公爵としては、その方が都合が良いんだろうな。下手人の口止めをする手間が省けた)
誰もがクロックフォード公爵の掌の上で踊らされている。
そして、唯一クロックフォード公爵が意のままにできなかった国王は、少し前に病に倒れたという。
(……これは絶好の機会だ)
フェリクスはレーンブルグ公爵家を発つ寸前に、一通の手紙を受け取っている。
そこに記されている内容は、要約すると第三王子派が第二王子派に下ったというもの。
どうやら第三王子の母であるフィリス妃と、クロックフォード公爵の間でなんらかの取引があったらしい。
もとより第三王子派は少数勢力で、次期国王の座から最も遠い位置にあった。故に、フィリス妃は我が子の行く末を案じて、早々にクロックフォード公爵のもとに下ったのだろう。
そうすれば、第三王子は国王にはなれずとも、将来はある程度の身分が保証される。
国王は病に倒れた。
フェリクスは呪竜を倒した英雄として高く評価されている。
そして、第三王子派はこちら側についた。
フェリクス・アーク・リディルが次期国王になるための土台は、ほぼ完成していると言っていい。
あとは精々、クロックフォード公爵がやりそうなことと言ったら……。
(……第一王子を事故死に見せかけて、暗殺かな。いや、第一王子を殺すのは、私が国王になってからの方が都合が良いな……第一王子の死は、ランドール王国との戦争開始の狼煙となる)
まぁ、今ここで第一王子を殺さずとも、国内貴族の支持は第二王子派に傾いている。
フェリクスはただ、粛々と己の役目を果たせばいい。クロックフォード公爵に都合の良い傀儡として。
(それにしても、今回は個人的な収穫も大きかったな)
一つ目の収穫は、グレン・ダドリーとの交流。グレンの師〈結界の魔術師〉は第一王子派だが、グレン自身は特に政治闘争に興味はないらしい。
(彼の持つ莫大な魔力量は魅力だ。彼はきっと今回の事件を経て、成長する)
グレンは未来の七賢人候補だ。今から上手く手綱を握ることができれば、きっと将来役に立ってくれることだろう。
できれば、グレンとは今後も友好的な関係を築いていきたい。フェリクスはグレンの才能を高く評価しているし、あの裏表の無い人柄も割と気に入っているのだ。
そして、もう一つの収穫は……フェリクスは荷物の中から紙の束を取り出し、口元に淡い笑みを浮かべる。
それは〈沈黙の魔女〉に添削してもらったレポートだ。
公務や学園生活の合間にコツコツと書き溜めていたこれを、憧れの魔術師に見てもらえる日がくるなんて、まるで夢みたいだ。
(……なにより、今回は彼女に一歩近づけた)
〈沈黙の魔女〉はセレンディア学園にいる。
生徒か、教師か、或いはそれ以外の使用人か──いずれにせよ、絞り込むのはさほど難しくはないだろう。
〈深淵の呪術師〉が言うには、〈沈黙の魔女〉とグレン・ダドリーが受けた呪いは、痣は比較的早く消えるが、痛みはひと月ほど残るらしい。
ならば、女性で小柄で左手に負傷している人物を探せばいいのだ。
(……素顔の彼女に、もうすぐ会える)
堪えきれない喜びに、フェリクスの喉はクツクツと小さな音を立てて鳴った。
* * *
「お帰りなさいませ、兄上」
城に戻ったフェリクスを出迎えたのは、第三王子のアルバートだった。
アルバートは十四歳の利発そうな少年で、癖のない金髪にはしばみ色の目をしている。
フェリクスに対する態度こそ丁寧だが、年の割にキリリと鋭い目は油断なくフェリクスを見ていた。
「出迎えありがとう、陛下の容態は?」
「……あまり芳しくないとのことです。医師が言うには面会も難しいと」
「そう」
フェリクスが悲しげな顔を作ってみせれば、アルバートはそんなフェリクスのことを探るようにじっと見上げる。
クロックフォード公爵の手紙では、第三王子派は王位を諦めて、こちら側についたとのことだったが……。
(あぁ、この目は……そのことに、納得のいっていない目だ)
アルバートの母であるフィリス妃は、息子を次期国王に据えることを諦めたらしいが、肝心のアルバートはその事実を受け入れていないのだ。
フェリクスは碧い目を軽く細め、あくまで優しい兄の顔で言う。
「そうそう、お祖父様から手紙を貰ったんだ。なんでも今通っているミネルヴァから、セレンディア学園に編入するらしいね」
「……はい」
アルバートの顔が苦虫を噛み潰したかのように歪む。
ミネルヴァは魔術師養成機関の最高峰という点ばかりが注目されがちだが、もう一つ特徴がある。それは、政治的に中立であるということだ。
そんなミネルヴァに通っていた第三王子のアルバートが、何故クロックフォード公爵の息のかかったセレンディア学園に編入することになったか。
……それは第三王子がクロックフォード公爵のもとに下ったと、周囲に知らしめるためだ。
恐らく、アルバートが望んだのではなくフィリス妃が、そう仕向けたのだろう。
「可愛い弟と同じ学園に通うことができて、嬉しく思うよ。セレンディア学園は、施設も教師も授業内容も一流だ。フィリス妃の期待に応えられるよう、勉学に励むがいい」
フィリス妃の期待──それ即ち、王位継承権争いから身を引き、静かに余生を過ごしてほしいということ。
そのことをアルバートも分かっているのだろう。まだ己の感情を律しきれていないアルバートは、頬をひくつかせ、屈辱に身を震わせながら、それでも精一杯言葉を返した。
「……はい、兄上達のように立派な人間になれるよう、精進いたします」
アルバートの背後には、フェリクスに話しかけたそうにしている大臣達が控えている。これ以上、アルバートと話すこともないだろう。
フェリクスはアルバートに「楽しみにしているよ」と短く告げて、その横をすり抜ける。
大臣達と帰還の挨拶や今後の段取りについて話し合うフェリクスは、もうアルバートのことなど目にも入っていない。
そんなフェリクスを、アルバートは憎々しげに睨みつけていたが、やがて静かにその場を立ち去った。
* * *
静かにフェリクスの前を立ち去ったアルバートは、廊下の角を曲がったところで、バタバタと走り出した。
今までずっと背後に控えていた従者の少年が「アルバート様ぁ、廊下を走ってはいけませんよ〜」とおっとり窘めるも、頭に血が上ったアルバートの耳には届かない。
やがて、廊下が突き当たりになると、アルバートは足を止めて声を張り上げた。
「パトリック! パトリック!」
パトリックと呼ばれた従者の少年は、短く切った焦げ茶の髪を揺らしながら、のんびりとアルバートの元に歩いてくる。
アルバートは思わず地団駄を踏んだ。
「パトリック! お前はどうしてそんなにのんびりしているんだ! 主人が走っていたら従者も走るべきだろう!」
「廊下を走るのは良くないですよ〜」
正論である。だが、アルバートは「主人に口答えするな!」と膨れっ面をした。
やがて従者の少年が自分のもとに到着すると、アルバートは不貞腐れた子どもの顔で唇を尖らせる。
「見たか、兄上のあの態度」
「いつも通りでしたねぇ」
「僕のことなんて、どうでもいいと顔に書いてあった!」
「つまり、いつも通りでしたねぇ」
「こっちは兄上のせいで、ミネルヴァを転校させられたのに! 兄上と違って僕には魔術の才能があったんだぞ!? ミネルヴァにいれば、もっともっと優秀な成績を残すことができたんだ! それなのにぃ……っ」
アルバートがイライラと髪を掻き毟れば、ぐしゃぐしゃに乱れた金髪をパトリックはちまちまと直す。
アルバートはそんな世話焼き従者に命じた。
「パトリック、フェリクス兄上の学園生活について徹底的に調べろ。得意教科、苦手教科、趣味特技、仲の良い友人、婚約者候補、ちょっと人には言えないあれこれ、その他諸々! なんでもいい! とにかく徹底的に調べろ! もしかしたら、兄上の弱みが見つかるかもしれない!」
アルバートの命令に、パトリックはいつもと変わらぬのんびりした口調で「えぇ〜」と声をあげた。
「あの完璧なフェリクス様に、弱みなんてあるんでしょうか〜」
「それを探すのが、お前の仕事だパトリック!」
「はぁ〜、まぁ頑張ってみます〜」
のんびりおっとりした従者に踏ん反り返りつつ、アルバートは考える。
あぁまったく、面白くない。自分達の都合でアルバートを振り回す大人達も、自分のことなど敵ではないとばかりに見下す兄も。
アルバートは同年代の子ども達と比べて、非常に成績優秀だ。そりゃ確かに少しばかり運動神経が悪くて、剣を振れば的に当たらないし、馬に乗るのが怖いし、駆けっこは遅いかもしれないけれど、その分、勉強は人一倍頑張っているのだ。
それなのに、誰もアルバートに注目してくれない。まるで第三王子なんて、いてもいなくても同じだとばかりに……実際、いてもいなくても同じなのだ。第三王子など。
実を言うと、アルバートは上の兄、第一王子のライオネルのことはそんなに嫌いではない。寧ろ割と好きだ。ちょっと暑苦しい人物ではあるが、アルバートのことを何かと目にかけてくれるし、馬に乗れないアルバートを馬鹿にしたりしないで一緒に馬に乗せてくれるし。
だが、二番目の兄、フェリクスのことがアルバートはどうしても好きになれない。
(……みんなは、第二王子こそ次期国王に相応しいと言うが、あんな何を考えているか分からない人のどこがいいんだ? ……しかも、父上が倒れたというのに、顔色一つ変えないし)
陛下の容体が良くないと告げれば、フェリクスは悲しげな顔をしてみせたけど、その目はちっとも悲しんでいなかった。事実、その後彼は大臣達とさっさと打ち合わせに移ってしまった。
(そりゃ確かに、王族が感情的になるのは良くないかもしれないが、それにしたって、冷たすぎるじゃないか。ライオネル兄上なんて、動揺してご飯もろくに喉を通らなかったんだぞ)
二番目の兄は、なんだか不気味なのだ。綺麗な顔の下に、何かを隠している気がしてならない。
(だったら、僕がフェリクス兄上の本性を暴いてやる……休み明けからは同じ学園に通うんだ。これはフェリクス兄上の弱みを探るチャンスだ!)