表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サイレント・ウィッチ  作者: 依空 まつり
第10章「冬休み編」
131/236

【10ー19】ヴェネディクト・レインの娘

 レーンブルグ公爵家の滞在中に、ネロに新しい趣味が増えた。ずばり、風呂である。

 農村部では風呂と言えば蒸し風呂だが、都市部では比較的浴槽式の風呂文化が定着していて、大衆浴場なども備わっている。貴族階級ともなれば当然、屋敷に入浴設備を持っており、贅を尽くした風呂場は一つのステータスでもあった。

 レーンブルグ公爵家の風呂もその例に漏れず、非常に贅沢なつくりをしている。

 ネロは最初の内こそ風呂文化を理解できずにいたようだが、おっかなびっくり湯船に浸かって以来、すっかり風呂の虜になってしまったらしい。

 貴人達は身支度をする前、早朝に入ることが多いのだが、ネロは気兼ねなく風呂を占領できる、夜に風呂場へ通っている。

 今日も、ネロは夕食の後にいそいそと風呂場へ向かっていった。ネロは人間や猫に化けていても、その本質は竜なので寒さに弱い。雪がチラつく日もあるこの季節、体を温める風呂は至福のひとときなのだろう。

 よもやウォーガンの黒竜と恐れられた竜が、ウキウキしながら風呂に入っているなどと、誰が想像できただろうか。

(……それにしても、日に日にネロのお風呂の時間が長くなってる気がする……)

 風呂の温め直しや清掃など、維持には人手がいるのだ。あまり長湯をしては、使用人も迷惑に思うだろう。

 適当なところで切り上げるよう注意しなくては、と思いつつ、モニカは書きかけの報告書と向き合う。

 モニカが今書いているのは、王都へ送る報告書だ。

 呪竜が出現してから倒すまでの経緯を、モニカは七賢人として報告しなくてはならない。

 あの緑竜が「呪術」によって呪竜となったことは伏せたまま、モニカは狩り場で偶然呪竜と遭遇したこと、それをフェリクスと協力して撃退したことを記す。

(……あとは呪竜の死骸が、狩り場に残っていないことを、どう誤魔化すか……)

 夜中に呪竜が動き出していたことは、モニカとネロとフェリクスしか知らない。ならば、このことは伏せたままで良いだろう。フェリクスも夜中に屋敷を抜け出したことについて触れられたくはないだろうし、わざわざ夜中に呪竜が動いていたことを口外したりはしない筈だ。

 呪竜の体はネロの黒炎で焼き尽くしてしまい、骨の一欠片すら残っていないので、呪竜が移動していたことに気づく者もいないだろう。

 モニカの負傷についても、昼間気づかぬうちに呪いを受け、それが後から悪化したということにすればいい。

「……『呪竜の死骸は後に消滅。恐らく呪いに全身を喰われ、崩壊したものと思われる』……こんな感じでいいかな」

 もう少し呪竜について詳細を書き加えた方が良いだろうか、と羽ペンをインク壺に浸したモニカは、インク壺の中身が殆ど空になっていることに気がついた。新しい物に取り替えてもらう必要がある。

 モニカは空のインク壺を手に廊下に出ると、使用人の姿を探す。幸い、モニカが扉を開けたタイミングで男性使用人が通りかかった。ピーターと呼ばれている壮年の男だ。

「……おや、〈沈黙の魔女〉様、何かお困りですか?」

 有能な使用人である彼は、モニカがフードを被った頭をキョロキョロさせているだけで、使用人を探していることに気付いてくれたらしい。

 モニカが空のインク壺を見せると、すぐに察して空の瓶を受け取ってくれた。

「ご不便な思いをさせてしまい、大変申し訳ありません。すぐに新しい物をご用意いたします」

 ピーターはそう言って、姿勢良く一礼する。洗練された使用人の仕草だ。

 そんな彼を見ていたモニカの心に、何かが引っかかる。


(………………あ、れ?)


 どこかで彼を見た気がする。それも、この屋敷の中ではない場所で。

(どこ? どこで? 屋敷の外……狩り場にもいたと思うけど……そうじゃない、もっと違う、別の場所……)

 暗い森の奥で、モニカはこの男を見ている。


 ──否、見ていたのはモニカじゃない。


「──っ!?」

 ようやくモニカが「とある事実」に気づいた時、既にピーターはモニカに背を向けて廊下を歩き出していた。新しいインクを取りに行ったのだろう。

 モニカの左手は、蘇った記憶に反応するかのように痙攣していた。ガクガクと震える左手を右手で押さえ、モニカは険しい顔で室内に戻る。


 耳の奥で、激しく狂おしい憎悪の声が聞こえた気がした。



 * * *



「新しいインクをお持ちしました」

 ピーターが戻ってくるのに、さほど時間はかからなかった。モニカがベッドに腰掛けたまま、促すように文机を見れば、ピーターは察して、机の上に新しいインク壺を置いてくれる。

「他に何か、不足している物はありませんか?」

 ピーターの言葉に、モニカはゆっくりと立ち上がり……部屋の扉の鍵をかける。

「〈沈黙の魔女〉様……?」

 困惑顔のピーターに、モニカは静かに訊ねた。

「呪竜に一番最初に遭遇したのは……貴方と、エリアーヌ・ハイアット嬢の二人でしたね」

 屋敷に来てから常に沈黙を保っていたモニカが、喋ったことが驚きだったのだろう。

 ピーターはギョッとしたような顔をしつつ、おどおどと頷いた。

「は、はい……呪竜と遭遇したところを、ダドリー様に助けていただいて……」

「次の遭遇は、狩り場の休憩所。ここにも、貴方がいました」

「は、はい、エリアーヌお嬢様と一緒に避難して……」

「そして、三回目。貴方が知っているかは分かりませんが、呪竜はまだ動いていた。呪いに引きずられるようにして、この屋敷を目指していた」

 いつもの吃り癖は、出なかった。

 人間に対する恐怖よりも強い感情が、今のモニカを支配していたからだ。

 正しくは、この感情はモニカのものではない。


 ──呪竜の、憎悪だ。


「あの緑竜を……いいえ、正確にはあの緑竜の子どもを呪った呪術師は貴方ですね。だから、呪竜は貴方を追い回していた」

 ピーターの顔から血の気が引いていく。

 彼は口元をヒクヒクと震わせながら、それでも使用人としての体裁を保とうとしているらしい。

 あくまで丁寧な物腰で、ピーターはモニカに訊ねた。

「突然、何を仰るのですか……私は呪術なんて……」


「人体は、膨大な数字でできています」


 モニカの言葉に、ピーターは鞭で打たれたかのように体を震わせる。

 その目が限界まで見開かれ、信じられないものを見るかのようにモニカを見た。

「わたしは呪竜の記憶を見ています。その記憶の中で、幼い竜に呪いをかけて、殺した男の人の姿がありました」

 その男の顔は、ぼやけていてよく見えなかった。

 だが、その体をモニカは見ている。

「わたしは、人間の体のサイズを正確に言い当てる自信があります。呪竜が見た男性と、貴方の体のサイズは……ぴったり一致する」

 靴のサイズ、膝下の長さ、股下の長さ、胴体の長さ、腕の長さ、指の長さ、首の長さ──そして、全体の長さ。

 モニカはフードをかぶった頭をゆっくりと持ち上げて、ピーターの体のサイズを視認する。

 その数字は、呪竜の記憶にあった男のものと一致した。

 ピーターの全長を見るために顔を持ち上げたことで、モニカの顔が露わになる。

 幼さを残した、地味な少女の顔──その顔を目の当たりにした瞬間、ピーターの様子が一変した。

「ひっ、ひぃっ、ひっ、ぁあっ!?」

 何故、自分の顔を見てそんなに怯えるのだろう、とモニカは不思議に思った。

 ピーターの動揺ぶりは、まるで蘇った死者でも見ているかのようではないか。

「あ、あぁ、その言い回し……その顔……あぁ、そうか……」

 カチカチと歯を鳴らして、ピーターは悲鳴じみた声で叫ぶ。


「お前はヴェネディクトの娘だったのかっ!」


 モニカの思考が、一瞬停止した。

「………………え?」

 ヴェネディクト、それは確かにモニカの父の名だ。

 だが、何故、今の会話の流れで父の名が出てくるのか?

 そして何故、モニカがヴェネディクト・レインの娘であることを知っているのか?

 混乱するモニカだったが、ピーターの錯乱ぶりはそれ以上だった。全身に脂汗をびっしりと浮かべ、口の端に泡を噴きながら、ピーターはガリガリと己の顔を掻き毟る。

「あぁ、あぁ、死してなお、私を追い詰めようというのか、ヴェネディクト! これは、お前を閣下に売った私への復讐か……っ!」

 血走った目は、目の前にいるモニカを見てはいない。モニカではなく、ここにいない死者を見ている。

「あなたは……お父さんを、知っているんです、か?」

 モニカが思わず前のめりになると、ピーターは滅茶苦茶に手を振り回して、喚き散らした。

「近寄るなっ! 近寄るなぁっ!」

 ピーターは喉が裂けんばかりに叫んでいたかと思いきや、今度は痙攣する唇でいびつに笑う。

「あぁ、あぁ、どうせ閣下は私を逃しはしない……は、はは、はははははは、アーサーの二の舞になど、なってたまるか! 私は、私は、私は……ひひっ、ひはっ、はははははははっ!!」

 ピーターの体が突如ガクガクと震えだし、膝をつく。その右手がポケットの中に突っ込まれていることにモニカが気づいた時には、ピーターの体は右腕から漆黒に染まっていった。

 あれは緑竜に仕込まれたのと同じ呪いだ。

 呪術はモニカの魔術では侵食を止められない。なにより、呪いの侵食は恐ろしく速かった。食い止められたグレンとモニカが特別なのだ。魔力の低い者ほど、呪いの侵食は速い。

 瞬き二つほどの時間でピーターの全身は黒く染まった。

 全身を呪いに蝕まれた呪術師の成れの果て──その口元が震え、最期の言葉を紡ぐ。


「……あぁ、あぁ、ヴェネディクト……お前の執念が私を追いつめるのなら、私は冥府の底まで逃げ切ってやる」


 灰の塊がボロリと崩れるように黒い影はサラサラと崩れ、空気に溶けるように消えていく。

 カツン、と音を立てて床に何かが落ちた。漆黒の宝玉に金細工を施した装飾品──恐らく、あれが呪具なのだ。ピーターはポケットの中でこれを発動させ、自ら命を絶った。

「……どう、して……?」

 目の前の衝撃的な光景が、モニカにはすぐに理解できない。

 なによりピーターの遺した言葉が、モニカの混乱に拍車をかけた。

 モニカの父ヴェネディクト・レインの死に、ピーターは関係している。ピーターはモニカの父を誰かに売ったのだ。恐らくは……ピーターの言う「閣下」なる人物に。


 そして、その「閣下」とやらが、おそらく今回の呪竜騒動の黒幕。


 モニカは俯き、震える手で顔を覆った。

「なんで、竜を呪った呪術師が、おとうさんのことを、知ってるの?」

 指の隙間からのぞく緑がかった目は、どろり、どろりと淀んでいく。

「……あの人は、おとうさんの、死に、関わってる?」

 胸が苦しい。呼吸をする度に、死んだ呪術師の残滓を取り込んでいるような気がして、吐き気がする。

「……なんで? なんで、おとうさんは…………死ななくちゃ、いけなかったの?」

 呟く声に答える者はいない。真実を知る男は、目の前で呪いに喰われてしまった。

 ただ、一つだけ分かるのは……


(……誰かの都合で、お父さんは殺されたんだ)


 まぶたの奥にちらつくのは、父を燃やしていく赤い、赤い、赤い炎。

 耳の奥に蘇るのは、父を断罪する執行人の声。


 ──この者、ヴェネディクト・レインは、秘密裏に一級禁術研究をおこない、国家の転覆を謀った。よって、ここに火刑に処す。


 ──我らが偉大なる精霊神の火に焼かれ、その身に宿し罪を浄化するが良い。


(お父さんは、罪人なんかじゃない)

 モニカはフゥフゥと荒い息を繰り返しながら、ピーターが遺した呪具を睨む。

 これはきっと、真実を手に入れるための鍵だ。

 父は何に巻き込まれたのだろう? 何故、父が死ななくてはいけなかったのだろう?

「………………おとうさん……待ってて」

 モニカは効力を失った呪具を拾い上げ、小さな手の中に握りしめる。

 木に括られた父に石を投げる人々に、父の本を燃やす大人達に、父を罵る叔父に、モニカは何度も叫んだ。お父さんは悪くない、と。

 だが、向けられる悪意の視線と暴力に、モニカの声はどんどん尻すぼみになり……最後は逃げるみたいに黙って俯いてしまった。

 でも、今のモニカはもう幼い子どもではない──七賢人〈沈黙の魔女〉なのだ。



「……わたしが、おとうさんは、罪人じゃ、ないって………………証明する、から」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ