【10ー10】起死回生の一手
遠くの空で大きな炸裂音がした瞬間、誰もが空を見上げた。
「おい、あれはなんだっ!?」
真っ先に声をあげたのは、ファルフォリアの客人であるマレ伯爵。
少し遅れて、バロー伯爵が「翼竜?」と口にした。
だが、目の良い者はすぐに気づく。その黒い影は明らかに翼竜より体が大きい──即ち、上位種であると。
客人達が、竜だ竜が出た、とざわめく中、フェリクスは冷静に一同に声をかける。
「落ち着いてください。見たところ、こちらに近づいてくる気配は無い。ただ、念のために休憩所に戻りましょう。ご婦人方が不安がっているかもしれない」
フェリクスの冷静な言葉に、一行は少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
だが、モニカは嫌な予感にローブの胸元を握りしめる。
先ほど聞こえた炸裂音は炎の攻撃魔術によるものだ。ネロはその手の魔術を使えないから、あの魔術を使ったのは恐らくグレンだろう。
モニカは自分達の現在位置と休憩所までの距離、方角を素早く計算する。
(炸裂音が聴こえたのは休憩所とは違う方角だった……グレンさんが単独行動? ネロは何をしてるの?)
モニカの疑問に応えるかのように、休憩所の方角からレーンブルグ公爵家の使用人が馬を飛ばしてやってくる。使用人は「馬上から失礼」と一言断り、声を張りあげた。
「バーソロミュー・アレクサンダー様より伝言です! 『やべぇのが近づいてきてる』とのことです!」
いかにもネロらしい雑な伝言である。
危険が迫っているから、どうするかはモニカが決めろ、といったところか。
フェリクスが苦笑まじりに伝言役に話しかけた。
「……バーソロミュー氏は、具体的に何が近づいているとは言っていなかったのかい?」
まぁ、十中八九竜だろうけど、とフェリクスが呟けば、伝言役は戸惑い顔で歯切れ悪く答える。
「……竜に限りなく近い形をした『何か』と仰っていました」
その言葉に、モニカは違和感を覚える。
ネロの感知能力は、それなりに高い。竜なら竜と断言する筈だ。それなのに、竜に限りなく近い形をした『何か』という曖昧な表現をした理由が気になる。
ますますひどくなる胸騒ぎに、モニカはフェリクスの服の裾を引いて、休憩所の方を指さした。
モニカが言いたいことを察してくれたのか、フェリクスは力強く頷く。
「えぇ、一度休憩所に戻りましょう」
* * *
休憩所まで引き返すと、そこは大変な大騒ぎになっていた。
使用人達は恐慌状態だし、エリアーヌは啜り泣いている。そして地面に寝かせられているグレンは、青白い顔でぐったりとしたまま動かない。
そんな状況の中、普段はおっとりとしているレーンブルグ公爵夫人が、テキパキと使用人達に指示を出していた。
「王都に至急の遣いを出しなさい。主人の名前を出しても構いません。何かあったら、わたくしが全ての責任を負います。そこのお前は屋敷に先に戻って、医師の手配と騎士団に要請を……エリアーヌ、いつまで泣いているのです。おまえが泣いていたって状況は何も変わりませんよ。できることが無いのなら、せめて邪魔にならぬよう馬車の中にでもいなさい」
公爵夫人のピシャリと鋭い言葉に、エリアーヌはとうとう声をあげて泣き崩れた。
普段から影の薄いレーンブルグ公爵がうろたえながら、妻のもとに駆け寄る。
「お、おまえ、これはいったい……何があったんだ」
「呪竜ですわ、あなた。ダドリー様がエリアーヌを庇って呪いを受けました」
呪竜という言葉に場の空気が凍りついた。
呪竜は半ば伝説のような存在だ。実際にそれを目の当たりにした者は、少なくともこの場にはいないだろう。
だが、呪竜によって街が複数滅んだという事実は、今も人々に語り継がれている。
呪いというものの存在については、現代に至っても未だに全容が明らかになってはいない。自然発生する「呪い」はあまりにもサンプルケースが少ないからだ。
魔術の応用で人工的に「呪い」を作り出す技術を「呪術」と言い、少ないながら呪術師は存在する。七賢人の一人〈深淵の呪術師〉の家系がそれだ。
だが、基本的に呪術は準禁術扱いである。
拘束された犯罪者の逃走防止や、釈放された一部の罪人の再犯防止策として、国の許可の元に使用されることはあるが、基本的に誰にでも扱えるものではなかった。
──つまるところ、七賢人のモニカですら「呪い」に関する知識は殆ど無い。
「おぅ、帰ったか」
グレンの様子を見ていたネロが、モニカの乗っているフェリクスの馬に駆け寄ってくる。
フェリクスは馬の上から、ネロに訊ねた。
「危険を教えてくれて、ありがとう。ダドリー君の容態は?」
「すっげーやべぇ。普通の人間ならとっくにくたばってるぜ。ただ、潜在魔力量が多いから、辛うじて呪いに対抗できてるって感じだ。絶対に触るなよ。触ると感染る」
「……それなら、ダドリー君をどうやって運ぶんだい?」
「オレ様なら触れるんだよ。詳しいことは『きぎょーひみつ』だ」
フェリクスとネロのやり取りを聞きながら、モニカは必死で「呪い」について理解しようと、思考を巡らせる。
(竜だけでなく人体にも寄生する? ううん、寄生というより、餌としてグレンさんを取り込もうとしているのを、グレンさんの魔力がギリギリで防いでいる状態……それはつまり呪術は魔力である程度防げる性質があるということ。でも恐らくただの防御結界じゃ完全には防げない。専用術式を組むとしたら、呪術は闇属性魔術に近い性質を持つものだから……)
「……レディ?」
フェリクスが背後から心配そうに声をかけるも、モニカの全意識はグレンの体を蝕む影に向けられていた。
だが、その思考はピーターの悲鳴で中断させられる。
「りゅ、りゅりゅ、竜だぁーーーっ! うわああああああああああっ!」
ピーターが指さした先には、飛翔する黒い影があった。やがて、その影は恐ろしい速さでこちらに急降下してくる。
黒い影に全身を蝕まれた緑竜は、凄まじい咆哮をあげて翼を翻した。人間など容易く吹き飛ばせるほどの強い風が一行を襲う直前、モニカは無詠唱で防御結界を張る。
だが、この防御結界では竜の攻撃を防げても「呪い」は防げない。
モニカの懸念通り、緑竜の体を這う影がゆらりと浮かび上がり、そして鋭い槍のように形を変えて、頭上から降り注いだ。黒い影は、モニカの張った防御結界を容易くすり抜ける。
ファルフォリアの客人が、レーンブルグ公爵家の人間達が絶望の悲鳴をあげる中、モニカはたった今考えたばかりの魔術式を起動した。
(お願い、効いて……っ!)
それは対呪術用にモニカが即興で作り上げた防御結界だ。
理論は穴だらけで検証すらしていない術を実戦で使うなんて、いつものモニカなら絶対にやらない。
だが、今はなりふりなどかまっていられないのだ。
一か八かの防御結界は正しく起動し、黒い影をはじき返した。効いている。効果があったのだ。
人々は自分たちが九死に一生を得たことを悟り、わぁっと喜びの声をあげたが、モニカはこの絶望的な状況に青ざめていた。
(ダメ、このままじゃ……攻撃ができないっ!)
モニカが同時に発動できる魔術は二つまで。
そして今、モニカは竜の攻撃を防ぐための通常防御結界と、呪いを防ぐための防御結界の二つを起動している──つまり、今のモニカは攻撃ができないのだ。
周囲には猟銃を持っている者もいるが、通常防御結界が邪魔をしてしまい弾丸が通らない。
この状況では、結界の外から攻撃魔術を発動する方法でないと攻撃ができないのだ。
そしてこの場で竜に致命傷を与えられるだけの攻撃魔術を使えるのは、恐らくグレンのみ。そのグレンは意識を失っている。
(攻撃の手が足りない……っ!)
黒い影は勢いを弱めるどころか、じわじわとモニカの結界を侵食しつつある。
対「呪い」用の結界は、即興で作った結界だ。当然に綻びが多い。このままでは押し負けるのは時間の問題だろう。
(ルイスさんなら二つの結界を一つにまとめるぐらいできたし、結界の強度も、もっと頑丈にできたのに……っ!)
防御結界のスペシャリストである〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーは、一つの防御結界に複数の効果を付与する天才である。ルイスなら、モニカが使っている防御結界を一つにまとめて、空いた手で攻撃魔術を使うことができただろう。
モニカの無詠唱魔術の強みは、即時発動できることにある。故に先手を取ると、この上なく強力なのだが、後手にまわり防戦一方になってしまうと優位性が失われる。今がまさにその状況だ。
(それでも、なんとかしなきゃ……わたしは…………わたしは、七賢人なんだから。〈沈黙の魔女〉なんだから……っ)
せめてこの場から、みんなを逃がしたい。
だが、モニカが張っている結界はドーム状の結界だ。つまり、この場にいる人間は結界に守られていると同時に、結界に妨害されて逃げることができなくなっているとも言える。
(結界の範囲を後方に広げて、少しでも離れてもらう? でも、これ以上範囲を広げると、対「呪い」用結界の強度がもたない……通常防御結界を一瞬だけ解除して、そこから攻撃魔術を使う? でも、緑竜の風の刃は、防御しないと死傷者がでる……っ)
それは、チェスで手詰まりになった時に似た絶望感だった。
思いついた手を一手一手考察していくが、どうしても敵をチェックするには届かない。
更に悪いことに、モニカとフェリクスの乗る馬が興奮し始めていた。今まではフェリクスが宥めていたが、巨大な生き物が迫りくる恐怖に、そろそろ耐えられなくなってきたのだろう。
このまま馬が暴れだしたら、モニカは馬から振り落とされ、集中力が途切れると同時に結界も消えて無くなる。
そうなれば漆黒の呪いは雨のように降り注ぎ、この場にいる者の命を奪うだろう。
(なにか、なにか、手は……っ)
そんな絶望的な状況の中で動きだしたのは、モニカの背後のフェリクスだった。
「レディ、通常防御結界を部分的に解除することは可能ですか? こぶし一つ分でいい」
そう言いながら、フェリクスは背負っていた猟銃を構えた。
フェリクスがやろうとしていることに気づいたモニカは、その無謀さに息を飲みつつ、フェリクスの言葉に頷く。
フェリクスはこんな状況でも、生徒会室で見せるのと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
「レディ・エヴァレット……少々の騒音、ご容赦を」
フェリクスが猟銃を構え、狙いを定める。
「……眉間を狙います」
モニカは瞬時に猟銃の角度から弾丸の軌道を計算し、弾丸が通るよう、こぶし一個分だけ結界に穴を開けた。
フェリクスが息を止め、引き金に指をかける。
ダァン、という強い音がすぐそばで響き、モニカは一瞬体を竦ませた。鼻を擽るのは硝煙のにおい。
モニカが結界を維持しながら頭上を見上げれば、竜の動きが止まっていた。
急所である眉間を射抜かれた緑竜が、断末魔の雄叫びをあげる。
(………………え?)
緑竜の雄叫びを聞いたモニカは、思わず目を見開き緑竜を見た。
だが、その時にはもう緑竜は物言わぬ骸となって、地に落ちている。
緑竜の体を這いまわっていた黒い影も、宿主である緑竜の死と共に動きを止めた。
フェリクスは銃口から漂う硝煙の煙がモニカの顔にかかりそうになるのを見て、ふぅっと銃口に息を吹きかける。
「私を信じていただき、ありがとうございます。レディ・エヴァレット」
フェリクスの甘やかな声も、人々の歓声も、モニカの耳には届いていなかった。
モニカの頭の中は、竜が最期に残した「言葉」でいっぱいだったのだ。