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サイレント・ウィッチ  作者: 依空 まつり
第10章「冬休み編」
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【10ー9】災厄と化したモノ

 レーンブルグ公爵領は竜害が多いとされる東部地方ではあるが、それでも他領と比べると比較的竜害は少ない。

 精々、年に数回、群れからはぐれた草食竜が人里に迷いこむぐらいだ。大型竜が出没したことは、エリアーヌが生まれてから数回しかない。

 だから、エリアーヌにしてみれば、竜よりも熊や猪の方がよっぽど身近な脅威だ。

 この森は、そういった大型の獣も少ないから散策するには最適だった。

 大型の獣は、たまに鹿が出るぐらいである。鹿もそれなりに凶暴な生き物ではあるのだが、ピーターが猟銃を持っているから遭遇しても追い払えるだろう。

(あぁ、ここでばったりフェリクス様とお会いしたら、どんなに素敵かしら。フェリクス様は少し驚いた顔をするけれど、すぐに微笑んで「エリアーヌ、こちらにおいで」ってわたくしに手を差し伸べてくださるの。わたくしは、最初は戸惑うのですけれど、フェリクス様の手を取って……そしたら、フェリクス様はちょっと強引にわたくしを抱き上げるのよ。そして恥じらうわたくしに「しっかり掴まっていないと危ない」と言ってくださって、わたくしはフェリクス様の胸におずおずと手を伸ばし……)

 心地よい夢想にエリアーヌがうっとりしていると、馬が唐突に足を止めた。

「……あら、どうしたの?」

「わかりません。馬が急に怯えだして……」

 ピーターが馬の様子を確かめるが、どこかを怪我した様子はない。ただ明らかに興奮し、何かに怯えている。

 近くに大型の獣がいるのかもしれないと判断したのか、ピーターが念のために猟銃を構える。

 しかし森の中はとても静かで、大型動物が草をかき分ける特有の音は聞こえてこない。

 強い風が吹き、エリアーヌのスカートの裾を揺らした。日が陰ってきたのか少し肌寒い。

 雲の様子を確かめようと、エリアーヌは首を傾け……そして、絶句した。

「…………え?」

 日差しを遮っているのは雲ではなかった。大きな何かが木々の上を旋回している。その巨体のシルエットに、エリアーヌの背すじは凍りついた。

「…………竜」

 飛行を得意とする竜と言うと、真っ先に思い浮かぶのは翼竜だ。翼竜の大きさは大体牛と同じぐらい。

 だが、頭上の竜はその倍ぐらいの大きさがあった。見るからに硬質そうな厚い鱗は、鮮やかな新緑色をしている。

「緑竜……上位種だわ……」

 エリアーヌの呟きに、ピーターも頭上を見上げた。彼は青ざめながらも従者としてなすべきことをすべく、馬の手綱を引く。だが、怯えた馬は一歩も動こうとしない。それどころか、下手に刺激すると暴走してしまいそうだ。

「エリアーヌ様、一度馬から降りてくださいっ」

「で、でも、馬に乗って逃げた方が……」

「竜と遭遇した馬は、高確率で暴走します! 横座りの鞍では振り落とされるっ!」

 エリアーヌは慌てて手綱を手放し、スカートを押さえて馬から降りようとした……そのタイミングで、頭上の竜が甲高い声で鳴く。

 竜の鳴き声に怯えた馬が嘶き、前足を高く持ち上げた。バランスを崩したエリアーヌが馬から転げ落ちると、ピーターがエリアーヌの手を引いて、馬に蹴られぬよう距離を開ける。

 その時、一際強い風が吹いた。緑竜がこちらに向かって急下降してきたのだ。ピーターとエリアーヌが慌てて木陰に隠れると、竜の鋭い爪が暴れる馬の胴体にめり込む。

 竜の爪は頑丈な鞍ごと馬の胴体を握り潰した。馬の断末魔の鳴き声に、エリアーヌは咄嗟に耳を塞いで目を背ける。そんなエリアーヌの腕をピーターが強い力で引いた。

「ここを離れましょう、今すぐ」

「ま、待って。下手に動くより、隠れた方が……っ」

 竜は馬の亡骸を貪るでもなく、ただ八つ当たりのように切り刻み、すり潰している。その様子は明らかに尋常ではなかった。

 そもそも、上位種の竜は下位種と違い知性がある。故に、無闇に人間を襲ったりはしないはずなのだ。

 なのに、何故あんなにも緑竜は荒れ狂っているのだろう。

 そうっと緑竜の様子を眺めたエリアーヌは、違和感を覚えた。

 緑竜の美しい新緑色の鱗の上に、黒い影のようなものが浮かび上がっているのだ。最初はただの影かと思ったが、その影は大蛇のように緑竜の体の上を這いずっている。その様子は明らかに尋常じゃない。

 エリアーヌは体の上に影を這わせる竜など見たことが無い。だが、それが何を意味するのか、昔話で見たことがあるから知っている。


 ──あの影は竜を蝕む「呪い」だ。


 呪い持ちの竜。それ即ち、竜害の中でも黒竜に並ぶ最悪の存在……呪竜である。

 竜の体を這っていた影の一部が蛇のようにぬらりと浮かび上がり、馬の亡骸に絡みつく。すると、みるみる内に馬の亡骸の全身が黒く染まっていった。

 そうして黒く染まった亡骸はやがて、蛇のような影と溶け合い混ざり合う──エリアーヌは直感で理解した。あの馬は呪いに「取り込まれた」のだ。

「ピーター、あぁ、ピーター……」

「ひっ、ひぃっ、あ、あぁ……次は、私の番だ……次は……次は……あぁっ」

 ピーターは親指の爪をガリガリと噛みながら、反対の手で髪を掻き毟っている。錯乱しているのだ。

 頼りになる大人がパニックになれば、その恐怖と混乱はエリアーヌにも伝染する。

「いや、いやよ、いや、いや、こんなところで、こんな、いやぁっ! ……死にたくない……っ!」

 馬を取り込んだ影は、スルスルと緑竜の体に戻っていく。緑竜の太い首がゆっくりとエリアーヌ達の隠れている木を睨んだ。緑竜が次の獲物に狙いを定めたのだ。

(大丈夫、大丈夫、このあたりは木々が密集して狭いから、体の大きい竜はやってこない……っ)

 だが、エリアーヌの微かな希望を、緑竜は羽の一振りで打ち壊す。緑竜が分厚い皮膜を持つ羽を上下させれば、不可視の刃が周囲の木々を切り倒した。

 緑竜は風の眷属。人間の魔術師が風の刃を操るように、緑竜もまた魔力を操り、風の刃を自在に操ることができるのだ。この能力こそ、緑竜が上位種たるゆえんである。

「いやぁっ! ……ひ、ひぅ……ぅ、ぁあ……っ」

 緑竜の体を這う黒い影が再び浮かび上がり、エリアーヌ達に這い寄る。あの影は「呪い」そのもの。それに触れたら……その末路をエリアーヌはたった今、目にしたばかりだ。

 緑竜がつんざくような声で鳴いた。その声は、まるでエリアーヌの醜態を嘲笑っているかのよう。

「い、いやぁぁあああああああっ!」

 エリアーヌが震える足で立ち上がり、その場を逃げ出そうとした時、緑竜が羽を一振りした。強い風がエリアーヌの体を地面に叩きつける。もう逃げられない。

 緑竜の体の上を這う黒い影が、ゆらりと浮かび上がってエリアーヌとピーターに狙いを定める。取り込まれる。


「エリー!! ……と、使用人のおじさんっ!」


 力強い腕がエリアーヌの体をすくい上げるように持ち上げ、小脇に抱えた。

「怪我はないっスか!?」

 低空飛行でエリアーヌを救出したのはグレンだった。

 グレンはエリアーヌと同じ要領でピーターを小脇に抱える。

 右手にピーター、左手にエリアーヌ。いかにグレンが若くて体力があっても、相当辛いのだろう。グレンの顔は真っ赤だ。

 それでも、二人を落とさないようにしっかりと抱えたまま、グレンは木々の隙間を縫うように飛ぶ。木よりも高く飛ぶと、飛行能力の高い緑竜の的になりやすいからだ。

 緑竜は大きく羽を羽ばたかせて飛び上がると、木々の上からグレン達を追尾した。そして、その体から黒い影を触手のように伸ばす。

 飛行魔術は馬に負けないぐらいの速さが出るはずだが、今のグレンの飛行スピードは走るのよりやや速いという程度だった。恐らくエリアーヌとピーターを抱えているせいだ。以前、学祭の舞台で抱き抱えられた時と比べて、明らかにふらついている。

 すぐ真後ろに迫る影に、ピーターが悲鳴をあげた。

「あ、あぁぁっ、追いつかれるぅぅぅっ!!」

 影がピーターとエリアーヌの足に触れようとしたその瞬間、グレンは喉も裂けんばかりに咆哮した。

「っだぁあああああああああっりゃあああああっ!」

 グレンは全身の力を振り絞り、エリアーヌとピーターを近くの茂みに投げ飛ばした。エリアーヌとピーターは、ゴロゴロと苔むした地面を転がる。

「きゃぁっ!?」

「ひぃぃぃっ!?」

 茂みの枝や硬い葉が、エリアーヌの柔い肌を傷つけ、ふわふわの髪に絡まる。痛い。

 この扱いには、一言文句を言ってやらねば、と起き上がって顔を上げたエリアーヌは見た。


 エリアーヌとピーターを逃したグレンの足を黒い影が絡めとる。

 その影は足首から這い上がり、彼の全身に絡みついた。

 飛行魔術で浮いていた彼の体が、矢で射落とされた鳥のように、ボトリと力なく地に落ちる。



「あっがぁっつっうぅぁああぐぅぇぁああああっああっああ、がうぁあああああっ!!」



 血を吐くような絶叫がグレンの口から溢れ出す。その体は黒い影で、まだらに染まっていた。

 あの馬のように、グレンの体が呪いに取り込まれようとしているのだ。

 いつも快活に笑うグレンの顔は、苦悶に歪んでいる。

 エリアーヌはその光景を、カタカタと震えながら見つめることしかできない。

(いや、いや、こんなの、いやぁ……)

 グレンの体は、既に半分ほど影に飲まれていた。その目は焦点を失い、口がパクパクとか細い声を漏らす。それは苦悶の声ではない。


 ──「詠唱」だ。


「……ぐぅ、っ……も、ぇ、ろぉっ!」


 グレンの手のひらに火球が生まれる。ガクガクと痙攣する手が上空の緑竜を示せば、火球は緑竜目掛けて加速した。

 耳が痛くなるような炸裂音と、目を開けることすらできない閃光。

 エリアーヌは痛む目を無理やり開いて、グレンを見た。

 グレンは体の半分ぐらいを影に浸食されたまま、ぐったりと地面に倒れている。

 グレンを蝕んでいた影は、その一部をグレンに残したままグレンの体を離れると、スルスルと緑竜の体に戻っていった。

 緑竜はグレンの火球の直撃を食らってもなお健在だ。竜の鱗は炎に強く、基本的に炎の魔術は効きづらい。

 それでも火球に脅威を感じたのか、呪いを纏った緑竜は一度大きく旋回し、この場を離脱した。

 ピーターはヒィヒィと喉を鳴らしながら「た、助かった……?」と呟いている。

 エリアーヌはピーターには目もくれず、震える足でグレンに近寄った。

「グ、グレン、様……っ?」

 返事はなかった。グレンの体はピクリとも動かないのに、呪いの残滓の影だけが、うぞうぞとグレンの体を這いずり回っている。

「いや……いやよ……ねぇ、だいじょうぶ、なのでしょう? おきて、おきて……」

「そいつに触るなっ!」

 鋭い声と同時に、誰かがエリアーヌの首根っこを掴んだ。まるで猫の子でも扱うかのようにエリアーヌを掴んでいるのは、黒髪に長身の男──〈沈黙の魔女〉の従者、バーソロミュー・アレクサンダーだ。

「はな、はなして、グレンさまが……グレンさまが、わたくしたちを、かばって……」

「こいつは今、呪われてんだ。触ったら呪いが感染るぞ」

「でもっ、でもぉ……このままじゃ……グレンさまが、しんで、しま……っ、うぅっ……ぅっ、ひぐっ……」

 とうとう啜り泣き始めたエリアーヌに、バーソロミューは嫌そうに顔をしかめた。

 彼はエリアーヌから手を離すと、グレンの前にしゃがみ込み、グレンの全身を蝕む影の様子を観察する。

「魔力量が少ない奴だと、すぐに『食われ』ちまうもんだが……あぁ、やっぱこいつ、人間にしちゃ魔力量が多いんだな……もしかしたら、うちのご主人様より多いんじゃね?」

 バーソロミューはブツブツと呟き、グレンの体を這う影に指先でチョンチョンと触れた。

 影はバーソロミューの指を這い上がるかと思いきや、どういうわけか、その指を避けるような動き方をする。

「ん、よし、オレ様なら触っても大丈夫だな」

 バーソロミューはグレンの体を雑に肩に担いで立ち上がると、エリアーヌとピーターを交互に見た。

「とりあえず、安全なところに戻るぞ。それと屋敷に戻ったら呪いの専門家を呼べ。これは素人の手に負えるブツじゃねぇ」


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