【10ー6】「秘伝の三番」の行方
レーンブルグ公爵家の厨房は、てんやわんやの大忙しだった。なにせ今日から遠方の学園に通っていた令嬢が帰省するのみならず、王族が滞在しているのである。
しかも今日の忙しさは、まだまだ前哨戦。明日か明後日には隣国の使者も訪れるのだ。当然、毎日のように豪華な食事を用意しなくてはいけない。
初日の晩餐会を終えた厨房は、一つの戦いを終えたような空気に包まれていた。無論、片付けや明日の仕込みなど、やるべきことはまだまだあるけれど。
「フェリクス殿下は、今夜の晩餐をお気に召してくださったらしい。明日もこの調子で頼む」
給仕を務めた使用人のピーターが厨房に告げれば、厨房の料理人達は一斉に胸を撫で下ろした。
そんな料理人達に、ピーターは淡々と告げる。
「それとエリアーヌお嬢様が、フェリクス殿下にお届けする飲み物を用意してほしいと」
「殿下に? 上物のワインで良いですかね?」
料理人の言葉にピーターは首を横に振り、神妙な面持ちで一言。
「……『秘伝の三番』を」
その一言に、使用人達の間に衝撃が走った。
秘伝の三番……口当たりの良い果実水に、度数の強い酒と催淫効果のあるスパイスをブレンドしたその飲み物は、公爵夫人が夜のお誘いをする時に用意させる、とっておきである。
「あの小さかったお嬢様が遂に……」
「そうか……エリアーヌお嬢様が……」
使用人達は各々感慨深げな顔をしながら、可愛らしいお嬢様のために、とっておきの飲み物を用意するのだった。
* * *
式典などの正装の場で、帽子などの被り物はご法度だが、三つだけ例外がある。
それが国王の冠、聖職者の聖帽、そして魔術師のフード付きローブだ。
かつて魔術とは王族、貴族の間だけで独占されていた技術であり、王族も貴族も魔術師の存在を秘匿したがっていた。それ故、一昔前まで魔術師は顔を隠すのが正装だったのだ。
今では古い慣習は廃れ、正式な場で顔を露わにする魔術師の方が多い。だが、魔術師にとってローブのフードを被ることこそ正装であるという認識は今も根強く残っている。モニカが式典などで顔を隠していられるのもそのためだ。
……が、流石に晩餐会でもそれは、あまりに不自然である。
なのでモニカは晩餐会の席を辞退し、晩餐会中は護衛に徹した。
フェリクスが「レディも一緒にいかがですか」と声をかけたり、グレンが「オレと交代でご飯食べたら良いっスよ!」と気を遣ってくれたりもしたが、モニカは頑なに断り、晩餐会中はネロと共に壁際に控えていた。
「……つ、疲れたぁ……胃が……胃がキリキリする……ぅ」
部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだモニカに、ネロが夜食用にと貰ってきたパンやらチーズやらを机に広げながら言う。
「まだまだ初日だぜ。ここでバテてたら、もたねぇぞ」
ネロはチーズを口に放りこみ「おっ、良いチーズだな」とご機嫌である。まったく、誰のせいで疲れたと思っているのか。半分ぐらいはネロの振る舞いが原因だというのに。
モニカはベッドの上をコロコロと寝転がって、ネロを恨めしげに見上げた。
「……ネロが殿下と顔見知りだったなんて、わたし、聞いてない」
「別に大した話をしたわけじゃねーよ。ヒンヤリ兄ちゃんを引き渡して、世間話しただけだって」
「……本当に、わたしの正体はバレてないん、だよね?」
「おぅ、なんかトカゲを使ってオレ様のことを探ろうとしてたけど、すぐにつまみ上げてやったぜ」
「……トカゲ?」
トカゲとは一体、何のことだろう?
モニカが怪訝そうな顔をすると、ネロはハムとチーズを挟んだパンを齧りながら、ふがふがと口を動かした。
「はのほーひほ、へーやふへーれーひゃろ」
「……ネロ。ゴックンしてから、もう一回言って」
モニカが呆れ顔でそう言った時、部屋の扉がノックされた。
こんな時間に誰だろうと思いきや……。
「レディ・エヴァレット。就寝前にすみません。少し、お時間よろしいですか?」
扉の向こう側から聞こえたのは、フェリクスの声だった。
モニカは困り顔でネロを見上げる。ネロもパンをゴクリと飲み込んでモニカを見た。
「どーすんだ? 追い返すか?」
「追い返せるわけないでしょ。お通しして……くれぐれも、失礼のないようにね?」
ネロは「へいへい」と雑に相槌を打つと、モニカがフードをかぶり直したのを確認して扉を開ける。
廊下に佇んでいるフェリクスは寝間着ではないけれど、いつもより装飾の少ない簡素な服を身につけていた。腕に大きめのバスケットをぶら下げている。
フェリクスは扉を開けたのがネロだと気づくと、少しだけ驚いたような顔をした。
「……アレクサンダー氏も、レディと同室なのかい?」
「当たり前だろ。オレ様、従者だもん。それより、こんな時間に何の用だよ?」
ネロが下顎を突き出して威嚇すると、フェリクスは腕にぶら下げていたバスケットを軽く掲げた。
バスケットには飲み物の瓶や、小ぶりのホーロー鍋、それとフルーツケーキが詰め込まれている。
「レディ・エヴァレットは晩餐会に参加していないし、その後も何も食べていないように見えたから、厨房に頼んで簡単な夜食を用意してもらったんだ」
ネロは目をキラリと輝かせた。
「お前はいい奴だ。入れ」
ネロの返答には、モニカの意見が何一つ反映されていない。だが、元より追い返すつもりも無かったので、モニカはそそくさとフェリクスの椅子を用意した。
フェリクスは礼を言って椅子に座ると、テーブルの上に広げられたパンを見て、目を丸くする。
「あぁ、もう夜食を食べていたのかな? だとしたら、余計なことをしてしまった」
「パンとハムとチーズだけで、物足りなかったから丁度良いぜ。この瓶の中身はなんだ?」
「果実水と聞いているけど」
フェリクスの返事を待たずに、ネロは瓶の蓋を開けて、瓶に直接口をつけてグビグビと中身を飲み干した。
「おっ、うめぇな。色んなスパイスの味がする。大人の味だな。腹がカッと熱くなる感じがいい」
「……? ただの果実水で、アルコールは入っていない筈だけど」
フェリクスは不思議そうに首を傾げつつ、鍋の蓋を開けた。鍋の中身はほっこりと湯気を立てているスープだ。
「レディ・エヴァレット。温かいスープはいかがですか?」
モニカはしばし悩んだ末に、コクリと小さく頷いた。
胃がキリキリしていて、パンもろくに喉を通らなかったが、スープぐらいならなんとか飲めるだろう。
スープは根菜を煮込んで、擦り潰して、ミルクと混ぜたとろみのあるスープだ。一口啜れば、野菜の優しい甘みに心がホッとする。
モニカがハフハフいいながらスープを啜っている横で、ネロはフルーツケーキをバクバクと頬張って、目を輝かせていた。
「なんだこりゃ、うめぇ。酒の味がすげーいい」
「フルーツをこの地方名産の蒸留酒に漬け込んでいるからね。ところで君は……レディ・エヴァレットとはどういう関係なんだい?」
ネロは両手にフルーツケーキを握りしめ、口周りに食べかすを付けたまま答える。
「従者だ」
「……お弟子さんにしては親しげだね。ご家族か……それとも、恋人?」
モニカは思わずスープを噴きだしそうになった。
モニカが口元を押さえて震えていると、ネロがゲラゲラと腹を抱えて笑う。
「それはねぇな! だって、こいつオレ様のタイプじゃねぇし」
なにせ、ネロのタイプは「尻尾がセクシーな雌」である。
だが、フェリクスはネロの返事に納得がいっていないようだった。確かに従者とは言え、男女同室ともなれば、恋人か家族と思うのは当然だ。
「オレ様はアレだ。こいつの使い魔……じゃなくて……んー、んんー」
ネロは「使い魔」に代わる言葉を考えた末、ポンと手を打つ。
「下僕だ!」
モニカはフードの裾を押さえながら、全力で首を横に振った。
フェリクスも困ったような顔で、ネロとモニカを交互に見ている。
「……下僕、かい?」
「おぅ、こいつはオレ様の命の恩人だからな。ちょっと前に、鳥の骨が喉に刺さって悶絶してたところを、こいつが……」
モニカは慌ててネロの服の裾を引いた。ネロも喋りすぎたと判断したのか、言葉を切って、かわりにフルーツケーキを頬張る。そうしてフルーツケーキの最後の一切れを飲み込むと、金色の目でジロリとフェリクスを睨んだ。
「あぶねー、あぶねー。危うく『ゆーどーじんもん』に引っかかるところだったぜ」
「誘導というより、率直に訊いたつもりだったのだけど」
「お前、そんなにオレ様のことが知りたかったのか……」
フェリクスが知りたかったのは、間違いなくネロのことではなく〈沈黙の魔女〉のことだろう。
フェリクスもネロの言葉に苦笑すると、バスケットの奥から紙の束を取り出した。
「レディ・エヴァレットとは少し、私的な話をしたかったんだ。レディ、もし良ければ……これを見てもらえませんか?」
モニカはおっかなびっくり手を伸ばして、紙の束を受け取った。
一体、何が書いてあるのだろう? もしかして、これから隣国と行われる貿易に関する相談? それとも、交渉の場での護衛の段取り?
その手のことには、まともに答えられる気がしない。モニカは不安を覚えながら紙の束をペラリと捲り……フードの下で目を丸くする。
(……これって、魔術式?)
几帳面な字でびっしりと書かれているのは、とある魔術式とその応用方法だ。
モニカはその魔術式を知っている。他でもない、モニカが開発した新しい術式だからである。
モニカが少しだけ顔を上げると、フェリクスははにかみながら小さく笑った。
「実は、私の友人が貴女の大ファンでして……私がレディ・エヴァレットに会うのなら、貴女にこのレポートを是非とも添削してほしいと……」
(そ、そのご友人とは、もしかしなくても……「アイク」と言うんじゃ……)
つまり、フェリクス自身である。
これは友達の話だけど……という前置きで始まる話は、大抵が本人の話という法則がある。どうやらこれも、そうらしい。
フェリクスは膝の上で手を組み、期待に満ちた目でこちらを見ていた。無下にするのも気が引けて、モニカはレポートに素早く目を通す。
(……あ、すごい。よくできてる)
ところどころ惜しいところもあるけれど、レポートそのものは非常によくできていた。着眼点も悪くない。
(もし、これを殿下が一人で考えたのなら……ミネルヴァの上級生に匹敵するだけの知識があることになるけど……)
だが、モニカはフェリクスが魔術の勉強を祖父から禁じられていることを知っている。
それこそ、専門書の類は所持することができなかったから、ミネルヴァの学生向けに発行されている冊子をこっそり集めていたことも。
そんな限られた状況の中で、彼はこのレポートを書きあげたのだ。
(……この人、本当に…………魔術が好きなんだ)
そんな人が、自分の考えた魔術の応用を真剣に考えてくれたのだと思うと、モニカの魔術師としての矜持が擽られる。有り体に言って、嬉しい。
「…………」
モニカは書き物机に移動し、インク壺と羽ペンを取り出してレポートに文字を書き込んでいく。
モニカは一人の魔術師として、彼の熱意に応えたかった。
たとえ相手がこの国の第二王子であろうと、こと数式と魔術式において、モニカは妥協するつもりはない。
筆跡で正体がバレぬよう文字を少し崩し、間違っているところや考察の甘い点を指摘。その上で、モニカはレポートの余白にこう書き込んだ。
『とても興味深いレポートです。指摘した問題点を改善し、魔力流動量に関するデータ不足を補えば、更に良くなると思います』
そこまで書いて、モニカはハッと我に返る。
(も、もしかして、これってすごく失礼だったんじゃ……うわあああああ、な、何様って、思われたらどうしよう……っ、や、や、やっぱり、最後の部分は塗り潰して……)
そんなことを考えていると、すぐ真後ろでハッと息を飲む音が聞こえた。
振り返れば、モニカのすぐ背後にフェリクスが立ち、モニカの肩越しにレポートの文字を覗き込んでいる。
(ああああああああ、しょしょしょしょ処刑っ、不敬罪で処刑……っ)
モニカはフードの下で慌てふためいたが、フェリクスは不快そうな顔をするでもなく、寧ろ今まで以上に感極まった様子で服の胸元をギュッと握りしめていた。
そして彼は書き物机に座るモニカの手を取り、まるでこれからプロポーズでも始めるのではなかろうかというほど熱い眼差しで、こう告げる。
「……貴女に、こんな評価をいただけるなんて……光栄の極みです、レディ・エヴァレット」
今まで興味無さそうな顔をしていたネロが、不思議そうに口を挟んだ。
「友人の話なんだろ?」
「……と、私の友人なら、きっとそう言うでしょう」
サラリと言葉を付け足し、フェリクスはモニカが添削したレポートの束を、まるで宝物のように胸に抱く。
「ありがとうございます、レディ……友人もきっと喜びます」
「…………」
モニカはほんの少しの葛藤の末、フェリクスの手の中からレポートを一枚抜き取り、その裏面に小さくこう書いた。
『貴方のレポートが、また見たいです』
それを見た、フェリクスの喜びを隠しきれていない顔といったら!
きっと、今のは正体を隠して護衛任務をするのなら、余計な一言だったのだろう。
それでもこれは、魔術師モニカ・エヴァレットとしての紛れもない本音なのだ。
学祭の後の舞踏会で、彼は星を見上げながら言っていた。
自分はもう好きな物を諦めて、手放さなくてはいけないのだと。
(……それでも、わたしは……あなたに諦めてほしくないんです)
もし、彼が〈沈黙の魔女〉に、幻想を抱いているのなら、それを壊さないようにしようとモニカは密かに誓う。
フェリクスはその感情を初恋かもしれないと言っていたけれど、きっとフェリクスが〈沈黙の魔女〉に抱いているのは、恋愛感情ではない。純粋な憧れと尊敬だ。
それならば、モニカは彼が憧れる〈沈黙の魔女〉として、これからも七賢人の座に君臨し続けよう。
……だから、どうか諦めないでほしい。
「彼」が心から夢中になれるものを。
* * *
エリアーヌ・ハイアットは、フェリクスが〈沈黙の魔女〉の部屋に入っていくのを物陰から眺め、歯軋りをしていた。
(あら、あら、あら、あら、これはどういうことかしら? ねぇ、どういうことかしら?)
使用人のピーターに命じて、代々ハイアット家の女性に伝わる「秘伝の三番」を用意させたのが晩餐会の後。
ちょうどそのタイミングでフェリクスが「秘伝の三番」を、果実水と間違って持っていってしまったのだという。
だからエリアーヌは作戦を変更し「旅の疲れで興奮して眠れませんの、少しお喋りをしませんか?」という名目でフェリクスの部屋を訪れるつもりだったのだ。
そうして「秘伝の三番」を飲んだフェリクスと良い雰囲気に……と思いきや、フェリクスは「秘伝の三番」を持ったまま、〈沈黙の魔女〉の部屋に入っていってしまったではないか。
「あれー、エリーじゃないスか。こんなところで何してんスか?」
ギリギリと歯軋りをしているエリアーヌに声をかけたのは、寝間着姿のグレンだった。なんでいつもいつもいつもいつも、こういう時にエリアーヌに声をかけるのがフェリクスではなく、この男なのか。
「まぁ、ダドリー様こそ、こんな時間に何をしてらっしゃいますの?」
苛立ちを押し隠してそう訊ねれば、グレンは人懐っこい顔をキリリと引き締め、エリアーヌを真剣な目で見下ろした。
「……実はオレ、エリーにどうしても頼みたいことがあるんス」
(あら、あら、まぁ、まぁ)
もしかしてこれは、ひょっとすると愛の告白というやつではなかろうか。冬休み初日は、若者が最もハメを外したくなるタイミングである。
無論、エリアーヌはフェリクス一筋なので、こんな男の告白なんぞ、鼻で笑ってお断り……。
「トイレに行きたいんスけど、暗くて怖いんで、一緒に来てほしいんス」
「………………」
かくして、エリアーヌ・ハイアットの素敵な夜のメモリーは、グレン・ダドリーをトイレに案内して、幕を閉じたのだった。