【10ー3】男女三人、馬車の中
セレンディア学園の終業式を終えたエリアーヌは、急いで寮の自室に戻り、身嗜みを整えていた。
制服から私服に着替え、化粧を直し、髪型も変える。
「この髪型にするなら、帽子はやっぱり、この間買ったばかりのものがいいわ。リボンのついた桃色の」
「かしこまりました」
侍女は文句一つ言わず旅行鞄からお目当ての帽子を取り出し、エリアーヌにかぶせてくれる。
エリアーヌは姿見の前に立ち、己の姿を確認した。
おろしたてのコートと襟巻き、そして最新デザインの帽子。鏡に映っているのは、誰もが愛らしいと褒めたくなるような、繊細な美少女である。
(これからフェリクス様と同じ馬車に乗るのだから、完璧な装いにしなくては)
エリアーヌは浮かれていた。冬休みが始まると同時に、フェリクスはエリアーヌの実家に滞在するというのだ。これが浮かれずにいられるだろうか。
冬休み初日から二日目にかけてはハイアット家でゆっくりと過ごしてもらい、それからファルフォリア王国の使者が来たら外交。その時、フェリクスと隣国の使者を接待するのが、エリアーヌの役割だ。
これは自分の存在感をフェリクスにアピールする絶好のチャンスである。
父が言うには、今回の外交の件をセッティングしたのは、エリアーヌの大叔父にあたるクロックフォード公爵らしい。つまり、これはクロックフォード公爵のお膳立てなのだ。
絶対にこのチャンスをものにして、フェリクスの婚約者の座を射止めなくては。
……なんだったら、既成事実を作ってしまってもいい。
(もし偶然……そう、偶然わたくしの寝室にフェリクス様が迷い込んで……もちろんわたくしはフェリクス様を誘惑するだなんて、はしたないことはしないけれども、もし、フェリクス様が寝間着姿のわたくしに心乱されて、二人はそのまま朝まで……なんていうことも、あるかもしれないわ。えぇ、勿論わたくしから誘ったりはしませんのよ。あくまで、フェリクス様からその気になっていただかないと……そのためには侍女に仕込みをさせて……)
フェリクスを自分の寝室に誘導するための策をあれこれ練りつつ、エリアーヌは襟元のリボンを直す。
「お嬢様、そろそろ馬車のお時間です」
「えぇ、今行くわ」
侍女に微笑み返し、エリアーヌは寮を出る。
セレンディア学園の前には、帰省のための馬車がいくつも並んでいた。その中でも一際美しい馬車が、レーンブルグ公爵家のものだ。
フェリクスとはこの馬車の前で待ち合わせをしている。
エリアーヌと同じ馬車にフェリクスが乗り込むのを見た者は、きっと口々に噂をするだろう。
やはり第二王子はエリアーヌを婚約者に選ばれたのだ。だから、冬至の休みはエリアーヌの実家で過ごすのだと。
あぁ、なんて良い気分!
人々はレーンブルグ公爵家の馬車に注目している。エリアーヌはスキップをしたい気持ちを押さえ、あくまで深窓の令嬢らしい淑やかさで前に進み出た。
ほら、馬車の前には誰もが振り向く美しい王子様がエリアーヌを待ちわびて……。
「あっれぇー、アメーリア役の! ……えーっと、なんだっけ?」
「エリアーヌ・ハイアット嬢だよ」
馬鹿でかい声で失礼極まりないことを言い放ったのは、エリアーヌの王子様ではない。
学祭の舞台でエリアーヌと共演した、グレン・ダドリーである。
その横に佇むフェリクスが、やんわりとエリアーヌの名前を教えてやれば、グレンはポンと手を打った。
「あー、そうだった。エリアーヌ。エリアーヌ……で、そのエリアーヌが、なんでここにいるんスか?」
それはこちらの台詞である。
何故、グレン・ダドリーがフェリクスと一緒に、レーンブルグ公爵家の馬車の前で話し込んでいるのか。
「ダドリー君。彼女はレーンブルグ公爵家の御令嬢だよ」
「そうだったんっスか!? うーん、エリアーヌ・レーンブルグ・ハイアットって名前にしてくれれば分かりやすいのに」
「爵位は領地に付随するものだからね」
「そうなんっスかー」
「そうなんだよ」
「ところで『ふずい』ってなんスかね?」
これ以上この会話を聞いていたら、頭がおかしくなってしまう。
エリアーヌは引きつりそうになる顔に可憐な笑みを貼り付けた。
「ごきげんよう、フェリクス様。お久しぶりです、ダドリー様。舞台でご一緒して以来ですわね」
あくまでグレンとは舞台で共演しただけで、それ以外、自分は一切合切関係ないのだとエリアーヌはさりげなく周囲に主張した。
だが、グレンはそんなエリアーヌの配慮を木っ端微塵にしていく。
「オレ、堅苦しいのは苦手だからグレンて呼んでいいっすよ! 特にこれからいっぱい世話になるんで! 気さくに呼んで欲しいっす」
「………………はい?」
これから世話になるとは、どういう意味だろうか。
戸惑うエリアーヌに、フェリクスが和かな笑顔で告げた。
「今回、レーンブルグ公爵家に滞在するにあたって、七賢人の〈沈黙の魔女〉レディ・エヴァレットと、〈結界の魔術師〉の弟子であるダドリー君が、護衛につくことになったんだ」
(なんですって?)
絶句するエリアーヌに、グレンは太陽のような眩しい笑顔で言った。
「そういうわけなんで! 冬休みの間はよろしくっス!」
周囲の生徒達は、確かにエリアーヌ達に注目していた。だが、エリアーヌはこんな形で注目されることを望んだわけではない。
羨望の眼差しではなく好奇の目で見られ、エリアーヌは和かな笑顔の裏で地団駄を踏んだ。
* * *
二人がけの席が向かい合わせになった四人乗りの馬車ともなれば、エリアーヌの席はフェリクスの隣と決まっている。決まっているのに、どうしてフェリクスの隣がグレンなのか。
「フェリクス様、殿方がお二人並んでいては窮屈ではありませんか?」
エリアーヌがさりげなく気遣うように声をかければ、フェリクスは美しい笑顔で応えた。
「レーンブルグ公の馬車は広くて快適だから、そんなことはないよ。それにダドリー君は私の護衛だからね」
護衛が隣に座るのは当然だと言われてしまえば、何も言い返せない。
馬車が揺れた拍子にフェリクスの胸元にもたれてみたり、ちょっとうたた寝をするフリをして肩にもたれてみたり、そういう展開を期待していたのに!
エリアーヌが内心歯軋りをしていると、グレンが何かに気づいたようにハッと顔をあげてエリアーヌを見た。
(やっとわたくしの考えていることに気づいたのかしら? そうよ、気を利かせなさい?)
「心配しなくても、大丈夫っす! 会長だけじゃなくて、エリアーヌのこともバッチリ守るっスから!」
違う、そうじゃない。
誰も貴方に守ってほしいなんて思っていませんのよ、という言葉をギリギリのギリギリで飲み込み、エリアーヌは可憐に微笑んでみせた。
「まぁ、グレン様は頼りになりますのね」
「ドドーンと、頼ってくれていいっスよ! ところで、エリアーヌって言いづらいんで、エリーって呼んで良いっすか?」
良いわけないでしょう、と咄嗟に口走りそうになりつつ、エリアーヌは打算する。
ここでグレンにエリーと呼ぶことを許し、その流れで「フェリクス様もわたくしのことを、エリーと呼んでくれませんか?」とおねだりをしたら、極々自然な流れでフェリクスからエリーと呼んでもらえるではないか。
エリアーヌは否定とも肯定とも言えない曖昧な笑みでグレンに笑いかけると、そのまま自然な仕草で視線をフェリクスに向けた。
「フェリクス様も、わたくしのことを……」
エリーと呼んでくれませんか? と最後まで言い終えるより早く、フェリクスの頭がカクンと揺れた。
フェリクスの長い金色の睫毛は下向きに伏せられていて、どこか眠たげである。どうやらエリアーヌの話などろくに聞かず、船をこいでいたらしい。
「……あのぅ、フェリクス様?」
「あぁ、すまないね。少し寝不足で……今日がとても楽しみで、昨日はあまり眠れなかったんだ」
下降していたエリアーヌの機嫌はフェリクスの言葉で、一気に上昇した。
(まさかフェリクス様が、わたくしの家に来るのをそんなに楽しみにしていたなんて!)
これはなかなかに脈ありなのではないだろうか。
エリアーヌは込み上げてくる喜びを噛み締めつつ、フェリクスを気遣うように言った。
「まぁ、フェリクス様ったら……どうか、無理をなさらず少しお休みになって」
「あぁ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
フェリクスは椅子の肘掛けに頬杖をついて、目を閉じる。
あぁ、寝ているフェリクス様の横顔も素敵、とエリアーヌがうっとりしていると、グレンがエリアーヌをちょんちょんとつついた。
「……何かご用ですか、グレン様?」
「ただ景色見てるのも暇だから、ゲームでもどうっスか? オレ、今日のために実家から色々持ってきたんスよ」
「……あの、フェリクス様が寝ていらっしゃるので、あまり騒ぐのは……」
「小声でやるから、だいじょーぶ。ほい、このコインに注目〜」
グレンはポケットから銅貨を一枚取り出すと、それを右手で弾いて右手でキャッチした。
そして、右手と左手の両手を握ったまま、エリアーヌの前に差し出す。
「コインが入ってるのは、どーっちだ」
「……右手、ですわ」
グレンがにんまり笑って両手を開くと、コインは左手の中にあった。エリアーヌは思わず目を丸くする。
「えっ? えっ? どうして? だって、右手でキャッチしたのを、わたくし見ましたのよ?」
「じゃあ、もう一回〜」
グレンが右手でコインを弾いて右手でキャッチする。エリアーヌは瞬き一つせずに、コインの動きを見ていた。やはりコインは右手で握られたはずだ。
「また、右手です」
「残念、はずれっス〜!」
「えぇっ!?」
エリアーヌは思わず前のめりになって、コインを凝視した。この手の手品は大道芸では珍しいものではないのだが、深窓の令嬢であるエリアーヌは大道芸も庶民の遊びも見たことがない。
「ずるいですわ、ずるいですわ、魔術を使ったのでしょう?」
「オレ、詠唱してないっスよー。それに物質転移は人間の魔力じゃ無理だって、師匠が言ってた気がするっス」
グレンの言う通りである。
エリアーヌはむむむと唇をへの字に曲げて、グレンの手元を凝視した。
「もう一回、もう一回、お願いいたしますわ」
「じゃあ、今度はちょっと難易度上げてくっスよー」
「あぁっ、まだ、最初のも分かってないのにっ!」
頬杖をついてうたた寝していたフェリクスは、片目を薄く開けてグレンとエリアーヌの様子を眺めると、唇に小さな笑みを乗せて、再び目を閉じた。
二人の会話を聞いているのも、まぁまぁ愉快ではあるけれど、今は少し眠っておきたい。
憧れの〈沈黙の魔女〉に会えると思ったら、昨晩はよく眠れなかったのだ。まるで、初恋の人に会いに行く少年のように。
〈沈黙の魔女〉は一足先に、レーンブルグ公爵領でフェリクスを待っているらしい。
あぁ、会ったら何を話そう──とフェリクスは微睡みながら、考えた。