【番外編8】母からの手紙
『お母様へ
最近は吹く風も冷たく、寮の周りにも霜が降りるようになりました。
殿下のお召し物も厚くなってきましたので、私のせいで殿下がお寒い思いをせぬよう、日々、魔力制御の修行に明け暮れております。
今年度の選択授業は、高度実践魔術を選択することができました。
高度実践魔術は、基礎魔術学と実践魔術の二科目で優秀な成績を出した者しか受講できないのですが、教諭から推薦をいただき、無事に受講できる流れとなりましたことを、大変光栄に思います。
ゆくゆくはハイオーン侯爵の跡継ぎとして恥ずかしくない人間になれるよう、日々、精進してまいります。
(中略)
今年も、セレンディア学園の学祭の季節が近づいてまいりました。
ご多忙かとは思いますが、もしよければ、どうぞお立ち寄りください。
ハイオーン侯爵も、馬車を出してくださると仰っています。
私にとって、今年が最後の学祭です。生徒会長を務める殿下の素晴らしい采配に、お力添えができるよう、全力を尽くしますので、どうかお母様にも、学祭を楽しんでいただければ幸いです。
これから寒さも厳しくなってまいりますので、どうぞご自愛ください。
先日、最新技術で作られたチョコレートをいただきました。ミルクに溶かして飲むととても美味しく、体が温まります。同封いたしましたので、もし良かったらお試しください。
貴女の息子より』
* * *
学祭を迎えたセレンディア学園から、遠ざかっていく一台の馬車があった。
華美な装飾はないが、しっかりとしたつくりのその馬車には、この国でも有数の名門貴族、ハイオーン侯爵家の旗が掲げられている。
そんな馬車の中で、マイラ・ウェインは体を縮こまらせて座っていた。
マイラは三十半ば過ぎの、どこにでもいるつまらない女だ。身なりもありきたりな町民のそれで、立派なこの馬車には到底そぐわない。彼女自身そのことを自覚しているから、馬車に触れる部分を少しでも減らそうと、体を縮こまらせて座っていた。
馬車の乗り心地は快適だ。街中の安い乗合馬車とは比べものにならない。それでも、マイラは顔を強張らせずにはいられなかった。
マイラの向かいに腰掛けているのは、黒髪に口髭の壮年男性──ハイオーン侯爵。マイラとは比べものにならない高貴な身分の人間だ。今でも同じ馬車に乗っているという事実が、マイラには俄かに信じがたい。
マイラがビクビクしながら顔色を窺っていると、ハイオーン侯爵が口髭を弄りながら口を開いた。
「正直、貴女が学祭に行きたいと申し出るとは、思っていなかった……あぁ、貴女が来るのを迷惑だと言っているわけじゃない」
反射的に謝ろうとするマイラを、侯爵は片手で制した。
マイラは自分に非があろうが無かろうが「すみません、ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にするのが癖になっている。
マイラの亡き夫は、気に入らないことがあるとすぐにマイラを罵倒し、手をあげる人だった。
だから、マイラの視線はいつも足元を彷徨っているし、たまに顔を上げれば、無意識に誰かの顔色をうかがってしまう。
今も、マイラがおどおどと侯爵の顔色をうかがっていると、侯爵は青い目をわずかに伏せて言葉を続けた。
「貴女は、息子を……シリルを持て余しているように見えた」
侯爵の言葉が、胸に突き刺さる。
マイラは顔を泣きそうに歪め、両手で顔を覆った。
「……えぇ、そうです。あの子は、あまりにも……父親に似すぎていた」
マイラの夫は、ハイオーン侯爵家の血をひいてはいたが、爵位は持っていなかった。
それなのに、自分は尊い貴族の血を引く人間なのだと威張りちらし……結果、周囲から孤立して仕事を失い、最後は酒浸りになって、体を壊して死んだ。
マイラは、そんな夫によく似た容姿の息子を、ずっと持て余していた。
「……あの子が学校で一番の成績を取ったのだと、誇らしげに語る度に、私はあの子が父親のようになってしまうのではないかと、恐ろしくて仕方がなかったのです」
幼いシリルは、ただ母に褒めてほしかったのだろう。よくやった、頑張ったね、と。
だが、マイラはそんなありふれた褒め言葉すら、口にすることができなかった。
褒めれば、きっとこの子は増長して、父親のように高慢な人間になる──そんな気がして。
「……成績なんて、普通で良かったのです。人並みであれば、それで……」
だが、シリルは努力家で、そして優秀だった。
もっともっと頑張れば、きっと母が褒めてくれると信じて、努力し続けた。
その成果が認められ、ハイオーン侯爵が金銭的支援と養子縁組の申し出をした時、きっとシリルはこう考えたはずだ。
これで、きっとお母様も褒めてくださる。喜んでくださる、と。
だが、マイラはシリルを突き放してしまった。
──あぁ、貴方はやっぱり、貴族の子なんだわ。
その言葉をつきつけられたシリルの傷ついた顔が、マイラは今でも忘れられない。
「侯爵様は、何故、今まで頑なにシリルに会おうとしなかった私が、学祭に来たのかと仰いましたね? ……本当は、今日、最後にあの子の顔を見て……それで最後にして、二度とあの子と会わないようにしようと思っていたのです」
シリルからは毎月のように手紙が届いているから、マイラは息子がどんな暮らしをしているのか知っている。
第二王子の側近として見出され、生徒会副会長になったシリルは充実した学生生活を送っている。貴族の子に相応しい振る舞いで。周囲にもそれを望まれている。
シリルは立派な貴族として生きているのだ。
ならば、もう平民の母など必要ない。
──マイラは、そう思いたかったのだ。
「今日会った女の子が……シリルのことを沢山褒めてたんです……あの子を、優しい、って……その女の子は、素朴で大人しい、普通の女の子でした。そんな女の子がシリルのことを、一生懸命褒めてくれるんです」
マイラは一度だけ鼻を啜り、かすれた声を絞りだす。
「……その子は、シリルが花をくれたのだと言っていました」
まだ夫が生きていたころ、夫に罵られて泣いているマイラに、幼いシリルは「お母様、綺麗なお花を見たら、きっと元気になれますよ」と言って、花を摘んできてくれた。
シリルはいつだって、あの手この手で母を喜ばせようと一生懸命だったのだ。
それなのに、マイラはシリルを拒絶し、一度も手紙に返事を出していない。
少し前に送られてきたチョコレートも、まだ封を開けてすらいなかった。
「……あの女の子の話を聞いて、ようやく気づいたんです……私は、主人の面影を恐れるあまり、あの子の本質を見ようとしていなかった」
項垂れるマイラをちらりと眺め、侯爵は独り言のような口調で呟く。
「初めて会った時から、シリルは承認欲求の強い少年だった。だからこそ、向上心が強い。クローディアに敵わないと感じた時も、シリルはそれならば自分だけの武器を手に入れようと魔術を学び始めた」
シリルが自分を追い込みすぎる性分なのだと侯爵が気づいた時には、シリルは無理のしすぎで魔力過剰摂取体質になっていた。
その時のシリルは、自分が侯爵家に見捨てられるのではないかと、酷く怯えていたらしい。
無論、侯爵はそんなつもりはなかったので、七賢人に依頼して魔力を制御するブローチを作ってもらったわけだが。
「まだまだ未熟な点はあるが、真面目で勤勉、向上心も強い。ゆくゆくは、私の跡を継いでもらうつもりだ」
「…………ありがとうございます」
「だからと言って、実母である貴女に会うことを禁止するつもりはない。好きにすれば良いのに、シリルはいつも生家に帰ることを躊躇している……貴女に拒絶されるのが、怖いのだろう」
言葉を飲み込むマイラに、侯爵は穏やかな口調で言った。
「手紙を出してやるといい。すれ違った人間関係は早期修復するに限る」
* * *
帰宅したマイラは、ストールを椅子の背もたれにかけると、戸棚にしまいっぱなしにしていたチョコレートの袋を取り出した。
慎重に封を切り、手紙に書いてあった手順通りに、チョコレートを作る。
チョコレートは甘く、美味しかった。
その柔らかな甘さが、古い記憶を呼び起こす。
『お母様、なぜ、あの男はいつも、お母様を叩くのですか』
『まぁ、シリル。お父様のことを、あの男なんて言ってはダメよ』
『私には理解できません。私なら、大事な人に手をあげたりなんてしない。大事な人が泣いたり、落ち込んだりしていたら……甘くて美味しい飲み物を淹れてあげるのに』
『そうね。貴方に好きな女の子ができたら、きっとそうしてあげなさい』
甘い香りの温かなチョコレートを少しずつ啜りながら、マイラは便箋に丁寧に文字を綴った。
『冬休み、時間があれば帰っていらっしゃい。
貴方の好きなシチューを作っておきます。
貴方の学園生活のことを、聞きたいです。
貴方の母より
追伸:チョコレート、美味しいわ。ありがとう』