【9ー17】数式よりも、魔術式よりも……
そっと髪を撫でられている感触があった。
頭を撫でられると、幼い頃、父が頭を撫でてくれた時のことを思い出す。けれど、今、モニカの髪を撫でる手は、父よりもずっと繊細な手だ。
遠くから微かに音楽が聴こえる。あれは楽団の演奏するワルツだ。
「…………う」
ゆっくりと目を開けると、霞む視界に綺麗なプラチナブロンドが見えた。それと、宝石みたいに綺麗なブルーの目も。
「大丈夫か?」
「…………シリル、さま」
もつれそうになる舌を動かして呟けば、モニカを見下ろすシリルは少しだけホッとしたような顔をした。
そこでようやくモニカは、自分がソファに寝かされていること──そして、ソファに座るシリルの足を枕がわりにしていたことに気づく。
モニカは慌てて上半身を起こした。その拍子に、体にかけられていた薄いブランケットがバサリと床に落ちる。
見回した部屋は、舞踏会の会場ではない。生徒会役員用の準備室兼休憩室だ。微かにワルツが聴こえるから、舞踏会会場からはそれほど離れていないのだろう。
「あの、わ、わたし……」
「厨房の前で倒れていたそうだ。料理人達が慌てて私の元に報告に来た」
「……っ!」
モニカはハクハクと口を動かし、血の気の引いた顔を両手で覆った。
まだ動ける、大丈夫だと思っていたけれど、モニカの体は本人が思っている以上に衰弱していたらしい。そもそも刺客に吸わされた薬も、まだ抜けきっていないのだ。
それなのに、自分はまだ大丈夫だと過信し──そして迷惑をかけた。
「ご、ご、ごめん、なさい……シリル様の手、煩わせ、て……」
頼られた仕事を一人でこなせるつもりだった。だが、結果はこのザマだ。
失敗した原因は明白だ。自分の体力を過信したこと。そして──誰かに「運ぶのを手伝ってほしい」と頼む手間を惜しんだせいだ。
人見知りのモニカにとって、誰かに手伝ってほしいと頼むのは非常に億劫なことだ。だから、それを避けて自分一人でなんとかしようとして……失敗した。
(……わたし、手伝うどころか、迷惑かけたんだ……)
ポタリと落ちた雫が、胸元の花飾りの花弁を濡らす。
俯き嗚咽を噛み殺していると、シリルのため息が聞こえた。あぁ、きっと呆れているのだとモニカは体を震わせる。
「……体調が悪かったのか?」
「………………」
肯定も否定もできず、モニカは俯いたまま鼻を啜る。
シリルは懐からハンカチを取り出すと、それをモニカの目元にあてがった。
「氷……助かったと厨房の者達が感謝していた」
モニカはハッと顔を上げて、シリルを見上げる。
シリルは怒っているというよりは、困っているような顔をしていた。
「ノートン会計に交渉役や連絡役が向かないのは分かっていた。その上で、自ら手伝いを申し出たことを、私は評価している」
「…………ぅ、ぇ……?」
「今回は体調管理が不十分でこうした結果になったが、最低限なすべき仕事はしたのだ。そのことは誇っていい」
モニカが涙の粒のついた睫毛を上下させて瞬きをすると、シリルはプイッと目を逸らし、咳払いをした。
「無論、このままでは困るので、いずれは交渉役もできるようになってもらうぞ! 次は体調不良の時は早めに報告しろ! 人手がいる時は周囲を頼れ!」
「は、はいっ」
「殿下は来年度の生徒会長にメイウッド総務を推している。メイウッド総務が会長になれば、役員経験のあるノートン会計も次期役員に指名されるだろう」
今の生徒会役員で二年生はニールとモニカだけ。それ以外は全員三年生だ。フェリクス達が卒業し、ニールが会長になるのなら、生徒会経験者であるモニカを役員に据えるのが妥当だろう。
「メイウッド総務が会長になったら、貴様はその右腕になるのだ。だから、苦手な対人関係も克服していく必要がある。そのことを胸に刻み、今後も精進を……」
シリルはモニカが来年も学園にいるのが当然のような口調で語る。
──けれど、モニカ・ノートンに来年はないのだ。
モニカがこの学園にいるのは、フェリクスを護衛するため。故にフェリクスが卒業してしまえば、モニカがこの学園にいる理由はなくなる。
フェリクスやシリルが卒業すると同時に、モニカもこの学園を去り──七賢人の一人〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットに戻るのだ。
(……だから、今年の舞踏会では、役に立ちたかったんだけどな)
モニカが消沈していると、シリルがなにやら気まずそうな顔をする。
「生徒会役員としての職務のことはさておき……だな」
「…………?」
口籠るシリルを不思議そうに見上げれば、シリルは口をむずむずさせながら、モニカの胸元の花飾りをチラチラと見た。
「ダンスを楽しみにしていたのだろう? ……仕事を手伝わせて悪かったな」
「…………へ?」
モニカは予想外の言葉にキョトンとした。自分はダンスを楽しみにしているなどと、言ったことがあっただろうか?
(……あ、昨日の……生徒会室で……)
そういえば言った気がする。
昨日のモニカは、魔導具のブローチを探してワタワタしているのを誤魔化すために、楽しみにしているダンスの練習だと口走ったのだ。
(ま、まさか、シリル様、そのことを気にして……っ!)
モニカは申し訳なさに冷や汗が滲み出すのを感じた。
そもそもモニカはダンスがしたかったわけじゃない。それよりも、生徒会会計のモニカ・ノートンとして、誰かの役に立ちたかったのだ……失敗してしまったけれど。
「あの、わたし、やっぱり、ダンスはいいんです……その、下手だから、相手の方に恥をかかせちゃう、ので……」
へらりと頼りなく笑うと、シリルは何故かムッとしたような顔をした。
何故、彼がムッとしているのだろう? モニカが不思議に思っていると、シリルはソファから立ち上がり、モニカの前で膝をつく。
「ここなら誰も見ていないから、恥をかくこともないだろう」
「……あ」
シリルがモニカの手を取り、長い睫毛を持ち上げてモニカを見上げる。
鮮やかな青い目に、キョトンとしているモニカが映る。
「私と踊っていただけますか、レディ?」
その強い眼差しに射抜かれたモニカは、考えるよりも早くコクリと頷いていた。
遠くから聞こえる楽団の演奏に合わせて、シリルがモニカを導く。
こうしてシリルと踊るのは、社交ダンスの練習をした時以来だ。
やはりリードの上手いシリルは、拙いモニカを自然と導いてくれた。くるりとターンをすれば、若草色のスカートがふわりと広がる。ターンの後にふらつくモニカの体をシリルが支え、またステップを踏みだす。
体を動かすことは苦手だけれど、素直に楽しいと思えた。
やがて、曲が終わるより早く、シリルは足を止めてダンスを終わらせる。モニカの体調に配慮してのことだろう……と思いきや、シリルは細い眉をキリキリと吊り上げてモニカをジトリと睨んだ。
「……以前より下手になっているのは、どういうことだ」
そのジトリとした顔は、ダンス中の貴公子然とした態度とは程遠い、いつものシリル・アシュリーであった。
わぁ、いつものシリル様……と妙な安心感を覚えつつ、モニカは指をこねて言い訳をする。
「す、すみません……数式のことを考えて、頭を空っぽにすれば、もう少し、マシに踊れるん……ですけど……」
実際に、そのやり方で社交ダンスの試験も合格したのだ。
モニカの場合、頭であれこれ考えてしまうより、数式のことだけを考えてリードに身を任せる方がよっぽど踊りやすい。
それでも、モニカはそうしなかった。
「……数字で頭をいっぱいにしちゃうの…………勿体なくって……」
モニカにとって、最も美しいのは数字の世界だ。
数式や魔術式よりも夢中になれるものを、モニカは知らない。
それでも今だけは──数式よりも、魔術式よりも、モニカ・ノートンとして過ごせるこの時間を記憶に焼き付けておきたかった。
モニカが眉をへにゃりと下げて言えば、シリルは何故か息を飲み、視線を彷徨わせる。
「……来年の舞踏会までに、もう少しマシに踊れるようになっておけ」
ぶっきらぼうに言うシリルに、モニカは曖昧に微笑んだ。
こみ上げてくる感情は、チョコレートみたいに甘く、ほろ苦く……少しだけ、切ない。
(……ごめんなさい、シリル様……来年の、この場所に……わたしはいないんです)
だからモニカは、数式よりも、魔術式よりも、思い出がほしい。
引き出しいっぱいの宝物みたいに、キラキラ光る思い出が。