表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サイレント・ウィッチ  作者: 依空 まつり
第9章「学園祭編」
105/236

【9ー13】モニカ・ノートンに来年はない

「虐げられ、傷つけられてきた者ほど、他人の痛みが分かる──とか言うヤツ、アタシ大っ嫌いなのよねぇ」

 ユアンは意識が混濁しているモニカの顔を至近距離で覗き込むと、モニカの口に指を突っ込んだ。男の指がモニカの口腔をクチュリとかき混ぜる。

 モニカが鈍く呻くと、ユアンはニタリと三日月のように口の端を吊り上げた。

「虐げられ、傷つけられてきた者ほど、他人の踏みにじり方も、傷つけ方も分かるってものだわ。アナタもそうでショ? 人間嫌いの〈沈黙の魔女〉さん?」

 細い指先が歯列を丁寧になぞった。そして最後は、モニカの小さい舌をいたずらっぽく指先で摘む。

「ふぅん? 自害用の毒を、歯に仕込んだりはしてないみたいね」

「……ん、ぅ……」

 モニカが弱々しく声を漏らせば、ユアンはモニカの舌先から指を離した。かと思いきや、今度はその指先がモニカの華奢な体の上を這う。モニカの首筋や薄い腹を撫であげて、その度にモニカが小さく体を震わせるのを愉しむかのように。

「さぁて、どうしてあげようかしら……アタシのお仕事はもう終わったから、少しぐらい遊んでも構わないわよね?」

 ユアンの言葉に、ハイディがナイフを拾い上げながら口を開いた。

「ユアン、例の件は確認できたのですか?」

「えぇ、蜘蛛を取るフリをして、至近距離で確認したから間違いないわ。あれは裏切り者のアルトゥールの仕事よ……あの方の読みは正しかった」

 この二人は何を言っているのだろう?

 モニカは途切れそうになる意識を必死で繋ぎ合わせ、思考を巡らせる。

 ユアン、と呼ばれているこの男の目的は、フェリクスの暗殺だと誰もが思っていた──モニカもそうだ。

 この男には、フェリクスを殺害するチャンスが何回かあった。なのに彼はフェリクスに近づき、何かを確認しただけだった。

 ユージン・ピットマンを殺害して成り代わり、シリル・アシュリーに化けて近づき、それだけの手間と労力をかけてしたかった確認とは?

(……殿下を至近距離で確認したかった? それが、この人達の目的? ……でも、なんで、そんなことを? アルトゥール? あの方? 誰のこと……?)

 情報を整理したいのに、意識が朦朧として考えがまとまらない。

 手のひらに掬った水が指の隙間からこぼれ落ちていくように、単語が、情報が、抜け落ちていく。

 それでもなんとか意識を保とうとしていると、ユアンがモニカの頬をするりと撫でた。

「さぁて、この子はどうしてあげようかしら。アタシとしては痛いことも気持ちイイことも、全部この体に教えてあげたいところなんだけど…………この才能、あのお方が欲しがりそうよねぇ?」

「定期的に薬を与え続けて、従順になるよう躾けた上で、献上しますか?」

「そうね、抵抗されても面倒だし、そうしましょうか」

「では、追加の薬を……」

 ハイディが懐から薬液の入った小瓶を取り出し、蓋を開けた。先ほどハンカチに染み込ませた物と違うにおい──あれは、極めて中毒性と依存性の高い薬だ。

 摂取した直後は強い酩酊感に満たされるが、薬が切れると禁断症状を起こし、更なる量の薬を欲してしまう。そうしてこの薬に依存した人間の末路は……廃人だ。

 モニカは咄嗟に歯を噛み締めて抵抗しようとした。

 だが、ろくに力の入らぬ口をユアンがこじ開け、ハイディがモニカの口元に薬瓶を添える。

 とろりと粘度の高い液体が、モニカの唇を濡らした。

(…………や、だぁ……)

 モニカの目尻に涙が滲んだ──その時、バァンと勢い良く窓が開き、一人の男が飛び込んできた。

 癖の強い黒髪、ギラギラと輝く金の瞳、身に付けたのは古風なローブ。

 薬瓶をあてがわれ、薬液に濡れた唇が、か細い声を漏らす。


「……ネ、ロ」


 人に化けたネロは、人間離れした跳躍力で窓枠から一気にモニカの元に跳ぶと、モニカに薬を飲ませようとしていたハイディを容赦なく殴り飛ばした。

 ユアンが咄嗟に反応し、ネロにナイフを向ける。だが、ネロはナイフを握るユアンの手首を掴むと、反対の手でユアンの顔を強かに殴りつけた。

 ネロは床に倒れているモニカを抱き上げると、クンクンと鼻をひくつかせる。

 彼の鼻は、すぐ異臭の原因に気づいた。ハイディがモニカに飲ませようとした薬だ。粘度の高いその液体が、少しだけモニカの唇に付着している。

 ネロは身を屈めて、モニカの唇に付着した薬をベロリと舐めとった。

 その光景を見たハイディが、ギョッと目を見開く。

「ひと舐めで、意識が飛ぶ劇薬なのに……」

「オレ様にこの程度の薬が効くかよ」

 ネロはフンと鼻を鳴らすと、モニカを抱き上げたまま、ユアンとハイディを睥睨する。


「オレ様の主人(あるじ)を壊そうとしたな、人間? ……骨の欠片も残さず塵になる覚悟はできてるんだろうな?」


 ネロの喉がシュゥッと爬虫類の吐息じみた音を漏らした。人の姿を模したネロの肌は、半分ほど黒いモヤに覆われている。怒りのあまり、変化が解けかけているのだ。

 明らかに異形なその姿に、ユアンもハイディも言葉を失っている。

 その時、ネロとモニカにだけ届く声が鼓膜に直接響いた。リンだ。


『──ネロ殿、まだ、シリル・アシュリー殿の安全が確認されていません。現在、ルイス殿が悪態を吐きながら走り回って探している最中です。もうしばしの辛抱を……』


 リンはこの教室内の会話を全て聞いていたのだろう。その上で、ルイスと連携してシリルを探してくれたのだ。

 だが、そんなリンとルイスの配慮を、ネロは一刀両断にする。

「やだね。オレ様、モニカ以外の人間がどうなろうが知ったこっちゃねーんだよ」

 ネロの金色の目は、人間にありえない細い瞳孔をしていた。その非人間的な目が二匹の獲物を──ユアンとハイディを交互にねめつける。


「お前らにも興味ねぇから、命乞いは聞いてやんねぇ。死ね」


 凶悪に吊り上がった口の中、ギラギラと鋭い歯がのぞく。

 前傾姿勢になったネロは、ぐったりしているモニカを腕に抱いたままユアンに襲いかかった。ネロは片手でモニカを抱いたまま、反対の手でユアンの顔面に指を食い込ませる。

 そのままユアンの後頭部を壁に叩きつけようとしたネロは、違和感に眉をひそめた。

「……なんだこりゃ」

 ユアンの顔に食い込んだ指が、まるで粘土を握ったかのように皮膚に埋もれていく。

 ネロが咄嗟に手を離すと、ユアンはグニャグニャに歪んだ顔に手を添えた。そこに最早シリル・アシュリーの面影は無い。

「あ〜アァ、ヒドイじゃなァイ。顔を作るのってェ、結構大変なのヨォ?」

 唇の周囲も歪んでいるせいで、ユアンの声は酷くくぐもっていた。ユアンは両手で顔をこねて、いびつな皮膚を頭蓋骨に添わすかのように整える。そうすれば、そこにあるのは見知らぬ男の顔だった。この国ではあまり見かけない平坦な顔はユアン本人なのか、それとも、これすらも他人のものなのかは、モニカにも判断がつかない。

「なんだ、ありゃ。掴んだらグニャッてしたぞ。気持ち悪ぃ」

 ネロはユアンの顔に触れた手を、グーパーと開いて顔をしかめている。

 モニカは朦朧とする意識の中、なんとか声を絞り出した。

「…………ネロ、気をつけ、て……あれ、は、肉体、操作、魔術……」

 肉体強化魔術は、肉体に魔力を注いで強化したり変異させたりする魔術だ。ただし、被術者は魔力中毒になる可能性が高いため、この国では使用を禁じられている。

 モニカは七賢人権限で閲覧できる本の中で、肉体操作魔術に関するレポートを読んだことがあった。

 そのレポートを読んだ限り、ほんの数年前まで皮膚を操る魔術に関しては、止血したり、傷痕を消したりするのが精一杯だった筈だ。

(……顔の造形を自在に操る魔術なんて、見たことも聞いたこともない)

 この男が使っているのは、未知の技術だ。そして、未知の技術を前にしている以上、油断はできない。

 ネロはユアンの肉体操作魔術を警戒し、攻撃の手を止めてユアンとハイディの動向を睨んでいる。

 一方、ユアンとハイディもすぐに攻撃を仕掛けようとはしなかった。ネロが普通の人間ではないことに気づいているのだろう。警戒しつつ、この場を離脱する手段を互いに探っている。

 先に口を開いたのは、ユアンだった。

「ね〜ぇ、黒髪のお兄さん。アタシと取引しましょ? 〈沈黙の魔女〉に嗅がせた薬の中和剤をあげるから、み・の・が・し・て?」

 そう言ってユアンは小さな小瓶を取り出し、ネロの前でチャプチャプと揺らした。

 ネロはにんまりと凶悪な笑みを浮かべる。

「オレ様は、気に入った人間としか取引しねーんだよ。中和剤があるんなら、お前をぶっ殺して薬を奪えば解決だ」

「あら、怖〜い。じゃあ、こうしちゃいまショ」

 ユアンの手から瓶が滑り落ちた。それが床にぶつかりパリンと音を立てて割れると、中の薬液が床に広がり──たちまち、周囲が白い煙に包まれる。

 白い煙は刺激臭がした。恐らく毒物の類だ。

 煙の向こう側から、ユアンの笑い声が聞こえた。

「アタシとハイディは毒物に耐性があるから、この程度の薬は効かないけど……〈沈黙の魔女〉様には、ツライんじゃなぁい?」

「──!」

 ネロはハッとして腕の中のモニカを見た。毒の効きづらいネロと違い、モニカは普通の人間だ。まして、既に別の薬も嗅がされているモニカに、これ以上の毒はまずい。

 モニカはほんの少し煙を吸ってしまったのか、苦しそうに喉を掻き毟って身悶えしている。

 ネロは舌打ちして、毒煙から逃れるために窓から外に飛び出した。

 その背中にユアンの高笑いが響く。


「じゃあね、〈沈黙の魔女〉様と、そのナイトさん? ──アナタ達がおぞましい真実に気付いたのなら、その時はまた会いましょ」



 * * *



 ネロはモニカの体を抱えて、人の少ない旧庭園に移動した。既に日が半ば以上沈んだ庭園は、夜の風が冷たい。ネロは自身のローブで抱き込むようにしてモニカの体を包むと、壊れかけた噴水のそばに腰掛けた。

 そこにふわりと黄色い小鳥が舞い降り、美貌のメイドに化ける。

 ルイス・ミラーの契約精霊リィンズベルフィードは、苦しそうな呼吸をしているモニカの口元に手を添えた。

「呼吸に異常をきたしているようですので、清浄な空気を送り込みます」

「それでモニカは治んのか?」

 疑わしげなネロに、リンは首を横に振る。

「これは治療ではなく、ただの呼吸補助です。見たところ、さほど強い毒ではないようですので、半日も休めば毒も抜けて、日常生活には戻れるかと」

 淡々と告げるリンに、モニカは薄く目を開いて訊ねる。

「……リン、さん、シリル、様……は?」

「安全を確認しました。他に仲間がいるというのは、ブラフだったようです」

「殿下の、護衛、は……」

「問題ありません。ルイス殿が寒い寒いとぶーたれながら、身を隠して張り付いています」

「……それじゃあ、あの、二人の、追跡、は……」

 この状況で最善の選択肢は、ルイスとリンのどちらかがフェリクスの護衛をし、どちらかがユアンとハイディを追うことだ。

 だが、ルイスはユアンとハイディを逃すことを承知の上で、リンをモニカのところに送り込んだ。ルイスらしからぬ選択である。

「ルイス殿は、〈沈黙の魔女〉殿の保護を最優先せよと仰られました。敵を逃すより、貴女を失うことの方が損失が大きいと判断されたようです」

「……刺客、逃し、ちゃって……ルイスさん、怒って、ます、よね……」

「怒ってるふりをして、心配しているように見受けられました」

「……あは、は……ルイス、さん、らしい、です」

 モニカは苦笑しながら、ゆっくりと呼吸を整える。さっきまでは息を吸うだけで吐き気がしたが、今はだいぶマシになっていた。元々、それほど強い毒ではなかったのだろう。

 これなら、もう少し休めば歩き回れる。

 モニカが自分の体がどこまで動くか確かめるように身動ぎすると、その体をネロがぎゅぅっと抱き込んだ。

「メイドのねーちゃんが来たなら、飛行魔術で屋根裏部屋まで移動しようぜ。でもって、モニカ。お前はもう休め。このままだと、ぶっ倒れちまうぞ」

「……ううん、わたし、ラナの部屋、行かなくちゃ……舞踏会の、支度、しないと」

 モニカの言葉にネロはギョッと目を剥いた。

「はぁっ!? こんなフラフラの体でなに言ってんだ!」

 怒鳴るネロに同意するように、リンも真顔で頷く。

「舞踏会の最中の第二王子の護衛は、わたくしがしますので、〈沈黙の魔女〉殿はお休みになられるべきかと」

「……ごめんなさい。任務の、責任感とかじゃ、なくて…………これは、わたしの、わがまま、なんです」

 モニカは泣きそうに顔を歪めて、ポツリと呟く。


「だって、来年の舞踏会に、わたしは、いないから」


 ユアンは言った。

 〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットは、人を人と思わぬ残酷な魔女だと。

 それは紛れもない事実だ。〈沈黙の魔女〉は人間が恐ろしく、それ故にどこまでも残酷になれてしまう。人間が数字にしか見えないような、そんな魔女だ。


 モニカは目を閉じて、引き出しいっぱいの宝物を思い出す。


 ラナがくれた手紙とリボンも。

 フェリクスがくれたネックレスも。

 ケイシーがくれた刺繍のハンカチも。

 胸元を彩っている白バラの花飾りも。


 どれも〈沈黙の魔女〉に贈られた物じゃない。

 モニカ・ノートンという、一人のちっぽけな少女に贈られた物だ。

 そしてモニカはいつのまにか、モニカ・ノートンでいる時間を手放し難くなってしまった。

 ……みんなを騙していると、知りながら。


(ごめんなさい、ごめんなさい、今だけだから、この学園にいる間だけだから…………許してください)


 自分は誰に対して謝っているのだろう?

 任務を命じたルイスに対して?

 迷惑をかけているリンとネロに対して?

 それとも、騙している友人達に対して?


 ──きっと、その全てだ。


(それでも、わたしは……もう少しだけ、モニカ・ノートンでいたい)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ