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幕末掌編集

寫眞

作者: 夜宵氷雨

「もう良いぞ、肥後」

 実兄の合図に、それまで姿勢を正して微動だにしなかった容保(かたもり)は、肩の力を抜いた。

 刻にしてわずか数拍。これだけで自身の肖像が作られるとは、不思議な心持ちがした。


 兄の慶勝(よしかつ)が隣室に移り、現像という作業に取り掛かる。

 昨今兄が、西洋から伝わったこのフォトガラヒーというものに執心していることは、疾うに知っていた。実際、様々な景色や人物を写したものも見ている。

 それでも、自らがその対象となると、どうにも、落ち着かぬ心地がするのだ。


 文久二年閏八月一日、会津松平家当主である左近衛権中将松平肥後守容保は、京都守護職に補任され、正四位下への昇叙を賜わった。その任務のため、十二月には上洛することが決まっている。そこで、実兄である尾張徳川家隠居で従二位権大納言徳川慶勝より、上洛前に顔を見せろと、弟の定敬(さだあき)と共に、江戸郊外にある戸山屋敷に招かれたのだ。


 尾張の前当主慶勝に会津の容保、そして桑名松平家の定敬。共に尾張の分家、美濃国高須松平家の当主であった松平義建(よしたつ)を父に持つ彼らは、他家に養子に入った後も、親交が深い。兄弟順で言えば、慶勝の下には現在の尾張徳川家当主の徳川茂徳もちなががいるが、さすがに安政の大獄で隠居謹慎を命ぜられた慶勝と、その後継となった茂徳とでは、慶勝の謹慎が解けた今も、幕府の目を思えば、憚るところがあった。


 現像を待つ間、容保は外に見える庭園に目をやった。斑に残る雪が、陽の光を受けて燦めき、風景を一層美しく見せる。

「いつ見ても、見事なことではないか。なあ、定敬」

「はい、兄上」

 定敬は、それまで硬くしていた表情を和らげ、あどけなさの残る笑顔を見せた。

 既に元服し、桑名松平家を嗣いで三年程になる定敬は、従四位下侍従兼越中守の官位にある。とはいえ、今年ようやく十七の歳を数えたばかり。

 その仕草にも表情にも、少年らしさが垣間見える。


 戸山は、尾張徳川家の江戸屋敷の中で、最も広い。

 その庭園は、一度は元禄の大地震によって荒廃したものの、九代宗睦(むねちか)によって「戸山荘」として再生され、今に至る。

 三十を超える町屋が連なる宿場町や、荒れ寺の再現。江戸一の高さを誇り、「箱根山」と通称される築山に、龍門の瀧。

 「龍門の瀧」とは、飛び石を通るとたちまち水嵩が増し、石が隠れて道が水没するという仕掛けの、滝壺である。

 様々な趣向が凝らされた戸山荘は、三代前の将軍家斉(いえなり)公の御成を、幾度も仰いだという。


 屋敷に着いて早々、二人は慶勝に案内され、尾張家自慢の庭園を堪能し、温かい茶を頂いた。そして、餞別に写してやると言われたのだ。


「できたぞ。どうだ、中々の出来栄えであろう」

 再び姿を現した兄の表情は、満悦そのものであった。

 差し出されたガラス板には、確かに自身の姿がある。それは鏡で見た時と比べ、違和感を覚えるものであった。

「これが、私ですか。鏡とは、どこか違っておりますが……」

「正像と言って、左右が反転しないのだ」

 成程。言われてみれば、背後に写った襖の線が、実際と同じ側にあった。


「次は桑名、そなただ」

 慶勝は、共に呼び寄せた下の弟、定敬を指名した。

「私は、肥後の兄上がいらっしゃるからと参っただけです。何故私まで……」


 十一歳上の容保を慕い、その言葉には素直な定敬だが、さらにその十一上、定敬よりは二十二歳年長の慶勝には、何かと突っ掛かるのだ。今日も一々、慶勝の言葉に逆らい、今もまた、表情を硬化させている。


「せっかくの機会なのだから、よいであろう。ほら、そこに座れ」

 一方の慶勝は、下の弟の態度を気にする気配はない。

 以前に聞いたところでは、十代の頃の慶勝、当時の名で義恕(よしくみ)もまた、若かった父に反抗的であったという。その父は、この八月に鬼籍に入っている。

 兄は下の弟に、かつての自分自身を重ねているに違いない。


「桑名、少しの間だけだ。兄上に写して頂きなさい」

「肥後の兄上まで……はい、わかりました」

 見かねた容保が執り成すと、定敬はそれ以上何も言わず、指し示された場所へ座った。その表情を、変えることなく。

「桑名……少しは顔を作らぬか」

 これにはさすがの慶勝も、唖然とした様子を見せた。しかし、言った程度で素直に聞く弟ではない。容保が何か言う前に、慶勝の手によって機械が操作された。


 現像のため上の兄が席を立つと、定敬は頬を緩める。容保はさすがに、小言の一つも言いたくなった。

「定敬。もう少し、権大納言の兄上の仰ることを、素直に聞きなさい」

「申し訳ありません、兄上」

 定敬とて、決して慶勝を嫌っているわけではない。

 定敬にもまた、兄というより、父に対する様な、甘えにも似た感情があるのだろうと、容保は思う。しかし、実の兄弟とはいえ、それぞれに立場ある身。

 いかに内輪であろうと、余りにあからさまな態度は、如何なものであろうか。


 一通りの説教を終えた頃、襖が開き、慶勝が姿を見せた。

 しかし容保の時とは異なり、その顔には諦めが見える。

「如何ですか、兄上」

「嗚呼、」

 容保が声を掛けても、曖昧な反応しか返らない。

「失礼します」


 兄の手からガラス板を受け取った容保は、一目で理解した。

 弟の姿は寸分違うところがなく、その不服に満ちた表情までもが、見事に写し出されていた。

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