悲劇の鎖
三章スタートです。
とある国の海に近い小さな町、まだ暖かい日差しはさして居らず、肌寒く、この時期の日の出前は深い霧が立ちこめるのが一つの風物詩となっていた。
「……あれ?お母さん?お父さん?」
町の西側に位置する家で今年で五歳になる男の子が寝ぼけ眼を擦りながら、居間へと繋がる扉を開く。
何時もなら、既に起こされて居るのだが、この日は起こされる事は無かった。
「……あれ?出掛けてるのかな?」
居間には誰も居なかった。何時も朝食を用意してくれている母親の姿も、朝食前に仕事道具の手入れをしている父親の姿も何処にも見当たらない。
男の子は不思議そうに当たりを見渡すが、そこは昨日見たままの片付けられた状態だった。
朝食の用意も、食べ終わった跡も無いし、父親の仕事道具やコートも壁に掛けられたままだ。
「……お腹すいたな」
男の子は水瓶に入れられた水をコップに入れ、水を零さないようにそっと運び、五歳の体では大きすぎるイスによじ登って座る。
座った男の子は空腹を紛らわす為に、コクコクと小さな喉を鳴らし、水を飲み干していく。
「……遅いな」
もう、どれ程の時間が経っただろうか?暗かった外の景色は一転し、山の向こうから日の光が差し込んできた。
「よし、探しに行こう!!」
危ないから、一人で町に出ちゃだめよ、と何時も母親に止められているが、その母親は今は居ない。
空腹を水で紛らわせるのはもう限界に近かった。
「う、うう」
外に出る扉を開く。朝日が直接差し込んできて、日の出前の闇になれていた目を襲う。余りの眩しさに思わず呻き声を上げ、目を瞑ってしまう。
「あれ?何だろ?」
まだ眩しい光に目が慣れていないが、町の東側、町の正門に昨日まで無かった何かを見つける。
それは朝日に重なるようにそびえ立ち、男の子の家からも見ることが出来た。……出来てしまった。
「あっ!女神様だ!!」
霧が深く、シルエットしか分からないが、男の子はその形から、それが教会にある女神像に似ている事に気が付いた。
そして、男の子はその女神像の形をした何かに向けて走り出す。
きっとお祭りか何かで、そこには家族や町の皆が集まっていると考えたからだ。
自分をほったらかして、お祭りに行ってしまったのかと、両親に不満を感じたが、きっと朝早すぎたのだろうと考え、行商人達が市場が開かれているのか、今日が何か有っただろうか、と期待に胸を膨らませ、膨らんだ分軽い足取りで女神像へと足を速める。
◆◇◆◇◆
「あ、ああ……」
町の東の門に辿り着いた男の子から漏れたものは絶望とも悲しみとも取れるあらゆる負の感情を煮詰めた様なものだった。
目の前には歪なオブジェと化した何かがいた。いや、何かじゃない。いつも母親と買い物に行く肉屋のおじさん、魚屋のおばさん。
何時も遊んでくれる近所のお姉さん。何時も意地悪ばかりする男の子や友達。
「ウプッ……オェぇ……」
オブジェは微かに揺れ動いているが、とても生きている様には見えない。
重ね合わされた肉体は糸の様な何かで接合されていて、所々に動物や魔物と思われる皮も取り込まれている。
「ハァ……ハァ……ぁぁ、どうして……?」
何物食べていない体は胃液しか吐き出さず、しかし、吐き気は収まる事を知らない。
まだ幼い彼が初めて目の当たりにした【死】はある朝突然、現れ、彼から平穏を奪い去った。
「お母さん……お父さん……」
嗚咽を漏らしながら、その小さな瞳は忙しなく動く。ああ、お願いだから見つからないでくれ、と淡い期待を乗せて。
「おや?リトルボーイこんな所でどうしたんだい?」
むせび泣く声が聞こえたのか、オブジェ群の中から男の声が聞こえてきた。
【死】が支配した中で初めて聞こえた声に、男の子は顔を上げる。生きている人が居る!!もしかしたら、お母さん達を知っているかも知れない、と。
「あ、あぁ゛……」
だが、今日この日、初めて感じた希望は直ぐに打ち砕かれた。
現れた男は背中に大きなハサミと糸の束を背負い、杖のように大きな針をステッキの様にくるくると回し、血だらけのボロを纏っていた。
「どうですか!?この作品達は!!素晴らしいでしょう!!」
男は継ぎ接ぎだらけの満面の笑みで、後ろのオブジェを指し示す。
「君が居てくれて良かったよ!! 誰にも見て貰えない作品なんて悲しいからね!!」
そう言うと、男――――魔族は男の子の手を取り、奥へ奥へと進んでいく。男の子は抵抗するが、その抵抗は無意味だった。
「さぁ! 自信作だ!」
魔族は男の子の背中をそっと押し、男の子は抵抗できずに、前へと進む。
「あ……」
「どうだい? 美しいだろ?」
目の前には、家の前から見えた大きな女神像があった。遠くから見たそれは美しく、近くでみた今ではより、造形美を感じさせる。
だが、男の子が言葉を失い、息を飲んだのはその美しさに魅了されたからではない。見つけたのだ。見つけてしまったのだ。
「……逃…げ……。逃げ……て!!」
女神像の台座や胴体、手足全てが若い女で作られている。その中に探し続けていた母親がいた。
「お……母さん……?」
意識があるのか、掠れた声で男の子に逃げる様に言う。
「アーティスティック!! あぁ、芸術的だ!! 素晴らしい。そんな姿になってまで、子を想うなんて――――」
魔族は突然、興奮したように声を上げる。すると、その声に反応する様に周囲のオブジェ達はざわめき、動き始めるが、そこで魔族の動きが止まる。
「そんな姿……?私は……何を?」
血に染まった己の手を見て魔族の体が小刻みに震えだし、うわごとの様に何かを呟き始める。
不自然な風が吹き、辺りに漂っていた淀んだ空気――邪気――が魔族に纏わり付く様に集まる。
「ああ、そうだ。救済だ」
継ぎ接ぎだらけの顔はより歪になり、背中に背負っていハサミはより鋭く変化した。
「いや……いやァァァ!!」
女神像が動き出し、男の子を掴み上げ、女神像の胴体に同化した母親は叫び声を上げる。
「家族は一緒にいないと……!!」
母親の腹部から横に亀裂が走り、女神像の腹部に巨大な口が開いた。口内には夥しい牙が螺旋状に並んでいる。
「愛だ!! これこそ。これこそが愛だ!!」
◆◇◆◇◆
「ねぇ? 見てるだけで良かったの?」
ネロが肉塊を引き連れて歩き出した魔王を指さして、ジョーカーに尋ねた。
「……ああ」
無人となった町を巨大な鴉から見下ろしながら、ジョーカーはネロの問いに答えた。
「しかし、厄介な事に巻き込まれましたね。あ、これで全部です」
黒い風が吹き、両眼を赤い包帯で隠した白衣の男が背後に現れる。
白衣の男は、光り輝く球体が詰まった瓶を二つジョーカーに手渡した。彼はそれを受け取ると、銀色のアタッシュケースへと詰め込む。
ケースの中は底が見えない暗闇となっており、二つの瓶は完全に見えなくなる。
「ありがとな……」
「いえいえ、生まれたばかりの魔王から魂を横取りするなんて、手間でもありません」
ジョーカーの言葉に男は何でも無いように答えた。
先程の瓶は人の魂を閉じ込めておく為の道具だったのだろう。恐らく、ケースの中にはまだ多くの魂が入れられている。
「……なぁ? これだけの計画♦何百年――――いや、何千年掛かってんだろうな♠」
ジョーカーは肉塊を引き連れ、西へと進み始めた魔王を見下ろしながら、嗤った。
「なに、嬉しそうにしているんですか?気持ち悪いですよ」
「気持ち悪いわ」
「ネロ姉ぇ、アロスルトナァさん、駄目ですよそんなこと言っちゃ」
彼が愉しそうに嗤っていると、ネロは自分を抱きしめ、距離を取り、アロスルトナァ――――白衣の男は引いていたが、ランはそんな二人を諫める。
「酷ぇな♣だが、考えてみろ♦!! これだけ練った計画を壊されたら、どんな顔するんだろうなぁ♠!!」
だが、ジョーカーは興奮したように、声を張り上げる。
「絶望するかぁ♠? わめき散らすかぁ♦? 考えただけでゾクゾクしちまう❤」
銀色のアタッシュケースの持ち手を確かめる様に握り、子供の様に無邪気に笑うが、その隻眼は爬虫類の様に無機質なモノへと変化している。
「趣味が悪いわ」
「【狂騒と狂楽の魔王】とはよく言ったものですね。この享楽主義者が……」
「素敵です……」
ネロとアロスルトナァが白い視線を向けている中、ランは恋する乙女の様に頬を染め、熱い視線を送っている。
「さてと、そろそろ行きますか♦。この退屈な世界を終わらせる為に……♠」
ハッと彼は正気を取り戻したように、頭を振り、朝日の昇る海へと視線を向ける。
他人の目は気にしない。他人の目を気にしていたら、楽しむものも楽しめない。『楽しい事』を絶対視する彼にとっては何時もの事だった。
「……本当にこの先に居るのですか?」
アロスルトナァはジョーカーの纏う空気が変わった事を感じ取り、同じ方向へと視線を向けた。
「あぁ、居る♣。もう一人のクレアが♠」
ジョーカーが指す方向。それはクレアシオンの力を封印したダンジョンがある方向だった。
ありがとうございました。
この章から物語が動き始める予定です。




