55.目覚め
遠くで微かに潮騒がさざめく。
どこからかふんわりとした風が吹いていた。
病室の窓から漂うりんどうの花の香りに誘われるように、僕はゆっくりと意識を取り戻した。
ソファから起き上がり、白いシーツに包まれたベッドを見上げる。
「ただいま」 マコさんはそう言って微笑んだ。
マコさんの微笑みを確認した僕は全てが元通りになったのだと感じた。
何の違和感もなく、全ては現実の世界に収まっていたのだ。
「おかえり」 僕は彼女を抱き寄せた。
病室の簡素で清潔な白いベットで、僕達は抱き合ったまま眠りについた。
そしてとてもリアルな夢を見た。
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僕は夢の中でマコさんを抱きしめたまま草原に立っている。サナトリウムの窓から望む草原に。
海から風が吹いたのはその時だ。
とても強い風に思わず僕は目を閉じる。
眩い光を感じて再び目を開ける。
『おかえり、幸一』
そこには父が立っている。鷹の姿ではなく、生前の姿で。
父は黒いスーツ姿で、片手にチェロを持っている。
僕は思い出した。その姿は事故で死ぬ前にコンサートで見た姿だった。
『マコさん、だったね』 父が嬉しそうに微笑む。
「始めまして、お父様」 マコさんは父にお辞儀をする。(まぶしそうに微笑みながら)
『こんな形でしか挨拶できなくて申し訳ない。どうしても君達を祝福したかったんだ』
そうつぶやくいた父は平らに削れた大きな岩の上に腰をあずけた。
チェロの足を伸ばし、草原に固定する。
少し斜めにチェロを抱えると、僕をまっすぐに見つめた。
『幸一、良い人生を歩め』
”白鳥” -サン=サーンス
父はゆったりとチェロを奏でた。
『白鳥は水面を優雅に漂う。しかし彼らは水中で必死に足掻いているのだ、僅かな水かきを使って』父は弾きながらつぶやいていた。
『幸一、人生なんてそんなもんだ。足掻いてなんぼの人生だ』
僕は頷く。
『』
父の最期の言葉は聞き取れなかった。(マコさんが頷くのを見て、父は安心したような表情で微笑んだ)
父が光に包まれてゆっくりと消え、後には大きな岩だけが残された。
岩の表面に僕とマコさんは手をのせた。そして彼の魂に向けて冥福を祈った。
潮騒がざわめき、やがて草原に静かな雨が降り始めた。
それが夢の終わりだった。