29.接触 -セアン-
「セアン様」
会員証と共に一枚の規約書を指し示したのはレンタルビデオ店の店員だった。
「会員規約にご理解頂けましたら、こちらとこちらにご署名をお願い致します」
他国の規約書にサインをするなどモルトケ叔父に知れたら大変なんだがな、とセアンは思ったがこれもまた仕事なのだと自分に言い聞かせた。
なぜなら、ターゲットはこの店を頻繁に利用しているようだからである。
流暢にサインを記入し会員証を受け取ったセアンは、店内をゆっくりと確認して周った。
(他国の文化が詰まったこの”ビデオ”の群れはセアンにとって宝の山のようである)
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『名作』とプラカードの掲げられたコーナーで思わず彼は足を留める。
「ハムレット(Hamlet)」を手に取り、セアンはうっとりとため息をつく。
「To be or not to be, that is the question(生きるべきか死ぬべきか)」 実にいい、とセアンは目を瞑った。
ウィリアム・シェイクスピアの悲劇を物語る舞台を、セアンは崇拝していた。
- デンマークを治める父王の死後、叔父である新王とすぐさま再婚した母のことを嘆く王子ハムレット。
-父王の亡霊が現れ、自分の死は新王の陰謀(クローディアスによる毒殺)だと告げ、ハムレットに復讐を迫る・・・
(セアンは、ハムレットを自身に投影し続けていたのだ)
彼を良く知る旧友達はみな、セアンを”ハムレット症候群”※と揶揄していた (※作者の造語です)
やがて彼は「ゴッドファーザー(The Godfather)」を手に取った。
- アメリカの作家、マリオ・プーゾが、1969年に発表した小説。それを原作とした映画が1972年に公開された。
- イタリアンマフィアの血塗られた歴史と哀愁を描いた名作。
これこそ本物だ、とセアンは頷く。
そうして、本当になんとなく、セアンは奥まった(黒いカーテンの向こうの)コーナーへと足を踏み入れたのである。
『ADULT』とプラカードの掲げられたその一角は、セアンの理性を一瞬にして喪失させるに十分であった。
赤いビロードの布地に堂々と鎮座したビデオの群れに、そのパッケージの表現力に、セアンはすっかり魅了されてしまった。
耳まで真っ赤に染まって立ちすくむセアンを、他の客達が訝しげに避けていた。
いわゆる、えっちビデオである。(しかし彼には免疫がなかった)
「な、なんなのかなこれは」 深呼吸をしたセアンは魅惑的な陳列棚に向って歩み寄った。
素肌をあらわにした女性がたくさん並んだ一つのパッケージ(まるで女王のようないでたちの女性がハレンチな格好で挑発している)に、恐る恐る手を伸ばしたセアン。
その瞬間、横から忍び寄った男性客がそのビデオを奪い去って行く。
「なんてことだ」 彼はようやく理解したのだ。
日本人はあらゆる局面において理性的であり、礼儀正しい。
しかし、えっちが絡めばその限りではないらしい。
「ここは戦場のようだ」 セアンは彼らの流儀に従い、ヒッソリと物色し忍び足でターゲットを奪取したのである。
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セアンがADULTコーナーで人知れず(仕方なく)物色しているその時である。
「真田幸一様、ご返却ですね」 ビデオ店の受付からそんな呼び声が聞こえてきた。
それを聞いたセアンは慌てて抱えていたパッケージを放り出し、受付を伺う。
黒いビロードのカーテンをそっと捲ると、受付から立ち去る大柄な男の後姿が認められた。
その男が自動ドアの向こうに消える瞬間、セアンは音もなく受付を横切り自動ドアをすり抜けようと駆け寄った。
その時だ。
ぴよんぴよんぴよんと電子音が鳴り響き、店内のスタッフが駆け寄って来た。
小太りの男性スタッフがおもむろにセアンの前に立ちふさがる。
(こいつ、政府の人間か?) セアンの脳裏に緊急対処手順が浮かび上がる。
しかしスタッフ達の言葉は意外なものであった。
「お客様。商品を店外に持ち出すのは禁止されているんです」
セアンは説明を受けてようやく理解した。
彼がADULTビデオ(『えっちな外人スペシャル』)を手に持ったまま、出入り口に設置されたセキュリティゲートを通り抜けたために盗難防止アラームが鳴り響いたらしい事を。
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そうしてセアンは認識を改めたのだ。
「日本のセキュリティは、国家よりも一般庶民の方がより高度に守られているようだ」と。