1話 猫にパンチ
今更驚きなんてものは感じなかった。もしかすると肝っ玉が麻痺しているのかも知れない。
小説やアニメで散々拝み続けてやや食傷気味の異世界トリップ。
もし帰宅中に次元の割れ目に吸い込まれて魔法の世界に飛ばされたら……。という妄想をあらゆる角度からシミュレーションし続けた事はあったが、まさか本当にそれを活用する日が来るとは思いもしなかった。
しかし、一つだけシミュレーションの中で計算に入れていないものがある。木造建築2階建ての我が家だ。
いくらなんでも家ごと飛ばされるのは想像もつかない事だった。後頭部を何度か掻きながら、嬉しい誤算に口元が緩んだ。
僕の父は商社マンであり、猟師でもあり、クレー射撃を趣味とする人間でもあった。そもそも我が冬月家は代々猟師の家系であり、僕も何度か猟に着いて行ったこともあった。銃にも触ったことがあったし、撃ったこともあった。本来なら違法なことではあったが、案外こういった部分で父は甘かった。
そういう訳で、僕も銃の知識についてはほんの少しだけではあるが、有している。銃を入れるガンロッカーと、弾を入れる装弾ロッカーの鍵の場所なんて考える必要もなかった。
ガンロッカーからはレミントンM700を取り出し、装弾ロッカーからは308口径のウィンチェスターマグナムを箱ごと取り出す。
レミントンM700という銃は狩猟用や競技用、軍でも使用される有名な銃だそうだ。重くないので、取り扱いが非常に楽だ。木の質感が程良く手に馴染む。非常にシンプルでオープンサイトという照準具が装着しているだけだ。ボルトアクション式のライフルなので、1発ずつ装填する。手馴れていない僕は四苦八苦しながらもようやく4発全てを装填し終えた。
これからどうするかが問題だ。当然の事ながら、携帯も電話も使用できない。水や電気も使えない。いつまでもこの家に留まる訳にもいかないのだ。
家の周囲では葉を茂らせた木々が身を寄せ合っていた。その木々のせいで、屋根の上からもどれほどの規模の森なのかを把握することは出来ない。
この森の規模、その中に住むあらゆる生き物達の具体的な情報がないままに、この森を抜けるのは自殺行為だ。その二つの問題を十分に穿鑿しないと、次のステップには行けそうにない。ということで、しばらくは森の様子を見る毎日となった。
1日経ち、2日経ち、3日経つと、段々と周囲の様子がわかるようになってきた。
まず、ここら一帯には自分のテリトリーを持つような動物はいないらしい。普通だったら縄張りの中に突然侵入者が現われると、それを排除しようとする。それがないということは、そういった生物がいないという事だろう。
次に、森だ。規模はまったく掴めないが、危険な植物や虫は周囲に存在しなかった。葉で手足を切ることに気をつければ十分に歩くことができるだろう。
問題は、本当にこの世界がファンタジーだったら、というものだ。アニメやライトノベルではお菓子を片手に呑気に構えていればよかったが、現実ではお菓子のかわりにライフルを持って構えていなければならない。もしかすると魔獣等物騒なものもいるかもしれない。……銃は弾き返されないだろうか。
ちょっぴり不安になった、3日目の夜だった。
※
……感じるのは、不安。未来に怯えるこの子の姿がみえる。異なる世界から喚ばれたあなたにとって、この世界はあまりに静か過ぎたのね。本当に、可哀想な子。顔つきはもう立派な大人。けれど、眠りに身を委ねる姿はまだ幼く、救いを求めているようにも見える。この子……いいえ、ハジメにとってこれはまだ始まりにすぎない。平和な日常はもうここには、ない。きっとあなたが帰れる手段は……。
私が、あなたを護ります。……いいえ、気にしなくていい。私はもう十分にこの森で平和を謳歌してきた。最後に少しくらい、迷子の子の手助けを……ね。ふふふ、あなたはきっと驚くでしょうね、ハジメ。でも、それでいい。
楽しい毎日になりそう。
※
気配を感じた。とても温かく、母性的なものだ。意識が覚醒する前から、ずっとその気配を感じていたような気がする。
突然の急展開に翻弄され続けた僕の全てが、ゆっくりと元に戻っていくような気がした。
――目を開けた。飛び込んだのは、二つの瞳。つぶらな緑の瞳は、僕を一点に見つめて離さない。絶えず瞬きを繰り返し、僕を心配そうに見つめている。ピクピクと動く鼻に、絶えずゆらゆらと動く尻尾。
それは……それは、見紛うことなく、猫だった。いや、こちらの世界ではそう呼ばないのかも知れないが。
仰向けになった僕のお腹の上で、小奇麗にまとまり鎮座している。
恐る恐る右手で触れてみた。灰色の、毛並みの良い猫の手触りは、極上だった。次に頭を撫でる。気持よさそうに目を細めるこの子を見ていると、生きる気力がみるみる湧いてくるような気がした。
「……お前どこから来たんだ?」
「?」
「どこから来たんだ?」
猫が窓の向こうを見つめる。そうだよな、外からしかあり得ないな。ということは、寝ている間に入ってきたのか。戸締まりはしていたはずなんだが……。時計を見ると、8時を指していた。猫をを両手でだきかかえて、ベッドの下に移動させた。上半身を起こし、大きくあくびを一つ。どうやらこの世界は、思っているほど恐ろしい場所ではなさそうだ。
やっとテンプレート展開がやってきた。あくびと一緒に、いつのまにか安堵の息をもらしていた。どうやら生存フラグは立ったらしい。
猫。僕の住んでいた世界ではこの姿形をした動物をそう呼ぶ。異世界ではどう呼ぶかは知らないし、猫の姿をしているが、猫とは決定的に異なる特徴を持っているのかも知れない。灰色の毛並みはロシアンブルーのようだ。というか、まんまの容姿といえよう。
気の抜けた炭酸水と、父の部屋にあった焼酎を混ぜたよく分からない飲み物を口にする。水分は限られているので、酒だろうと必要なのだ。猫はベッドの上で丸まっていた。
なぜだかよくわからないが、僕は気に入られたらしい。後ろをずっと着いてくるのだ。トイレの時も着いてきたものだからたまらない。
「お前はこの森に住んでいるのか?」
にゃー、と炭酸水に負けないくらい気の抜けた返事をしてくれる。僕の言葉がわかっているみたいで面白い猫だ。
「そうか。この森は安全な場所なのか?」
頷く。絶対言葉を理解しているとしか思えないリアクション。……流石異世界の猫、といったところか。
しかし、何故だかとてもこの猫には懐かしいものを感じた。そう、こんな異世界に飛ばされる前の何気ない日常をそのまま体現化しているような……。
「お前、名前はあるのか?」
首をかしげる。
「じゃあ、つけてもいいかな?」
にゃー、と一声。同意したということでいいだろう。
「みゃーこという名前はど」
猫パンチを喰らった。どうやら気に入らないらしい。
「イタイイタイ、気に入らないか。んー……セタ、はどうかな?」
アイヌ語で犬、という意味らしい。とある親戚の兄妹から教えてもらった言葉だ。猫に犬、とつける感性を、きっとこの子は理解してくれる! なぜだか、そういう確信があった。
前足を何度も舐めてから、猫は頷いた。
「よし! 君の名前は、セタだ。よろしくなー、セタ」
こちらに抱き寄せワシャワシャと撫でる。セタは迷惑そうに鳴いてから、僕に盛大なねこパンチをお見舞いした。