12話 Welcome to Underground 後編
この世界でも取り調べは行われる。勿論のこと、人権に基づき云々……という日本並に丁寧なやり方ではない。
「コノヤロウ!」
僕の顔に鋭い一撃が放たれた。一瞬だけ何も考えられなくなって、急激に痛みが走った。ラッセルさんとの特訓で鍛えられたからと言って、流石にキツイ。
目の前にいる男は薄暗いランタンの照明のせいで、顔をよく観察することは出来ない。無精髭がモミアゲから顎までまんべんなく生えている小太りの男だという事はわかる。彼が放つパンチも一つ一つは軽いが、何度も重なるとボディブローみたいに後から効いてくる。
ラル達の一件を彼らが察知してからというもの、僕に手を出す数は明らかに増えていた。僕は何度も自警団に所属する者と主張しても、「確認中」と言われるだけで、説得力は無いみたいだった。
モルド村の事件がこの事に拍車をかけている。目撃者もおり、その後ラルから逃亡して手配されていたのだ。この一件だけでもどうやら牢獄入りは確定しているらしい。
そして、今は完全に竜の息吹のメンバーだと思われていた。これで僕が自警団の一員と認められても、僕の容疑が晴れることはない。自警団に入団したのはつい最近の事だ、竜の息吹のスパイとでも言われると、それに反論できるような口も証拠もない。このまま獄中で何年も過ごさないといけないのだろうか。もしかすると、殺されるのかもしれない。そんな考えが、僕を蝕み始めていた。
嗅ぎ慣れたふん尿の香り。誰の垢かも判らない染みだらけのベッドも今や慣れてしまった。
――あれから、何日経ったのかもわからない。取り調べを行う部屋も、この獄中も全て地下だ。当然の事ながら時間間隔は狂い、獄中と取り調べ室の往復に、すっかり辟易していた。
事情聴取という名分のもとで行われるのは、暴力だ。
確かに、ラルは死んだのだ。気持ちはわからないまでもない。むしろ、痛いほどによくわかる。あの時の胸中のモヤモヤは、他の何者でもない、憎しみと後悔だったのだから。
ジークに対する強い憎しみ。そして、もう少し早く着いていれば。もっと力があれば……。
出される食事は粗末なものだ。一切れのパンに、底が見えるくらい薄いスープ。パンは木炭デッサンで使った後みたいに黒ずんでいて食べたくなかったが、生きるためには仕方がない。
"生きるため?"その言語に違和感を感じた。
今の僕に、生きる意味はあるのだろうか。目の前の食事を見つめながら、考えを巡らせる。
この20年。散々だった気がする。日本でも何度か死線を彷徨う経験をした。それに加えて、空想の世界でしかあり得ないような異世界トリップなんてものにも遭遇してしまった。そして、今は牢屋に放りこまれて、何時くるかもわからない死神の出迎えに怯えている。
死刑は無くとも、懲役100年と言われようものなら、死刑宣告と等しい。もしかすると、手足を斬られたり、目を潰されるかもしれない。その後の人生なんて、想像したくもない。
「家に帰りたい……」
思わず、そんな呟きが開いた口から漏れる。溢れてくる涙をぐっとこらえつつも、目の前の食事をかきこむ。殴られたせいで、そこかしこ身体にガタが来ている。口内も例外ではない。食事が、しみる。
「ううぅ……」
痛みで、涙が零れた。一度零れてしまうと、後は止めようがなかった。視界はグチャグチャになり、脳裏に浮かぶのは穏やかな日常。異世界に飛ばされることなく、なんてことのない大学生活を送るはずだった。
それが、壊された。何が原因かは知らないが、とにかく壊されたのだ。そのお陰で平穏な日常を奪われた。誰にもぶつけようのない抑えきれない哀しみが、ぐるぐると頭の中を回る。
そうして、意識が段々と遠のいてゆく……。
※
――眩しい。照りつける太陽なんて、何日ぶりだろうか。暖かな陽気が、とても心地良かった。
周囲を見渡して把握する。ここは、また例の夢の中だった。
そして、目の前には前と変わらぬスフィアが居た。
「……もう時間がありません。どうですか? あなたの、考えは決まりって……えっ?」
ぎゅっと、スフィアを抱きしめた。咄嗟に体が動いていた。
いい匂いだ。甘い花の香りが、鼻孔をかすめる。
「すみません、もう少しだけ、こうさせて下さい」
「……」
スフィアは無言で、僕を受け入れてくれた。ただ静かに、胸を貸してくれた。不思議なことに、今までの悩みや苦しみといったものが、体から抜けてゆくようだ。これもスフィアの力なのだろうか?
しばらくして、僕は胸から顔を離した。何度か目を擦りつつも、改めてスフィアの顔を見つめた。こんな美人に胸を貸してもらえたという事実に、僕の胸が熱くなる思いだった。
「事情は、判りました」
彼女は、謹直な瞳でもって見つめてくる。やはり、スフィアは何でもありなんだな、と実感させられる。
「どうりで支部に帰ってきてなかったんですね。何かあったのかと心配してたんですよ? まさか、捕まっているなんて……」
「このタイミングで訊くのもアレなんですけど……やっぱり、スフィアはセタなんですか?」
薄々と感じていた疑問を投げかけてみる。
モルド村での声。そして、変てこな夢。関連性を見出すのに、それほど時間は必要なかった。なんせあの声がスフィアと全く同じなのだから。
「ぶーっ。でも、半分正解かな。セタは私の部下みたいなものです。私は常に森の中に居るので、外の事情を窺い知ることは出来ません。なので、セタを通して外の様子を掌握しているのです。セタは私の目、みたいなものですね」
「なるほど」
合点がいく話だ。セタは時折普通の猫とは異なる動きをする。猫パンチがいい例だろう。
「どうでしょう、あなたの手で救える人生がすぐ側にあります。答えを、聞かせてください」
――生きる意味。そして、ラルの死の時に感じた大きな後悔の念。それが、複雑に絡み合い、ぐわんぐわんと頭の中で回り始める。
『家に、帰りたい』
牢獄の中、記憶に残っていたのは故郷に戻りたいという強い想いだった。狂おしいまでに湧き始めた郷愁を偽ることは出来ない。
……今まで、大事なものを忘れていたのだ。ただ、家に帰りたいという願い。この世界で生き延びることに必死になって、すっかり抜け落ちていた事だった。
元の世界に帰るためには、恐らく人を殺さなければならないだろう。そう考えたら、恐怖が先行する。……でも。
日本に帰らずして、何が本当の生だろうか? 何が原因で飛ばされたのかは知らないが、僕がある意味"死んでいる"
空想の中の主人公みたく、あっさりと異世界に溶け込み、そのまま住み着いてしまうほど日本に未練がないはずがなかった。
奪われたのなら、奪い返すまで。あまり好きではない言葉であったが、こっちの事情なんて省みずにこの世界にトリップさせられた僕からすると、この言葉以上の仕返しを、何かしてやりたかった。
僕は日常を奪われてしまった。だから、取り返さなければならない。何がなんでも、だ。
そして、スフィアに突きつけられた"竜の息吹"から捕まった村人を助けだすという試練。捕まった人たちにも、僕と同じように日常があったはずだ。身内を殺される事もなく、平穏無事な毎日がずっと続くはずだったのだ。
今、手を伸ばせば彼女たちは日常に戻れる。今やらないで、何時出来るというのだろうか。
僕の力では無理かもしれない。だけれど、目の前には、それを可能にしてくれるであろうスフィアが居る。
「僕に、力を下さい。人を助けれる力を。元の世界に帰るためにも」
「うん、いい答えです。でわでわ」
そうスフィアが言うと、その場で左手を差し出す。
「私と契約です。本来であれば……っと、なんでもないです。さっ、手に口づけを」
言われたままに膝まずき、そっと手に口をつけた。刹那、雷が落ちたのかと誤謬してしまう程の衝撃が襲ってきた。何も出来ずに、その場に倒れる。意識ははっきりとしているが、体が動いてくれないのだ。
眼界から消えたスフィアを捉えようと瞳を動かし、ようやく彼女を視野に入れる。彼女はじっと目を閉じて、小さくつぶやいていた。その内容は、あまりに早過ぎるために、聞き取れない。耳鳴りがガンガンしているのも一役買っているだろう。ただ、そんな散々な症状には見舞われてはいたものの、僕の体の奥底に何か神聖な領域が形作られたように不思議な空間が出来た。
スフィアのつぶやきが終わってから、体は不思議と元に戻った。手を握ったり開いたりして感覚を確かめる。前と違ったところはない。ただ、自分の体が前と変わった確信が何故だか持てた。
「ふぅ……3回目だったから流石に手慣れたものね」
妙にすっきりした表情で、スフィアは大きく背伸びをした。3回目という言葉が気にはしたものの、僕は自分の体に感じる不思議な感覚のお陰で訊く気にならなかった。
「さて、これで完了。あなたには私の力が使えるようになりました。やった!」
「その力って、この変な違和感の事ですか?」
そう僕が言って自身の体を指差すと、スフィアは少し眉根を寄せた。
「うーん、この短時間で力が宿ったので、体もそれを違和感として捉えてるみたいですね。それは時間が解決してくれますよ」
「そうでしたか。……で、その肝心な"力"ってなんですか?」
ニヤリ、とスフィアは笑う。その表情はいい年こいたおばさんが、親戚の坊主に見合い話を持ってくるときの顔と非常に酷似していた。
「須藤さん……!」
「へ? なんで須藤さんが今出てくるんですか?」
先程の表情を崩して、元の垂れ目がちの母性あふれるスフィアに戻った。やはり美しいという形容がぴったりな人である。
「あ、いや、なんでもないです。というか、どうして須藤さんの事をご存知で?」
「ふっふっ、それが、私の"力"なんですよ。……ごほん、私の力とは――」
そうして、僕は己に宿った力を知ることになる。
一つ一つの言葉を噛み締める度に、もしこの話が事実なら、僕はとんでもない人と契約してしまったんだな、と軽く戦慄を覚えた。