10話 踏み出す勇気
私たちは疲弊しきっていた。奴隷のようにこき使われないものの、確実に奴隷として売り飛ばされるという未来が、私たちの精神を削りきっていた。何よりも、愛すべき故郷を奪われているのだ。悲しみは深く、この場にいる全員が身内の死を目の前で見てきた。
――竜の息吹に襲われてから早いもので、もう半月が経とうとしている。出されるのは粗末な食事。牢獄は糞尿の臭いが絶えず残り、冷たい地面はじわじわと体力を削る。薄暗い洞窟の中。ここがどこかもわからず、今が朝なのか夜なのかもわからず、犯されるのではないか、殺されるのではないかと、常に怯え続けている。部屋の片隅で服を壁に引っ掛けて首を釣った人もいた。今の3分の1は連れてこられたときに別室に隔離されて、二度と戻っては来なかった。
「アーリス、食事です」
「ありがとう、ティエラ」
そう私に声を掛けてくれたのは、私が生まれた時から世話係をしてくれているティエラだった。妙齢を過ぎてはいたものの、それでも目鼻立ちがハッキリとしていて、愛嬌がある。最近大人の憂いを帯びてきた彼女の美貌には時々ハッとしてしまうことがある。だけど、今のティエラは、そんないつもの様子は微塵も感じさせられなかった。やつれている。それに加えて、彼女には美しさがなかった。食事も満足に取れず、体にも精神にも影響が出ているのは彼女だけではない。私を含めて、全員がそうなのだ。
「連絡は、取れないの?」
誰にも聞こえないくらい小さな声でティエラに問う。
「はい、増幅器を襲撃の時に紛失してしまって……それにこれが」
そう言って首を指す。そこには黒々とした禍々しい首輪が嵌められていた。もちろん、私にも他の人の首にもこれがついている。
ティエラによると、人を服従させるための魔法が仕掛けられているという。これで奴隷商に売り払うつもりなんだろう。だが、完全に魔法を浸透させるには一月は必要らしく、その間をこの牢獄の中で監禁しているという訳だ。
「一応、この場にいる全ての首輪の効力を潰しておきましたが、魔力の消費が激しくて……」
「ありがとう。でも、増幅器がないんだから無理しちゃだめよ」
「ええ、承知しました」
そう言うと、粗末なパンとスープを平らげ、ティエラは地面に横たわった。
あと半月。発見に気づいてくれればいいのだが……。
※
「――つまり、ジークは竜の息吹の一員だと?」
「そうです」
即答。立っているのに疲れたのか、スフィアは座り込んでいる。今はお互いに向きあって話している状態だ。
「彼は殺人に快楽を抱く傾向です。彼の"記憶"を覗いてみましたが、母親は娼婦で、父親はおらず。常日頃暴力を振るわれていたようですね」
「酷いですね……」
「いいえ」
キッパリ、とスフィアは断言した。
「あなたが居た世界とは違って、こういったケースは珍しくありません。治安も、経済も、政治も、科学力も全て低い水準に位置します。ハジメさんの世界と比べて、ですが。戦争の傷跡は未だに深く残っていますよ。さて、話に戻りましょう」
そう言って、フィアはパチン、と手を叩いた。
「ジークの記憶を覗いてみましたが、どうやら町外れの洞窟に女子供を拉致しているようです。奴隷として売るために」
この話も予期はしていたので、さして驚きはない。なにより、こうして言葉だけのやりとりだからこそ、まだ何も感じないのだろう。
「……奴隷っていうのも、この世界では当たり前のように存在を?」
「残念な事実ですが、そうです。この世界では奴隷商売というのは律すべきものではありません。身分によって格差があり、それに伴って不幸が下に溜まってゆくのです」
「その話を僕に聞かせて、どうするつもりなんです?」
力を貸す、という事は間違いなくフィアが今話した事と関連性があるだろう。面倒な事とは、盗賊から女子供の開放という線で間違いない。改めて聞くのもいじらしいとは思ったが、それでもフィアの口からどうするつもりなのかを聞きたかった。
「彼女らを救出してください」
やっぱり。
「……断ることって出来ないですかね?」
「却下です。全力で却下です!」
気持ちは確かに助けに行く側に向いていた。だが、それはあくまで気持ちだけだ。実際に行動するとなると、僕は命を天秤に掛けることになる。死が今よりも、もっと近くなるのだ。恐怖しないはずがない。モルド村の時は一刻一刻が争う出来事だったので、考える時間がなかった。だけど、今はそうじゃない。
想像する。銃を片手に盗賊のアジトへ乗り込む姿を。想像の中の僕は、果敢に敵に挑んで、銃で敵を撃っている。
――暗転。
弾が切れて装填している僕に、狂ったように剣を振り回しながら男達が近づいてくる。抵抗出来ない。……刺される。切られた、柄で打たれた。耐え切れずに地面にひれ伏す。そして、僕は死んだ。
正直に言うと、怖い。怖いんだ。殺すことも、何より殺されることが。死の先に待っているもの。異世界に飛ばされ、そして本当の意味で"生きる"事を強要される。
確かに、僕は分かっていた。モルド村の惨劇を見てから、ここは甘っちょろい物語の世界とは違うと理解していた。
「……気持ちは判ります。ハジメさんの世界とココは全く違う。生きるためには他者を蹴落とす気概じゃないと、逆に蹴落されてしまうような場所です。私が今、お願いしたことも出来ないようであれば、ハジメさんは間違いなくどこかで死んでしまうし、元の世界にも戻れない」
「ええ、分かってますとも。……けど、やっぱり怖いです。こうして言葉にするのは恥ずかしいですけど。……本当に」
恥ずかしい。こうして怖いという言葉を口にするのは、己の勇気の無さを露呈しているのだから。でも、紛れもない本心だ。人を助けることはしたいが、死ぬのは怖かった。
「んー、判りました。では、こうしましょう。まだ奴隷商に引き渡されるまで時間があります。これからについてをじっくりと考えてみてください。今の気持ちのままだと、力もどこに矛先を向けてしまうかわからないですし、何より力には持つ責任があります。あなたが強くなると、強くなった分だけ、背負うものも重くなります。……また夢で逢いましょうね。おやすみなさい、ハジメさん」
フィアがふわりと片手を左右に振ると、どうしようもないくらいに睡魔が襲ってきた。抵抗する間も与えられず、僕は眠りの世界に戻った。
※
「治安維持で手が回らないから調査が出来ていない?」
目の前にいるディランが、モルド村の事件以降の報告書を取りまとめて持ってきたところだった。とてつもない分厚さの報告書を読み上げる気分ではなかったが、これを読みきらないといけない身分である事を改めて自覚し、自分にムチを入れつつもディランから大事な部分を口頭で話してもらっている。
「ええ。ご存知のようにあの事件以降、盗賊団の活動が活発になったので。……現状では竜の息吹によって攫われた者たちの所在地を掴むまでには至っておりません」
伏目がちに話す彼の口調から、現状は芳しくないことが痛いほどに伝わってくる。
後退し始めている髪の毛が普段よりもより強調されていて、ディランも苦労事が多いのだと少し心配になった。
「左目のオヅチはどうした?」
少しずつ苛立ちつつある己を律しながらも、質問を投げかける。この状況を打破してくれるであろう、旧知の友の名を挙げて。
「はっ、現在他の案件で首が回らないらしく」
「チッ……不味いな」
無意識のうちに舌打ちが出てしまった。
大体、城塞都市である首都の中のみならず、周囲の村落などにも警備を手を回しているがおかしい。常々思っていた事だ。こうして都市の治安維持すら満足に行えず、現段階でも自警団の力を借りている時点で、城外に手を回している余裕は無いのだが……。
「ああ、後お耳に入れておきたいことが」
ディランの座る椅子が、小さく軋んだ。先ほど出した酒にチビチビと口をつけている。彼が槍術において、国内で敵なしと呼ばれる程の手練だと一切感じさせられない哀愁を背負っていた。
「何だ」
「ジークが捕まりました。自警団が現在身柄を預かっています」
「ふむ、いい報せだな。これでゆっくり眠れる。で、ジークを引き取ったのか?」
「いえ、先ほど言ったように城外に大半の兵が出ていまして……」
ズキズキと頭の中央部が痛い。悩みの種が増えると自然と頭痛も増えてくるものだ。この調子だと、半年後には生きていられない位頭痛が悪化しているかもしれない。
「……そうだな。ラルとハースに行かせろ。暇だろうが忙しかろうが関係ない。二人に行かせておけ」
「了解しました」
深く一礼してから、ディランは部屋を出て行った。グラスを返してもらっていないが、いつものことだ。明日くらいには戻ってくるだろう。机の上に置いてある酒瓶が一つ減ったのは頭痛の弊害みたいだ。少し眠らないと仕事にならない。
天井に引っ掛けられたランプが、机の上の山のような書類を照らし出す。
「はぁ……」
ため息を一つ。今夜も、よく眠れそうにない。
※
目が覚めてから、気分は酷く滅入ってしまった。寝たという実感が全く感じられず、一晩中話し込んだようだ後の疲労感だ。サークルの仲間と一晩呑み明かした後の気分と酷似している。二日酔いを除いて、だが。
服を着替え、歯を磨き、昼下がりの空を見上げる。底なしに明るい空と比較して、僕は井戸の底に棲むカエルのようだった。あまりに眩い太陽に、思わずため息が漏れてしまう。
「どうしたのよ、そんな暗いため息なんかして?」
ミルだ。運動でもしていたのか、着用している薄緑のタンクトップはうっすらと透けていた。敢えて何も言うまい。頬は上気していて、息も心なしか乱れている。
「ああ、ミルか」
「ヤダ、そんな顔で話しかけないでもらえる? せっかく走りこみの後で気分も爽やかなのに、全部ブチ壊しよ」
「ごめん」
「……どうかしたの?」
僕はミルを食事に誘った。彼女も丁度お腹が空いて居たようで、喜んで了承してくれた。
「殺し? あるわよ私だって」
オープンテラスで食べる食事も中々美味い。燦燦と照りつける太陽の暖かさを感じながらも、僕らは目の前に出された料理に舌つづみを打っていた。
話の内容は、殺しについて。僕が持つ"恐怖"の中で、大きなキャパシティを占めるものだ。
「今は自警団に落ち着いているけど、もっと昔はあちこち回ってはブチ殺していたわね。それこそ一日一回の頻度でね」
「初めて殺したときのこと、覚えています?」
恐る恐るそれを言うと、ミルは眉間にシワを寄せて、遠くを見つめ始めた。
「あーっと、えーっとね。10歳だったかな? 丁度10年前ね。私、教会の孤児院育ちだったんだけど、盗賊が押し入ったのよ。教会のシスターとか、牧師は皆殺し。子供たちは地下室に避難させられて難を逃れたんだけど、丁度私は運悪くお手洗いの最中でね。……一人、女子便に入った変態が居てね。そこで大乱闘。最終的に角材でタコ殴りよ。気づいたら相手は血まみれ。私も返り血でいっぱい。で、騒ぎを聞きつけたその街の衛兵が運良く救助に来てくれて助かったというワケ。わかる?」
彼女の口調は、極めて明快だった。内容は恐ろしいほどに暗く、悲惨なものではあったが、その話し方のせいで、普段の何気ない会話のやり取りをしているような錯覚が僕を襲った。
「んー、ハジメの生まれはロビンソンって言ってたわね。どんな所なの?」
思い返す。別に、ロビンソンを歌っている有名バンドの事ではない。地球のことだ。
平和だった。モチロンのこと、自分が住んでいた日本での話だけれど。
確かに貧困や格差、近年ではサラリーショックという奴で新卒の大学生でさえ、未来も輝かしいものではなく、暗く先の見えないものに変わりつつあった。
――でも。少なくとも衣食住に不自由なく、ミルのように両親の死を経験することも無く、時たま回覧板に乗っている近所に出没する露出狂くらいしか警戒すべきことはなかった世界だ。
「そっか。とてもいい所じゃないの。いつかハジメに連れて行ってもらいたいわね」
多少は脚色したものの、僕が住んでいた世界をミルに話した。彼女は心底羨ましそうに僕の話に耳を傾けた。僕も異世界からの訪問者だと察せられないように、慎重に言葉を選び、この世界にロビンソンという小さな村を作り上げることになった。
「ま、深い所までは聞かないわ。そして、悩み多きハジメにアドバイス!」
そう言って、人差し指を立てた。
「生きてる意味を考えてみて。そうしたら踏ん切りがつくかもね。少なくとも私は、そうやって殺しとは向き合ってきたの」
考えたことも無かった。
中学生だった頃、死とはなんだろうかと考えていた時期があった。思春期をこじらせたものだっただろうが、生きる意味に近いことを考えていたのはあの時だけのような……。
考えていたことと言えば、大学を卒業してどうすればいいのか。どんな仕事に就くのだろうか。……生きる事と向きあうというより、将来の身の振り方ばかりを考えていた。
そう思い返してみると、情けなくなる。目の前にいる同い年のミルは、幼い時から生と死に向き合い、苦悩してきたのだろう。僕とは本当の意味で、住む世界が違う人だ。
そんな彼女が、生きる意味を探せと言った。
そういえば、僕の生きる意味って何だ?
――警笛。
ゆったりとした雰囲気が流れる通りを、瞬く間に切り裂いた。
ハッとする。自警団ではスコッパを使用するが、この国の兵士は警笛を使用する。つまり、この近辺で何かあったということだ。一瞬にして店内の響動きが収まった。
ミルと目を合わせる。彼女はいち早く行動していた。椅子から跳ねるように飛び上がり、机の脇に掛けていた剣を腰にさす。一連の動作は小慣れていて、瞬きひとつで全てが終わってしまうくらいあっという間の事だった。
脇目もふらずに店を出て行くミルを見てふと我に返る。着いて行かなければ。
いつの間にやら僕も店を飛び出していた。背後から聞こえてくる"勘定"の二文字を背中一杯に受け止めながら、ミルを追いかける。
警笛の鳴った場所は掴めなかったが、ミルを追いかけていけば現場には到着できるだろう。先ほど食べたミートパスタで全身が満たされるような不思議な感覚が襲う。息も上がり始めていたが、いくらでも走れるような気分だ。高揚しているのは自分でも判った。抑えきれない好奇心。今は、それに加えて激しく走っているものだから、身体がこの動悸を好奇心の表れと受け取ったせいか、これまでにない高ぶりを見せていた。
角を幾度も曲がり、その都度にミルを見失いそうになる。急激な運動にもかかわらず、無事にミルに着いて行けている自分に気づいて、やっぱり身体がこの世界に順応し始めている事に自覚した。
「あっ!」
50メートル程先をひた走るミルの動きが止まった。遠くからでも聞こえる芯のある声は、見てはいけないものを見たような雰囲気を纏っていた。薄暗く、また幅の狭い路地裏のような通りからでは、向こうの様子を見ることが出来ない。自然と地面を蹴る足も早くなる。
そして、僕は直線の長い通りを抜けた。どうやら住宅街に囲まれるように作られた小さな広場らしい。窓からは洗濯物が風に揺られてはためいていて、ある種の芸術作品のようだ。
中央には噴水があり、そこに飾られている女性の真っ白な彫刻の手からは水がさらさらと流れていた。
身体は火照り、身体の中心部が燃えるようだ。肩で何度も息をするが、収まる気配が無い。
ミルの肩越しに見えた。地面に倒れている姿が二つ。
一つは見知らぬ兵士。着用している鎧のプレートが袈裟斬りを受けたかのように、左肩から右脇に掛けて、削りとったように凹んでいた。幸いなことに、この鎧のおかげで致命傷にならずに済んだのだろう。顔は苦痛に歪み、うめき声を上げていた。
そして、もう一つの姿。
鮮やかな血が、まず目に入った。致命傷だ。素人の僕でもわかるくらい出血している。
段々と彼の下に、変色しつつある血液が溜まってゆく。
仰向けに倒れていたので、彼の斬られた跡と顔が、よく見えた。
「ラル……」
忘れもしないあの顔。無邪気で、猫パンチでコロっと気絶させられた、あの青年。
その瞳は、抜けるような青空。その遙か向こうをじっと見つめていた。